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ユング年表(1)誕生〜フロイトとの訣別

ユング年表(1)ユング心理学のアイキャッチ画像

 『ユング自伝1』(みすず書房)に記述された内容をもとに年表を作成した。ユングは『ユング自伝1』の「プロローグ」で、「物語が本当かどうかは問題ではない」と書く。ユングは内的事実(心の世界で起きたこと)を重視し、外的事実には重きを置かない姿勢で自伝をまとめている。自伝を書いたのは83歳でもあった。そのためか、現代のユング研究書と年代についてズレがある。ズレとの修正は『エッセンシャル・ユング』(A・ストー 創元社)を参考にした。

 つづきの『ユング自伝2』(みすず書房)については、別途、年表を作成する予定である。

『ユング自伝』(みすず書房)の表紙画像
『ユング自伝1』(みすず書房)
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1875年(明治8年)〜
ユング誕生

1875年7月26日、スイス、トゥールガウ州ボーデン湖畔のケスヴィルで長男として生まれる。満6ヶ月の時に、ラウフェン教区に移る。

父:ポール・ユング(牧師) 
母:エミリー・プライスエヴェルク
妹:ゲルトルート(1884年生まれ)

ユングは、牧師の父より母に対して好意を抱いていた。「私の母は私にはとてもよい母であった。彼女はゆたかな動物的あたたかさをもち、料理が上手で人づきあいがよく、陽気だった」p78

1878年or1879年
最初の夢「人喰いの夢」

3歳か4歳頃に、ユングが記憶に残っている最初の夢をみる。

夢の中で、ユングは地下へと降りていく。カーテンを開けると、玉座の上に、目がひとつ付いた巨大なファルロス(男根)があった。その時、母の声が「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫ぶ。ユングは汗びっしょりで目を覚ます。(p29)

※「ファロルスの夢」は、65歳になるまで誰にも話さなかった(p68)

1879年
引越し

ユング一家は、バーゼルに近いクライン・ヒューニンゲンへ引越しする。

1881年(6歳)〜
学校へ行き始める

父からラテン語を教わる。

裕福な隣人の子どもをたたく。母に強く叱られたが、その後、母は、「もちろん子どもをあんな風に育てちゃいけない」と大声で叫んだ。母も隣人のことをよく思っていなかった。明るい性格の母の暗い面(第2人格)を感じ取る。(p79-80)

1882年or1883年(7歳か8歳)
レンガ遊びに熱中

レンガで遊ぶのに熱中する。レンガで塔を立て、有頂天になって「地震」でこわす。強い感受性と傷つきやすさをあわせもち、孤独を感じていた。

7歳から9歳のころ火遊びが好きだった。火の番をするのが常で、火は神聖であった。(p39)

ユングの家の庭には、石があった。その石の上に座って考えた。「私はいったい、石の上んすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか」。この問いにユングは悩んだ(p39-40)

1883年-1885年(8歳〜10歳)
秘密の筆箱

戦争の絵、城攻め、砲撃、海軍の交戦などを描いていた。本をインクのしみでみたし、空想的な解釈をして喜ぶ。

学校は、それまでいなかった遊び仲間を見つけて好きだった。

1884年、ユング9歳の時に妹ゲルトルートが生まれる。(p46)

10歳の時、筆箱に入れられる小さな人形をつくる。ライン川でひろってきた石を、人形と一緒に筆箱に入れ屋根裏に隠す。困難な状況に出くわした時、この石と人形のことを考えた。この人形と石は誰にも知られない秘密だった。この秘密がユングの性格形成に強い影響を及ぼした。(p41)

1886年(11歳)〜
ギムナジウムに入学

11歳、バーゼル(スイスの都市)のギムナジウムに入学。ギムナジウムとは、日本でいう中高一貫教育の学校。(p45)

都心の学校に入り、生徒たちの姿や話すことを聞き、いかに自分が田舎者であるかを痛感する(p45-46)

嫌いな科目は数学と体操(p52)

1887年(12歳)〜
神経症的な発作と学校

初夏のある日、友達に突かれて倒れ頭を打つ。その時、「もうお前は学校へ行かなくてよい」とひらめく。それ以来、学校の帰り道や宿題をさせられる時、発作が起きるようになる。半年以上、学校を休む(p53)

父が知りあいと息子を心配する言葉を聞き、働かなければ、と勉強を始める。ある時、「発作なんか起こすもんか」と、発作が起きつつ、勉強を続けると、気分がよくなった。それ以来、発作は起こらなくなり、学校に戻れた。(p54-55)

「自分自身に出会くわした」という強い感覚に襲われる不思議な体験をする。(p57)

