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「意識の進化」と「無境界」について by ケン・ウィルバー

「意識の進化」と「無境界」についてbyケン・ウィルバー

 トランスパーソナル心理学者ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が唱えた「無境界」という概念は、人間の究極意識である「統一意識」(ユニティ・コンシャスネス:Unity Cosciousness)へとつながる考えである。人の意識は「境界」を設定し、「自己」と「他」を区分けすることで自我意識を明確にしようとする。自分と他者。自分と自然。自分と宇宙。自分以外の何かを対象化し認識する。そこには自分と対立する「境界」が生まれる。

 「境界」の存在は「自分が何ものか」という自己認識をたやすくするが、意識を狭い範囲に限定し、自己成長の可能性を奪う。ウィルバーは世界の宗教家、思想家が到達する「自分と他者に区別がなくなる究極の意識状態」の存在を認める。

 「究極の意識状態」をウィルバーは「統一意識」と呼ぶ。「統一意識」では「境界」は無くなる。そこで「境界」のある意識を「無境界」にしていくことが、「悟り」へと通じる「覚醒のプロセス」であり「意識の進化」と、ウィルバーは考える。

 ウィルバーの思想を知る上で入門書として広く知られる『無境界』(平河出版社)を参考文献とし、ウィルバーの「意識の進化論」について解説する。

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まっつん
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ケン・ウィルバーの考える「意識の進化」とは

 トランスパーソナル心理学者であり、思想家として「知の巨人」とも呼ばれるケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、『無境界』(平河出版社)の中で、こう書いています。

『無境界』(平河出版社)
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 われわれの体験におけるこれらの戦い ── 葛藤、不安、苦しみ、苦悩 ── は、われわれが勝手にでっちあげる諸々の境界によって生み出されるものである。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p1

 この主張を簡単にまとめると、次の通りです。

「人の意識には境界があるから、葛藤、不安、苦しみ、苦悩が生まれるんだよ」

 人間の意識が生み出す「境界」は、かなりやっかいなようです。では、ウィルバーのいう「意識の境界」とは、何のことでしょうか。

意識のスペクトル〜心は層状になっている〜

 「意識の境界」を理解するために彼が提示したのが、下の「意識のスペクトル」図です。

 「スペクトル」とは、図の右にある「光の波長」を色で表現し順番に並べたものです。ウィルバーは、人間の意識が、スペクトルのように相互浸透する「層状」になっていると考えました。そして、「意識の層」を4つの次元に分類したのです。

意識のスペクトルの図
『無境界』(平河出版社)p25掲載図1を参考に作成

 上から3つの次元にまではオレンジ色の「境界線」が入っています。「境界線」によって二つの対立する概念が生まれています。例えば、「①ペルソナ⇄影」です。4番目は「究極の意識状態」であり「統一された意識」です。意識は統一されているので、「境界線」はなく「無境界」のレベルです。

「意識のスペクトル」4次元

 ❶ペルソナ〈仮面〉のレベル:「ペルソナ」 ⇄ 「影」
 ❷自我のレベル:「自我」⇄「身体」
 ❸全有機体:「全有機体(ケンタウロス)⇄「環境」
 ❹統一意識:「宇宙」(顕在と非顕在)

 ウィルバーは、人間が生まれた時点では「❹統一意識」の段階にある、と想定します。しかし、自我が芽生え、自分の体を知り、外の世界を認識するようなると、世界と一体であった「統一意識」に、どんどん境界線が引かれて、「対立」が発生していくというわけです。「統一意識」を最高の理想とするならば、「対立のある意識」は、退化といえます。

まっつん
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 人間は、年齢を重ねていく過程で、「統一意識」から離れていきます。かといって、統一意識が消え去るわけではありません。統一意識は存在し続けます。ただ、それを自覚することがができないだけです。存在するのですから、もう一度、自覚することは可能です。

 であれば、「❶ペルソナ〈仮面〉のレベル」から「❹統一意識」へと向かうことが「意識の進化」と考えられます。「意識の進化」には特別な努力が必要ですが、「人間に可能なこと」です。

統一意識を知覚すると?

