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本田宗一郎の言葉

本田宗一郎の言葉

思想・哲学を重視する本田宗一郎

 「近代資本主義の父」渋沢栄一が17歳の時、父親の代理で代官に会いにいきました。代官は、領主への御用金(寄付金のようなもの)を五百両出せと言います。その要求を若き渋沢栄一は断ります。すると代官は、罵詈雑言を渋沢に浴びせました。相当、ひどい言葉だったようで、この時の悔しさや出自による差別の愚かさを後々まで家族に語ったと言われています。

 その渋沢栄一が、66歳になる明治39年(1906年)、本田宗一郎は浜松で生まれました。父親は鍛冶屋で、貧乏暮らしでした。隣の家は裕福で、五月の節句になると豪華な武者人形が飾られました。

 本田少年が人形を見たくて隣に行くと、「お前みたいなきたない子は来ちゃ行けない」と追い返されました。この時の悔しさを、昭和37年(1963年)日経新聞『私の履歴書』に書いています。

本田宗一郎
本田宗一郎

「金がある、ないで人を差別する、なんでそうなるのかと疑問を持ったことをいまだに覚えている。(中略)これは現在の私の事業経営のうえでも、人間だれでも皆平等でなければならぬという考え方になって現れている」

『本田宗一郎 夢を力に』(本田宗一郎 日本経済新聞社)

  この言葉に見られるように、幼い頃の体験は人間形成に大きな影響を与えます。その人の哲学や思想をつくります。世界的企業を一代で創り上げた本田宗一郎は、天才的技術者でありながら、その哲学・思想を尊ぶリーダーでした。

『得手に帆をあげて』(本田宗一郎 三笠書房)
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本田宗一郎
本田宗一郎

「思想が正しくなければ、正しい行動は生まれない。何をするかより、何を考えているかが重要なのである。行動という刃物が、利器となるか、凶器となるかは、その行動を支える思想あるいは理論が正しいか、正しくないかによって決まるのだと思う」

『得手に帆あげて』(本田宗一郎 日本経済新聞社)

 渋沢栄一が「道徳と経済の両立」を説いたように、本田は「哲学と技術の両立」を重視し、「思想なき技術」への警鐘を鳴らし続けた人物です。

 本田宗一郎は、平成元年(1989年)、「米国自動車殿」に日本人で初めて殿堂入りしています。これは、トヨタ自動車の豊田英二より先のことです。「米国自動車殿」には、ヘンリー・フォード、トーマス・エジソンなど錚々たる名が並びます。いかに本田宗一郎が世界から高い評価をされていたかがわかりますね。

本田宗一郎の名言
根っからの技術屋である私には、若い世代に残すような特別な言葉は持ち合わせていない。強いていえば、人を馬鹿にせず、人に馬鹿にされず、七十八年間、それでやってきた。

『やりたいことをやれ』(本田宗一郎 PHP研究所)p32


盟友藤沢武夫との出会い。

世界のホンダの始まり。 

 本田は高等小学校を卒業し、東京にある自動車修理会社「アート商会」に就職します。この頃から天才的技術者の片鱗を見せ始めていました。

 その技術を認められ「アート商会」の主人に「のれんわけ」してもらい、昭和3年(1928年)浜松で「アート商会浜松支店」を開業します。

 アート商会の仕事は「下請け」が基本で、血気盛んな宗一郎は、次第に「下請け仕事」に物足りなくなっていきます。そこで、昭和14年(1939年)、ピストンリングを製造する「東海精機重工業株式会社」を創設します。

 ところが、戦後、仕事がなくなっていまい、「東海精機」はトヨタ自動車工業に売却します。仕事がなく1年もの間フラフラしていました。その後に、昭和21年(1946年)織物機械を製造する「本田技術研究所」を創業します。

 ところが、織物機械の製造はうまくいかない。この時、開発した通称バタバタ(補助付きエンジン自転車)が大ヒットして、昭和23年(1948年)、「本田技研工業」が誕生するのです。これが「世界のホンダ」の始まりです。

藤澤武夫に出会う。

 同年10月、生涯の盟友となる「藤澤武夫」と出会います。本田42歳、藤澤38歳の時でした。藤澤がいなければ「今のホンダはない」。そう断言できる人物です。ふたりの年齢を考えると、若きベンチャーの旗手というより「中年の星」といったミドルからの起業ですね。

『経営に終わりはない』(藤澤武夫 文藝春秋)
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 藤澤は、本田のことをこう評しています。

 社長には、むしろ欠点が必要なのです。欠点があるから魅力がある。つきあっていて、自分のほうが勝ちだと思ったとき、相手に親近感を持つ。理詰めのものではだめなんですね。

 あの人には、それがあります。欠点があるから他人から好かれないかといえば、あれだけ人に好かれる人もめずらしい。社員からも好かれている。欠点はたくさんあります。これは、うちの連中、百も承知している。口に出さないだけです。

