ニッコロ・マキャベリ(1469-1527)は『君主論』の著者であり、イタリアのルネサンス期に活躍したフィレンツェ共和国の外交官であった。『君主論』は1513年頃に書かれ、1532年に刊行された政治学の著である。
マキャベリが官僚から追放され、再就職を願い出るために書いた論文が『君主論』である。マキャベリは生前、喜劇作家としても名声を博した人物だ。マキャベリが生きていた時代に『君主論』は評価されなかった。18世紀になるとルソーが『社会契約論』でマキャベリの名を出し、再評価が始まった。
なぜ、『君主論』は評価されなかったのか。『君主論』の言葉を取り上げながら、マキャベリの人間性やその生涯ついて解説していく。
マキャベリのキャリア
『君主論』といえば、リーダーの必読書として、現代の生きる多くのビジネスマンが読む本です。
次の言葉は、マキャベリの主張が凝縮された言葉です。リーダーの心得として永久不滅の箴言ですね。
「国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教にそむく行為をも、たびたびやらねばらないことを、あなたには知っていてほしい。したがって、運命の風向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心がまえをもつ必要がある。そして、前述のとおり、なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪にふみこんでいくことも心得ておかなければならない」
『君主論』(マキアヴェリ 池田廉 訳 中央公論社)
世の中、不条理です。ビジネスの現場も時に、善だけでは通用しない時もあります。そんな時、「悪にふみこんでいく」覚悟が求められます。
「悪」の実践をすすめているのでありません。自分が「悪」と考えていることが、大局から見た時に「善」になる可能性があるので、変幻自在のしなやかな心を持つべきと、教えているのです。
部分最適より全体最適を考えるのがリーダーであれば、全体最適を優先することは部分最適を犠牲にすることです。部分最適を犠牲にする行為は、「悪」と見られます。しかし、その「悪」は、全体最適という「善」を生み出します。部署の利益を犠牲にしても、会社全体の利益を考えていかなければならない時があるものです。
『君主論』の著者ニッコロ・マキャベリは、1469年イタリアはフェレンツェ共和国に生まれ、1527年に亡くなります。日本は室町時代であり、約500年も前の人物です。
マキャベリが生きた時代のイタリアは、ルネッサンス期です。モナリザを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチやダビデ像の作者ミケランジェロは、フェレンツェ生まれであり、マキャベリと同じ街の空気を吸っています。
マキャベリは29歳でフィレンツェ共和国の第二書記局書記官長となりました。突如として、歴史の表舞台に姿を表します。日本でいう霞ヶ関の官僚ですね。第一書記局が第二書記局より格上であり、マキャベリの扱いとしては課長クラスといえます。
マキャベリは大学を出ていないノンキャリなのです。官僚組織のトップは、今の日本とかわらず1流大学の出身者で占められていました。教授や上層階級に位置する名門出の人間たちばかりです。
そう考えると、マキャベリが第二書記局書記官長になれたのは、異例中の異例といえます。
名家ではないマキャベリは弁護士や大学教授とならび選出され、投票の結果、書記官に選ばれます。しかもそれまで、無職でした。本来であれば選出されることすら難しいはずです。
「なのに、なぜ、マキャベリが?…」。諸説ありますが、未だ謎であり定説はないとされています。
フェレンツェの街で、若き日のマキャベリは「かなり優秀な人間である」と、知る人ぞ知る傑物だったのではないでしょうか。
その仮説を裏付けるかのように、書記官マキャベリは学歴をはねのけ力を発揮します。特に外交交渉の場で、マキャベリは欠くことのできない存在となっていきます。
当時のイタリアは、五大国とその他小国に分かれる群雄割拠の時代でした。五大国とは次の国です。
・フェレンツェ共和国
・ヴェネツィア共和国
・ミラノ公国
・ナポリ王国
・教皇領
マキャベリが生まれる前の1454年、五大国は「和平協定」を結び、イタリア全土は比較的、平和な時代が続いていました。比較的と書いたのは小国との小競り合いは常にあったからです。
フィレンツェ共和国は、ヨーロッパ中に影響を及ぼした大財閥メディチ家が統治していました。政治的手腕に優れた名君ロレンツォ・デ・メディチの時代は、経済的にも繁栄しフィレンツェの絶頂期といわれます。マキャベリの幼少期から青春時代にあたります。