 「❹統一意識」では、自己と他の区別がなくなります。書籍『無境界』(平河出版社)では、「統一意識」の状態」を体験した人の記述がいくつかあります。その中のひとつが、イギリスの進学者で詩人であったトマス・トラヘルネ(Thomas Traherne)の文(p21)です。

「通りはわたしのものであった。寺院も人々もわたしのものであった。空もわたしのものであった。太陽も月も星々も、また、世界全ても同様わたしのものであった。そして、それを唯一ながめ楽しんでいるのがわたしであった。ぎこちない礼儀作法も境界も隔たりもなく、すべての作法や隔たり、あらゆる宝物とその所有者もわたしのものになっていた。これまでわたしは、わざわざ骨を折って堕落し、この世の汚れた企てを学んできた。いまやわたしはすべてを忘れ、あるがままの幼子に返り、神の王国に入るのであろう。」

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p13

 世界に「境界」はなく、統一されていていれば、「対立」が無いので、心の中での争いは少なくなり、葛藤、不安、苦しみも自然と少なくなっていきます。

 「❹統一意識」は、仏教でいう「悟り」の意識状態です。「❹統一意識」が「無境界」だとすると、「悟りとは、“世界は無境界である”と、自覚すること」といえます。

 この「❹統一意識」を理想とするなら、それより前の段階は、意識に境界線が引かれるので、自分の意識をある領域に「せばめている」ともいえます。「せばめられた心」は、本来の自己である「統一意識」からは「縮こまった心」です。

 ウィルバーは、こう書きます。(「有機体」と出てきますが、これは「体」のこと、と考えてください。)

 スペクトルの底辺では、自分が宇宙と一体であり、真の自己は自らの有機体だけではなく、宇宙全体であると感じている。スペクトルのつぎのレベルでは(あるいはスペクトルを「上昇する」)と、全体と一体ではなく、自らの有機体と一体であると感じる。アイデンティティ感覚が全体としての宇宙から、宇宙の一局面である自らの有機体へと移行し、せばめられたのである。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p24

 つまり、「❹統一意識」(悟り)へと至ったヨガのマスターたちや僧侶などを別として、一般人の意識は、❶の次元にあり、「せばめられた」対立のある意識を、「普通の私の心」と認識しながら、人生を送っているのです。

 「普通の私の心」には、「対立」があるのですから、葛藤や苦悩があって、当たり前ですね。

 それでは、「意識のスペクトル」図には、「ペルソナ」「ケンタウロス」など、難しい言葉も並んでいますので、用語も解説しつつ、❶の次元から❹の次元までを、順番に説明していきます。


「意識のスペクトル」の4次元

❶ペルソナ〈仮面〉のレベル:「ペルソナ」 ⇄ 「影」

「あなたはどんな性格ですか?」

 そう質問された時、多くの人は、何らかの自己イメージを持っていて、その自己イメージに従って「自分の性格」を説明しようとします。性格が「明るい」とか「暗い」とか、「大雑把」とか「細かい」とか…。

 例として、私の性格は「明るい」と考えるAさんがいたとします。当たり前のことですが、「私は明るい」と思っているAさんは、「私は暗い」という自己イメージを持っていないことになります。

 「明るい」⇄「暗い」

 自己イメージにおいて、「境界線」が引かれている状態ですね。

 Aさんは、自分の「明るさ」を肯定し、自己イメージに取り入れ、「暗さ」を否定し自己イメージから除外しています。そうなると「暗い自分」を、嫌うことが多いですね。

 しかし、人間は潜在的に「無境界」の「統一意識」を持った存在でした。そう考えると、「明るい」面も「暗い」面も、両方とも持っているはずです。

 「私は明るい」という自己イメージは、意識が肯定し、つくり出した「ペルソナ」(仮面)です。「私は暗い」は、否定され無意識の領域へと追いやられて、この否定された要素を「影」(シャドー)と呼びます。