湖のボートを漕ぎ出すいたずらをして叱られた時、自分が「二人のそれぞれ違った人間である」という考えが浮かぶ(p58)

神の意志が何であるかを考えるようになる。ある時、自分の前に大聖堂があり、神が地球の上の玉座に座っているビジョンを見る。玉座から排泄物が降ってくる。ユングは「神の恩寵」ともいえる神秘体験をし涙を流す。(p66)

1889年(14歳)〜
療養のためエントルブッフへ

医者の命令で、健康の改善を目的に転地療法でエントルブッフへ。多くの大人にまじって施設に滞在する。初めてお酒(ワイン)を飲み、酔っぱらう。(p117-118)

施設での逗留が終わると、父が迎えに来て一緒に旅をする。汽船に乗ったことは「なんたるしあわせ!」だった。また、高い山に登る鉄道に独りで乗車し、自然の風景に感動する。(p119-120)この経験は、ユングがその後、数十年に渡って、過労で疲れやすらぎを求めている時には、イメージとして浮かび上がってくるものとなる。

1890年(15歳)〜
ゲーテ「ファウスト」を読む

「神とは何なのか」について答えを求め悩む。ある日、母から、「お前はゲーテの『ファウスト』を近々読まなくちゃいけない」と言われ、家にあった『ファウスト』を読む。ユングのたましいに『ファウスト』はしみこむ。(p94)

1892年(17歳)〜
父と激烈な議論

「1892年から94年までの間に私は幾度か父とかなり激烈な議論をたたかわした」(p140)議論は、神のことであり、宗教的な問題について。父と議論したユングは、父の古くさい回答、また、議論から逃げるかイライラし始める父の態度を嘆く。

父と「実りのない議論をするたびに、父と私は腹を立てて、結局議論をやめ、二人ともそれぞれに特有な劣等感情に苦しめられた。神学は父と私とを仲たがいさせた。(p142)

ユングの父親は、学生時代、語学の才能に恵まれた。しかし、田舎牧師となってから、その才能をいかすことはなかった。父は「多くの善行をなし、それがあまりに多すぎたために、かえって普段はいらいらしていた」(p140)。

青春時代のユングにとって、いつもイライラしている父親は、母親と逆で、好きになれない存在であった。ユングは「父が宗教上の疑いで苦しんでいるのだと確信したのである」(p140)

1893年(18歳)〜
人格N0.1とNo.2

ユングとの議論で父(牧師)は、いら立ち、悲しんだ。ユングは自身が体験した「神の恩寵」の奇跡を知らせ父を助けたかった。(p71)

人格No.1は、両親の息子で学校に通い、利口でも、勤勉でも、礼儀正しくもない自分。人格No.2は、おとなで、疑い深く人を信用せず、人の世から疎遠だが、地球、太陽、夢など「神」が浸透していくものすべてと近かった。(p73)

1894年(19歳)〜
憂うつな状態が好転

16歳から19歳の間に、ユングのジレンマは徐々に晴れ、憂うつな状態が好転していく(p106)

憂うつだったのは、神の存在に対する苦悩や自分のなかにいるふたつ自分(人格No.1とNo.2)とのジレンマについて、日夜、考え続けていたからである。憂うつな状態がよくなることで人格No.1が優位になる。現実社会に対処し適応しようとする「私」(自我)が明確になっていく。(p107)

ユングのセルフイメージ=「以前は、私は恥ずかしがりやで、臆病で疑い深く、青白くやせていてみるからに丈夫そうではなかった」(p110)

ユングはショーペン・ハウエルやカントの哲学にふれ変化していく。「この哲学発展は17歳の時から、医学生の時代にわたってずっと続いた」(p109)そして、この哲学的発展が「世界および人生への私の態度の革命的な変化をもたらした」(p110)

以前とは違う変化について「私はまた、非常になじみやすく、意志の伝達もスムーズに行えるようになった。私は、貧乏はハンディキャップではなく、苦しみの主要な原因ではないこと、つまり金持ちの息子は実際には、貧しくみすぼらしい身なりの少年にくらべて、格別すぐれていないことを発見した」(p110)

ただ、独学で学んだ哲学的なことを、誰かと議論したり、誰かに話すことはなかった。

大学は、「科学」か「人文」(哲学・宗教)かで進路に悩む。ある時、医学を勉強できるというインスピレーションが湧く。(p132)

進路に悩んでいた頃、2つの夢を見たことで、科学の道に進むことを決心する。(p130)

1895年(20歳)〜
バーゼル大学へ

バーゼル大学で医師になる教育を受ける。医師の資格を取得(在籍期間:1895年〜1900年)