名君ロレンツォが1492年に亡くなると、息子のピエロが継承しました。しかし、父ほどの才に恵まれず、フランスやスペインから横槍が入るようになり「和平協定」のパワーバランスが崩れていきます。フィレンツェに平和と繁栄をもたらしたメディチ家は国外追放。その結果、イタリアは「戦乱の世」となります。
イタリアの国々は傭兵制でした。軍人たちとお金で契約し、他国の兵と戦ってもらっていたのです。契約金のつり上げを狙ったサボタージュは当たり前で、戦争にならないこともよくありました。
これに対し、フランスやスペインは自国の軍を組織していました。危機を感じたマキャベリは、奔走して自国軍を結成することに成功します。
マキャベリの力によってイタリアに自国軍が誕生しましたが、その数は多くありません。そのため、戦争ではあくまで傭兵制が基本でした。そこで国の平和を維持するためには「外交交渉」が重要な手段となります。この外交の場に力を発揮したのがマキャベリです。
マキャベリはノンキャリのため外交交渉に出向く際「正使」(日本でいう外務省の大使です)にはなれなません。一国を代表する「正使」は、他国への心証を気づかい貴族など名家出身者がなります。
実力より「生まれ」が優先される世界です。マキャベリは正使を補佐する「副使」として随行し、交渉の場に同席しました。副使が体調を崩せば、国王にも謁見します。
今でいえば、外務省のノンキャリ組の中間管理職が、米国大統領と対峙して直接交渉を行うようなものです。坂本龍馬が、浪人の身でありながら幕末の四賢候、越前藩主松平春獄に謁見した史実を思い出します。
マキャベリは、在職期間15年の間に、40回以上も国外へ出張しています。トリックスター「ヘルメス」が天空神ゼウスの命を受け、異界を往来していたがごとく、マキャベリも政府の最高指導者ピエロ・ソデリーニの「懐刀」(ふところがたな)として国境を越えて飛び回ったのです。
『君主論』の著者マキャベリの人間性
では、マキャベリとはどんな人間だったのでしょう。
『君主論』を読むと、冷たい性格を想像しがちです。でも、マキャベリの本人はその反対だったようです。現在では、友人とやりとりした手紙が発見され、その人柄がわかってきています。
マキャベリの研究者であるイタリアのマウリツィオ・ヴィローリ氏は、『マキャヴェリの生涯 その微笑の謎』(白水社)にてこう書いています。
「ニッコロは、頭の回転が速く、並はずれたバイタリティの持ち主で、中心になってユーモアあふれる冗談で皆を笑わせた。ニッコロのこの役割は生涯ずっと変わらなかった」
『マキャヴェリの生涯 その微笑の謎』(マウリツィオ・ヴィローリ 白水社)
塩野七生氏は大著『わが友マキアヴェッリ』(塩野七生 中央公論社)にて、「相当な馬鹿さわぎをやった男であった」と書いています。マキャベリ『君主論』の著者とは思えない、冗談好きで明るく、楽しむことが大好きな人間だったようです。
塩野氏は、ジョン・ル・カレの小説にあった「芸術家というものは、基本的に相反する二つの性向をもちながら、なおも機能を発揮する人間だ」という言葉を紹介しつつ、名君ロレンツォ・デ・メディチとマキャベリを並べて、次のように評価しています。
「マキアヴェッリだって、快楽的であると同時に思索的だったのだ。一人の人間の中に、相反した二人の人間が棲みついていた」
「二人とも、生粋のフィレンツェ人であったのだろう。基本的に相反する二つの性向をもちながら、なおも機能を発揮しうる芸術家であったのだ」
『わが友マキアヴェッリ』(塩野七生 中央公論社)
快楽的であり思索的。冷徹でありながら温かみがある。この矛盾した点に、マキャベリの人間としての奥深さがあります。
マキャベリは政治思想家であると同時に、喜劇『マンドーラゴラ』を書いた芸術家です。生前『君主論』はごく一部の人間にしか読まれず、マキャベリは喜劇作家として名声を博した人物でした。
つまり、政治思想家としてのマキャベリは、ゴッホや宮澤賢治と同じく後世になって初めて評価されたのです。
では、なぜ『君主論』は読まれなかったのでしょうか。
1512年、追放されていたメディチ家が復権します。最高指導者だったソデリーニは失脚させられます。マキャベリはソデリーニの元で活躍していました。そのため、マキャベリは書記官を解雇されてしまうのです。43歳という年齢で、リストラの憂き目にあったわけです。結婚をしていて幼い子どもいました。彼は無職になってしまうのです。
さらに、「反メディチ派の陰謀に荷担しているのでは」と嫌疑をかけられ、1513年には拷問まで受けます。まったくの冤罪でした。マキャベリは恩赦で釈放されると、失意のまま住み慣れたフィレンツェの街を離れ、家族とともに山里に移り住ます。