 「ペルソナ」の語源には、「仮面」という意味があります。

 人間は誰もが外の世界に対処するために、その時その場に応じて、いくつかの「自己イメージ」(性格)を使い分けるものです。中学生で、クラスの仲間の前では、毅然とした態度を見せるリーダータイプの子も、親には「甘える顔」を見せることがあります。会社では部下を怒鳴り散らす強面(こわもて)の部長も、家に帰り妻を前にすると「小さくなっている」というのは、よくあるケースです。

まっつん
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 「自己イメージ」は、ひとつではなく、自分の置かれたその時その場の状況によって変化するものです。でも、とかく人は、自分に一貫性があることを理想とし、ひとつのペルソナに固執しがちです。あるペルソナだけを自分で認め、その反対の性格的要素をどんどん否定していると、無意識では「影」(シャドー)が育っていきます。

 すると、自分が否定した性格的要素を持った他人を前にすると、無性にイライラすることがあります。

 この状態は、自分が否定する性格要素=「影」(シャドー)を、他人の中に見い出す、心理学でいう「投影」です。

 例えば、先ほどの「私は明るい」という自己イメージをもつAさんが、「暗い性格の持ち主」の人を前にすると、「それではいけないと」わかっているのに、ついイラッとしてしまうケースが、「投影」です。もし、Aさんが親であり上司だとすると、性格の明るい「我が子」や「部下」には好意的だけど、性格の暗い「我が子」や「部下」には、辛く当たりがちになるかもしれません。

 でも、イライラする原因は、相手が「暗いから」というより、実は、無意識で「影」(シャドー)となっている自分の「暗さ」を、刺激されるからなのです。「あなただって本当は暗いじゃない」と、暗い相手から無意識のレベルでメッセージを受けとっていて、イラっとするのです。つまり「真の原因は自分にあるのです。 

 自分が否定した要素を、肯定し認め、受け入れていくことができれば、境界線は取り払われます。二つの要素は統合されるので、「意識の進化」が起きます。これで一歩、「統一意識」へと近づくことになります。

ケン・ウィルバーの言葉

症状とは好ましくないものなどではなく、成長のチャンスである。症状は無意識の影を正確に指し示している。投影された傾向を確実に指し示してくれるものなのだ。症状をとおして影を見出し、影をとおして成長し、境界を拡張する。これが正確かつ受け入れ可能な自己イメージへの道である。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p172


❷自我のレベル:「自我」 ⇄ 「身体」

 あなたが、誰かに指をさされて、

「あなたの、その体は誰のものですか?」

 そう尋ねられたら、もちろん「私のものです」と答えることでしょう。自分の体は「私のもの」という感覚は、あまりに当たり前のことです。であれば、「自我」(私)と「身体」に「境界線」が引かれ、「対立」すると考えるのは、なぜでしょうか。

 その答えにたどり着くために、先ほどの質問を「統一意識」ならばどう答えるかを考えてみましょう。「統一意識」は、無境界で、全てが一体です。であれば、こう答えるでしょう。

統一意識
統一意識

私が体であり、体が私です。私と体は一体でひとつです。私は他人とも一体でひとつです。世界と私も一体でひとつです。だから、この体は私のものでもなければ、誰のものでもありません。

 つまり、自分の体を「私のもの」と考えること自体が、「私と体は一体ではなく分離している」と考えている証なのです。日頃、「体は私のもの」は「一体」を意味している、という「不正確な認識」にあまりに慣れているため、「自分と体が対立している」という感覚は、簡単には受け入れがたいものです。

 でも、私たちはよく、こんな言葉を口にしますね。

「体のことを忘れていた」
「体が悲鳴をあげている」
「気づかないうちに病気になっていた」

 これらの言葉は、自我意識(私)と体が分離し、「対立」しているこそ生まれてくる言葉です。もし、あなたが上の言葉のどれかを口にした時には、程度の差こそあれ、好ましいとは言えない事態になっているはず。