「学生時代は楽しかった。万事知的にことが運び、また友情にめぐまれた時期だった。」(p147)

1896年(21歳)〜
父が他界する

1895年の晩秋に父は床に臥し、1896年の初めに亡くなったのである(p145)

1898年(23歳)〜
不思議な現象と精神医学へ

医者としての自分の生涯について真剣に考え始める。(p156)

【不思議1】ユングが部屋が勉強しているとピストルを撃ったような音がした。母の目の間にあったテーブルが、裂けていた。「きっと、おもしろいことがあるにちがいない」とユングは思う(p158)

【不思議2】ユングが夕方6時に帰宅すると、母と妹と女中が動転していた。またピストルの音がした。ユングが調べると食器テーブルの中にあったパンナイフの刃の部分が粉々にわれていた(p158)

【不思議3】パンナイフが粉々になった数週間後に、親戚の主催する降神術の例会に出席するようになる。2年間、観察を続け論文(「いわゆるオカルト現象の心理と病理(Zur Psychologie und Pathologie sogenannter okkulter Phanomene)1902年」)にまとめる。霊媒は姉妹(いとこ)であった。彼女がごまかして現象を引き起こしているのをみつけ、実験を中止する。従妹は26歳の時、結核で亡くなる(p159)

降神術の例会の体験は、若いころに熱中した哲学を打ちのめし、ユングを心理学的な視点に到達させた(p160)

精神医学者クラフト=エビングの本(序言)で「人格のやまい」という言葉を読んだ時に、「唯一の可能な目標は精神医学だということが啓示の閃きの中で明らかになった」。ユングは精神医学の道へ進むことを決意する。(p162)

1900年(25歳)〜
ブルグヘルツリ精神病院へ勤務

1900年12月10日、スイス、チューリッヒのブルグヘルリツ精神病院でオイゲン・ブロイラーの助手となる(p165)

ブルグヘルリツ精神病院での数年間(修業時代)にユングが抱いた強烈な疑問は「いったい何が実験に精神病者の内面では起こっているのか」(p169)

【婦人の症例】分裂病(現在は統合失調症)と診断され入院している婦人がいた。ユングは通常の抑うつ症だと思う。婦人は、ある男性との失恋を機に、他の男性と結婚した。入浴の時、娘が不潔な水をひたしたスポンジを吸っているのを知りつつ、そのままにした。娘は腸チフスにかかって死んだ。ユングは連想検査をして婦人が殺人犯であることを知る。彼女にこの結果を話すか、話すことで症状が悪化するのではないかと、悩む。意を決して話すと、2週間後に婦人は退院し、二度と入院することはなかった。(p170-172)

「私の考えでは治療は個人の物語をすっかり調べあげた後ではじめてほんとうに始まるのだ。それは患者の秘密であり、彼らが乗り上げている暗礁である」(p172)

「治療においては問題はつねに全人的なものにかかわっており、決して症状だけが問題になるのではない。私たちは、全人格に返答を要求するような問いを発しなければならないのである」(p173)

フロイトの『夢の解釈』を読むが、よく理解できなかったので、中途で放棄する(p212)

1902年(33歳)〜
オカルト現象の論文

論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理」(医学博士論文)を発表。

1903年(34歳)〜
結婚とフロイト『夢の解釈』の再読

 エンマ・ラウシェンバッハと結婚。後に、息子ひとり、娘4人が生まれる。

 1900年に1度読んで放棄していたフロイトの『夢の解釈』を再読し、自分の考えとつながることを発見する。(p213)

 当時のフロイトは科学的・医学的な学会からは認められていない「好ましくない人物」であっため、フロイトの考え認めることに躊躇する。しかし、自分の第二の人格の声(フロイトを知らないふりをしているのはペテンだ)を聞き、フロイト派の一員となる。(p214)

1904年(29歳)〜
ブルグヘルツリ精神病院へ勤務

 1904年から1905年にかけて、ユングは大学病院の精神科で実験精神病理学の実験室を設立。連想実験を行う。フランツ・リックリンが共同研究者。論文「心理学的事実診断について」を書く。

後に、1909年、アメリカのクラーク大学へ招かれたのは、この連想実験を評価されてのこと。フロイトも招かれた。これを機にアメリカからもユングのもとに患者が訪れるようになる。

【母親コンプレックスの男性の症例。男性はアメリカから来た患者。彼はアルコールへの依存があった。彼の母親は権力的な人間であった。会社で共に働く母からの自立が必要とユングは考える。内緒で母親に彼の免職を勧告する。彼は激怒したが、結果的に、彼はその後、成功をおさめることになり、アルコールからも解放された。
 ※この症例は文脈の流れから、1909年以降のことと思われる。(p177)