 私のほうが欠点は少ないでしょう。だが、そのぶん魅力がない。だから、社長業は落第です。

『経営に終わりはない』(藤澤武夫 文藝春秋)p100

 本田宗一郎は、社長でありながら、引退するまで社長印にさわったことがなかったと本に書いています。本当だったかどうかは別にしまして、それほどまでに藤澤武夫のことを信頼し、経営を任せていたのですね。

 創業期、本田は作業着を着て、常に工員たちと油にまみれ現場にいました。技術は本田で、経営は藤澤。ふたりは役割分担を明確し「本田技研工業」を成長させていったのです。

まっつん
まっつん

 本田に藤澤がいたように、ソニー創業者井深大にも盛田昭夫がいました。井深が技術者で、盛田がその技術を世界に売り込みました。

 これと同じ形が、iphoneのアップル社ですね。スティーブ・ウォズニアックが天才的なプログラマーで、彼と開発した製品をスティーブ・ジョブズがマケーティングを行い、キャッシュに代えていきました。

 社長と専務、部長と課長、課長と係長など、互いの強みを把握し任せるべきは任せ切ることでリーダーシップがより有効に機能します。権限(パワー)を独占することなく解放することで、リーダーシップは組織に共有されていくのです。

 「ダイバーシティ・マネジメント」(人材の多様性)の必要性が説かれ、異なる人材の専門的な能力をいかに結集させるかが問われています。本田はその本質を理解していました。

本田宗一郎
本田宗一郎

「私は東海精機時代はもちろん、それ以前から自分と同じ性格の人間とは組まないという信念をもっていた。自分と同じなら二人は必要ない。自分一人でじゅうぶんだ。目的は一つでも、そこへたどりつく方法としては人それぞれ個性、異なった持ち味をいかしていくのがいい、だから、自分と同じ性格の者とでなくいろいろな性格、能力の人といっしょにやっていきたいという考えを一貫して持っていた」

『私の手が語る』(本田宗一郎 講談社)

 この言葉からわかる通り、本田宗一郎は、イエスマンをそばに集めて凋落するリーダーとは一線を画していた、と言えます。

本田宗一郎の名言
人間というものは、面白いものであり、不思議なものであり、必要のない人間というのはいないのである。

『やりたいことをやれ』(本田宗一郎 PHP研究所)p70


経営は、社会への恩返し。

 本田宗一郎が今、生きていたらリーダーとして通用していたでしょうか。

 と、書くのも彼の仕事に対する厳しさは、半端ではなかったからです。「バカヤロー」「妥協するならやめちまえ」「もういいから明日から出てくるな」。

 そんな言葉で、毎日のように社員を怒鳴り散らしていたと言います。今ならパワハラで訴えられてしまうかもしれませんね。

 でも、藤澤が証言しているように、部下はついてきたし、皆から好かれていたのです。その理由として、本田には冒頭の言葉にあるような、「人は平等」という人間本位の思想、従業員を大切にする哲学があったこともあげられると思います。

まっつん
まっつん

 部下を必要以上に怒鳴ってしまった翌日など、本当に申し訳なさそうな顔をして工場に出てきたそうです。現場で徹夜が続き、夜食にさち夫人の作るうどんが振る舞われると、本田は最後尾に並び、「先にどうぞ」と言われても、絶対に前にいこうとしなかったと言います。そんな姿をみて、部下たちは本田宗一郎のもつ人間尊重の哲学を感じとっていたのでしょう。

 昭和36年(1961年)、埼玉に研究所の新社屋が完成しました。その案内書に本田はこう書きました。

「企業発展の原動力は思想である。従って、研究所といえども、技術より、そこで働く者の思想こそ優先すべきだ。真の技術は哲学の結晶だと思っている」
『私の手が語る』(本田宗一郎 講談社)

 本田宗一郎は、素人にも「技術」のことを、とてもわかりやすく説明できました。専門用語を並べて煙に巻くタイプではなかったのです。この力に驚いていた藤澤が、「本にでもまとめたら」とけしかけて、当時、ベストセラーとなった『得手に帆あげて』(本田宗一郎 日本経済新聞社) が生まれました。

 その後のいくつかの著作を含めて、本田宗一郎は、後世に伝えたい言葉を残しています。彼が思想・哲学をとても大切にしたからでしょう。

 松下幸之助と並び、昭和の名経営者として本田宗一郎は抜群の人気を誇ります。もし、くじけそうになったら、本田宗一郎の言葉を思い出してください。

本田宗一郎の名言
苦しいときもある。夜のねむれぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、オレはダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。しかしその悩みを乗り越え、一歩前に進んだときの喜びは大きい。それがまた、次の壁に挑戦する意欲につながるのだと思う。

『やりたいことをやれ』(本田宗一郎 PHP研究所)p43

(文:松山淳)

※本記事は、『バカと笑われるリーダーが最後に勝つ』(ソフトバンク新書)の原稿に加筆修正したものです。


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