霞ヶ関で名を轟かせた腕利きの官僚が、派閥争いに敗れた末に、田舎に帰って野良仕事に励むようなものです。
そんな人生のどん底の時期に、政庁への再就職を願い1513年頃に完成させたのが『君主論』です。
マキャベリは「岩石を転がすような仕事から始めてもかまわない」とまで手紙に書いています。
官庁に残った友人に『君主論』をメディチ家の権力者(ロレンツォ・デ・メデチ殿下)に献上してくれるよう頼みます。ですが、再就職の願いが聞き届けられることはありませんでした。
その後、政府とのつながりができて、職を失ってから14年後の1526年に「市壁管理委員会」の責任者となります。市壁を防衛する役目です。
しかし、戦乱の世で政権を取り戻したメディチ家の支配が崩壊すると、1527年、またもマキャベリは失職することになります。職を失ったことへの精神的なショックからか、マキャベリは病に倒れ、58年の生涯に幕を閉じます。
マキャベリの死後、『君主論』は、教皇庁によって「禁書目録」に指定され、歴史の闇に消えていきます。
18世紀、ルソーが『社会契約論』にマキャベリの名が出てきます。この時期から再評価が始まったとされます。司馬遼太郎氏が『竜馬がゆく』を書くまで、多くの日本人が龍馬を忘れていたのに似ていますね。
マキャベリは『君主論』でこう書いています。
「仲間を裏切り、信義や慈悲心や宗教心ももち合わせないものを、君主の徳などと呼ぶことはできない。たとえこういう手段で支配権を握ることはできても、栄光を手にすることはできない」
『君主論』(マキアヴェリ 池田廉 訳 中央公論社)
冒頭の言葉(「悪にふみこんでいくことも心得ておかなければならない」)とは、矛盾するようですが、この「矛盾」にこそ、15年の在職期間で国王や傭兵隊長など百戦錬磨のリーダーたちと対峙して磨かれた「リアリズム」と「大局観」があります。
現実は不条理です。「善いこと」がが必ずしも「善いこと」とはなりません。矛盾することが常に起きています。そんな矛盾を嘆くのではなく、矛盾を我が身に抱え込み「信義」「慈悲心」「人徳」を大切にし行動していくのがリーダーです。
大所高所にたち、より大きな「善」を追い求めていくのです。
『君主論』で、マキャベリはヴァレンティーノ公(チェザーレ・ボルジア)を「君主の鑑」として推薦しています。ヴァレンティーノ公は非道な人物として有名です。反乱を起こした小国主たちが、ヴァレンティーノ公と和平のために集まった所を殺害しています。
ヴァレンティーノ公は、「イタリアの災いの源を滅ぼしたのだ」とマキャベリにいいました。この言葉を聞いたマキャベリは、祖国への報告書に「わたしは、感嘆せずにはいられませんでした」と書いています。
なぜ、それほどまでに感動したのでしょうか。
「フェレンツェ」「ヴェネツィア」など共和国が群雄割拠していた時代において、「イタリア」という大局に立った次元の異なる思考をする人間はいなかったからです。まさに部分最適ではなく全体最適です。
江戸時代に生きた日本人も、「薩摩」「長州」「会津」などの藩意識が強く、「日本」という視点でとらえる「国意識」がありませんでした。
坂本龍馬は、「日本を今一度せんたくいたし申候」と手紙に書いています。他の幕末の志士たちが藩意識を捨てきれずにいた時、その視野の広さは、ヴァレンティーノ公に通じるものがあります。
この着眼点に感嘆したということは、マキャベリが同じ思考をしていたか、少なくとも、その後は、ヴァレンティーノ公に負けない大局観を心に刻み行動していたからでしょう。
マキャベリの名は、「マキャベリズム」の語源です。「マキャベリズム」は「権謀術数主義」と訳されます。目的のためなら手段を選ばない「悪の道」というダークサイドのイメージがつきまいます。
しかし『君主論』を読むと、「マキャベリズム」=「悪の道」ではないことに気づかされます。
マキャベリが『君主論』で伝えたかったことは、「悪行のすすめ」でも「善行のすすめ」でもありません。
不条理な現実を直視し、矛盾は矛盾として受け入れて、より大きな視野にたった「正しさ」を信じて果敢に行動していくことです。
それでは、最後にマキャベリの言葉を記して、このコラムを終えます。
「実行せずに後悔するより、実行して後悔する方がよい」
『君主論』(マキアヴェリ 池田廉 訳 中央公論社)
(文:松山 淳)
〈参考文献〉
『君主論』(マキアヴェリ 池田廉 訳 中央公論社)
『マキャヴェリッツの生涯 その微笑の謎』(マウリツィオ・ヴィローリ 武田好 訳 白水社)
『わが友マキアヴェッリ』(塩野七生 中央公論社)