 自我の発達した現代人は、自我の発する欲求=「私はあれがしたい、これがしたい」を優先するあまり、「頭の声」ばかり聞いて、「体の声」を聞き取ることが難しくなっています。

「この体は私のもので、私の体なのに、私は、私の体のことがよくわからない」

 「私と体の分離」「自我と身体の対立」は、身体にマイナスの症状を生み出す間接的な要因となります。よくない症状が体に出れば、結果的に、悩み、苦しみ、葛藤が多くなります。

 例えば、「私はダメな人間だ、価値がない」と、自己否定を何年も繰り返し、自分のことを自分で攻撃し続けていると、その「負のエネルギー」が体の中に蓄積し、自律神経が乱れ、何らかの慢性的な症状を生み出します。肌荒れ、偏頭痛、肩や背中のこわばり…などです。

 「自我と身体が対立」していると、「自分が症状を生み出している」ことに気づけないままになります。

 禅の教えに「心身一如」があります。「心と体はひとつであれ」と、私たちを諭す言葉です。「私と体がひとつ」という意識をもつためには、日々の修練が求められますが、「心身一如」を目指し自己修練を重ねていくことが、また一歩、「統一意識」へと前進する道なのです。

ケン・ウィルバーの言葉

 自分が文字通り、自分を攻撃してきたことが見えてくる。それがすみずみまで理解され、感じとられると、筋肉の争いからエネルギーが解き放たれる。そして、今度はそのエネルギーを内側の自分自身ではなく、外の環境に向けることができる。自分自身を責めて攻撃するのではなく、仕事、本、ご馳走を攻撃し、攻撃性の正しい意味である「向かっていく」ことを学びなおすのである。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p198


❸全有機体:「全有機体(ケンタウロス)⇄「環境」

ケンタウロスのイラスト

 ウィルバー独特の表現である「ケンタウロス」とは、「心身一如」の状態です。

 上のイラストがケンタウロスです。ギリシャ神話に登場する半身半獣の存在ですね。ウィルバーは、ケンタウロスのことを「心の身体の完全な統合と調和を充分に表しているのである」(p140)、「心身相関的に統一した魂なのだ」(p141)と言っています。

 「有機体」とは、「身体(からだ)」のことであり、「全有機体」と「全」がつくのは、心と身体を含めてひとつ(全体)になっていることを意味します。

 前段の❷自我のレベルで、「心身一如」が達成されても、❸全有機体の段階では、環境(外界)、また、環境に存在するモノとは「ひとつ」にはなっていません。

まっつん
まっつん

 あなたは、このコラムを、スマホ、PCなどの画面で読んでいることでしょう。あなたが今、目にしているものが「環境に存在しているモノ」です。画面から目を離して、周りを見渡してみてください。誰か人がいたでしょうか。ビルや木々が見えたでしょうか。今、見えている空間が、あなたの「環境」(外界)です。

 

 今、見えた「環境」(外界)が、「自分とひとつ」なんて、とても思えないはずです。つまり「心と体がひとつ」(心身一如・ケンタウロス)の意識になっても、まだ、環境(外界)との間には、境界線が引かれ「対立」が存在しているのです。

 「統一意識」になれば、この境界線が取り払われ、「全てがひとつ」という感覚を抱くようになります。

意識のスペクトルの図

 さて、ここでもう1度、「意識のスペクトル」図を見てください。「③全有機体」のレベルには、赤枠の「超個の帯域」がありました。「超個の帯域」も、言葉だけでは何を意味しているのか、理解が難しいですね。

超個の帯域とは?