1905年(30歳)〜
チューリッヒ大学精神科の講師に就任

チューリッヒ大学精神科の講師に就任、同時に、大学病院精神科の医局長に就任。4年間、その地位にとどまり、1909年に辞任。講師は、1913年まで続けた。(p173)

【松葉杖の中年女性(58歳)=ユングの最初の分析体験】学生の前で、松葉杖をつく左足に苦しい麻痺のある女性に対して催眠をかけようとした。ユングが何も言わないのに彼女は深いトランス状態に入った。催眠をとこうとしたが、うまくいかずユングは学生の前で困惑する。目を覚ました彼女は、「私は治ったんです」といって、上機嫌で帰っていった。次の年に彼女はまた現れ背中の激しい痛みを訴えた。彼女はまた自発的にトランス状態に入り、痛みは消えた。背中の痛みが現れたのは、ユングが講義を行うという新聞の予告を読んだ日からであった。

 ユングは彼女に、精神科に入院中の精神薄弱の息子がいることを知る。彼女の痛みが消失したのは、催眠の効果というより、ユングを自分の子どもとみなし、「ヒーローの母親になりたい」という野心が働いていたからだと考える。実際、彼女の症例によって、ユングが名医であるという名声が、高まっていた。ユングは彼女に、自分のことを「息子のかわりにしている」ことを告げた。彼女はそれを受け入れ、症状が再発することはなかった。ユングはしばらくして催眠を使うことをやめる。(p174-176)

1906年(31歳)〜
フロイトの神経症理論について論文を書く

4月、フロイトの文通が始まる。

『ミュンヘン医学週刊誌』にフロイトの神経症理論について論文を書く(p214)。フロイトを擁護するなら「経歴を剥奪されるだろう」とドイツの大学教授から警告された。

1907年(32歳)〜
初めてフロイトに会う

1907年2月 オーストリアのウィーンで初めてフロイトに会う。意気投合し13時間にわたって話しつづけた。(p215)だが、彼の性理論を100%受け入れたわけではなく、疑問に感じる点もあった。(p216)

自著『早発性痴呆の心理』(英訳版は1909年)を出版。

1908年(33歳)〜
「私はローレライ」の事例講演

第1回国際精神分析学会議がザルツブルクで開催される。

チューリッヒの公会堂で、「私はローレライ」という早発性痴呆(現在の統合失調症)の女性(バベット)の症例について講演する。

【バベット(女性)の症例】彼女はチューリッヒの生まれで中流の環境に育つ。妹は娼婦。父親は大酒飲み。39歳で早発性痴呆(現在の統合失調症)に罹患する。ユングが会った時、20年間、施設にいた。バベットの発言は意味不明とされていた。しかしユングは、彼女が「私はローレライ」というのは、医師たちが「それが何を意味するからわからない」と言うからであり、「私はソクラテスの代理」だというのは、「ソクラテスのように不当に告発されている」と言おうとしていることを発見する。意味不明とされていた彼女の言葉には、意味のあったことをユングは発見する。(p184)

1909年(34歳)〜
フロイトとアメリカへ

1909年 チューリッヒにユングを訪ねてきたフロイトに、バベットの事例を話す。(P187)

【フロイトとの対談で不思議な現象】1909年 ウィーンにフロイトを訪ね話し合いとなる。予知などの超心理学の話題にフロイトは否定的だった。超心理学的なことを肯定的にとらえるユングはフロイトの話しを我慢して聞いていた。その時、ユングの胸が熱くなり、右隣の本箱で大きな爆音がした。ふたりはあわてて立ち上がる。ユングが、「これがいわゆる、媒体による外在化現象です」というと「あれは全くの戯言(たわごと)だ」と否定する。ユングが「先生は、あなたはまちがっていらっしゃる。そして私の言うのが正しいことを証明するために、しばらくするともう一度あんなた大きな音がすると予言しておきます」と言うと、また同じ爆音がした。(p224)

1909年6月 ブルクヘルリツ精神病院を辞職する。チューリッヒ郊外のキュスナハトの自宅で診療に専念する。

1909年9月 米国マサチューセッツ州ウースターのクラーク大学に招かれる。フロイトと一緒にアメリカに向かうことになる。7週間の船旅の最中、ユングが「死体」の話をすると、フロイトは発作を起こした。フロイトは、ユングが自分に対して「死の願望を持っていることを意味している」と確信した。(p225)

1909年クラーク大学にてフロイトユングが一緒に写っている写真
前列左フロイト 前例右ユング
1909年クラーク大学にて

船旅の最中、互いの夢を分析した。フロイトはユングの夢をうまく分析できなかった。ユングがフロイトに「もっと私生活に関することを教えてくれたらもっと細かなことが言える」というと、フロイトは、「しかし、私は、私の権威を危うくすることはできないんだ」と言った。(p228)

クラーク大学から法学の名誉博士号を受ける。

1912年(37歳)
『リビドーの変容と象徴』出版

『リビドーの変容と象徴』を出版。フロイトが否定していた「集合的無意識」の概念が含まれる。ユングはフロイトと訣別する覚悟を決めて『リビドーの変容と象徴』を書き上げる。(p240)

ローマへ。ジェノバ(イタリア北西部の都市)からナポリ(イタリア南西部の都市)へ航海する。ポンペイ遺跡を訪れる。(『ユング伝記2』p122)

1913年(38歳)
フロイトと訣別し無意識との対決が始まる

【フロイトとユングの訣別が決定的になる出来事】ミュンヘンにて第4回国際精神分析学会議。ミュンヘンの精神分析学会の席で、ユングが「父親にまつわる神話」について話すと、フロイトは発作を起こし椅子からすべり落ちる。ユングがフロイトを介抱すると、フロイトはユングを父親であるかのようにみつめた。父親殺しの空想は、アメリカへの船旅の発作と共通している。(p226)
※『自伝1』では、ミュンヘンの国際精神分析学会議 をユングは1912年と書いている。(p226)

10月 ユングはひとりで旅行。その時、恐ろしい幻覚を見る。洪水が北海とアルプスの間の北の低地地方のすべてをおおい、多くの溺死体があり海全体が血に変わる。幻覚は1時間続き、2週間たってからまた生じた。(p251)

12月12日、ミイラや若者の死体や新しく生まれる太陽が登場する幻覚をみる。(p256)

12月18日、茶色の肌の未開人とジークフリート(ゲルマン神話に登場する戦士)を撃ち殺す夢を見る。

ユング自身を不安にさせた強烈な幻覚や夢は1917年に一段落したが、1999年頃まで続く。(『ユング伝記2』p11)

1905年から8年間務めたチューリッヒ大学の私講師の仕事を辞める。

1913年、イタリアの都市ラヴェンナへ旅行し、ガルラ・プラチディア廟を訪れる。(『ユング伝記2』p118)

1914年(39歳)
土地を凍らせる夢

国際精神分析学会会長を辞退。

1914年 春と初夏の頃に、ユングは三度も同じ夢をくりかえしみる。「真夏の最中に北極の寒波が下ってきて、土地を凍らせてしまう」「どこにも人がいなくなってしまう。すべての草木は霜枯れてしまっている」(p252)1914年、4月、5月、6月にも、同じような夢を見る。

8月1日 第一次世界大戦が勃発。ユングは、これまで見てきた幻覚や夢が、世界大戦を予知していたことを理解する。

1916年(41歳)
初めて曼荼羅を描く

論文「死者への七つの語らい」発表(p271)

 ある日曜日の午後、玄関のベルが血迷ったように鳴り始め、何かの存在で家の中が満たされるのを感じ、呼吸が苦しくなるほどだった。ユングが「いったい全体、これは何事か」と打ち震えていると、彼らは「われわれはエルサレムから帰ってきた。そこにわれわれは探し求めるものを見いだせなかった」と叫び始めた。この出来事から「死者への七つの語らい」は始まる。(p273)

初めて曼荼羅を描く(p277)
※『自伝1』では、曼荼羅を初めて描いのは『死者への七つの語らい』 を書いた1912年と書いている。(p277)

1918年(43歳)
戦争被抑留英国人収容所へ

戦争被抑留英国人収容所の指揮者としてシャトー・ドェに赴任する。1918年〜1919年まで。この赴任期間に「曼荼羅」を集中的に描くようになる。(p277)

曼荼羅を描くことによって、「1918年から1920年の間に、私は心の発達のゴールは自己であることを理解し始めた」(p280)

※『自伝1』では、曼荼羅を初めて描いのは『死者への七つの語らい』 を書いた1912年と書いている。(p277)

1927年(52歳)
自己(セルフ)の夢

ユングの夢=放射状に広がる街の中心に池があり、その池の中心の島に木蓮が立っている。ユングはこの夢を自己(セルフ)の夢と解釈する。(p281-287)

この夢を見た後に、ユングは曼荼羅を描くことをやめる(p282)

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(文:松山 淳


【参考文献】
『ユング自伝1』(C.G.ユング ヤッフェ編 訳 河合隼雄 みすず書房)
『エッセンシャル・ユング』(A・ストー 創元社)