「超個」とは、「超個的自己」(トランスパーソナル・セルフ)のことです。

 ケン・ウィルバーはトランスパーソナル心理学者です。トランスパーソナル心理学(Transpersonal psychology)では、「自己超越」の概念を認めます。「Transpersonal」の「Trans」は「超えて」という意味で、「personal」は「個人」のことですので、「個人の意識領域を超えていく心理学」が、トランスパーソナル心理学です。

 では、「個人の意識領域を超える」「自己超越」は何を意味しているのでしょう。例えば、多くの人が体験する睡眠中の「幽体離脱体験」が、わかりやすいですね。自分の体は寝ているのに、自分の存在は、隣の部屋にいたり、外にいたりします。体から意識が抜け出るのです。

まっつん
まっつん

  もちろん、「幽体離脱なんて、脳の錯覚に過ぎない」という批判はありますが、世界各地から報告され続けている事実ですから、心理学としては研究するに値します。瞑想の上級者が、深い意識状態になると、宇宙と一体になるような「神秘体験」をすることは、決して珍しいことではありません。「そんなの脳の錯覚だ」と一笑に付することのできない「リアリティ」が、そこにはあるのです。

 例えそれが「脳の錯覚」だとしても、「神秘体験」をしたことで、人の心(人格・人間性)がよりよく変化し、「意識が進化」していくのであれば、心理学の研究対象として、外すことの方がおかしなことです。なぜなら、人の心をどこまでも探究していくのが、心理学だからです。

自己超越の体験は、自分を支える杖になる

 ❸全有機体のレベルでは、何らかの神秘体験を通して「超個的自己」(トランスパーソナル・セルフ)を垣間見ることがあります。よって、「超個の帯域」呼ぶのですこの「超個的自己」は、自分の意識が外界と融合していくような、融合しているような感覚を味わいます。つまり「私と全てがひとつ」という感覚を、短い時間ながら体験するのです。それは「統一意識」を垣間見る瞬間です。

 「私と全てがひとつ」と感じるような体験には、心を安定させる力があります。ウィルバーは、こう書きます。

自分の個的自己がどんな問題に直面していても、自らの深層の自己はそれらを超越し、無傷のまま自由で開かれた状態にとどまっていることに気づく。最初は戸惑いがちに、だが、しだいに確信を強めて、意識の表層の波が苦痛、不安、苦悩にさいなまれているにもかかわらず、内なる力の静寂な源は大洋の深淵のごとくかき乱されることがないことを見出すのである。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p217

 どれだけ自分が辛い目にあっても、どんな自分が苦悩していても、「私という意識」(個的自己/自分)の奥底には、決して傷つくことのない、どっしりと安定した「大いなる意識」(超個的自己)が存在している。

 こうした「自己超越」に対する自覚を持つことは、「私という意識」(個的自己/自分)が、人生の様々な問題にもみくちゃにされ、大海の木の葉のように頼りなく世界を漂っている時に、とても力強い支えになります。自分の内には、決して汚されることのない「自己」があると信頼していることは、倒れそうな時に、自分を支える杖になるのです。

 ヨガや瞑想や何らかのボディーワークを通じて、人は「自己超越」の感覚を体験できます。その体験を日々繰り返し、「超個の帯域」をくぐり抜けていくことで、「統一意識」が目の前に迫ってくるのです。

ケン・ウィルバーの言葉

 超個的レベルでわれわれが他を愛すのは、自らの幻想のうちに相手が自分を愛し、認め、想い、安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。キリストの第一の教えは「自分自身を愛すように隣人を愛せ」ではなく、「隣人を自分自身として愛せ」という意味である。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p172


 ❹統一意識:「宇宙」(顕在と非顕在)

 前段で、「統一意識」を体験している様子について、イギリスの神学者・詩人トマス・トラヘルネ(Thomas Traherne)の文(p21)を紹介しました。ここでは、「宇宙意識」という言葉の生みの親である医師で精神研究家のリチャード・モーリス・バック(Richard Maurice Bucke)の一文を紹介します。

気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの生ける「存在」であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの永遠の生命を自覚した。

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p13

 この一文を読むと、「統一意識」とは、到達すべき山の頂上のような存在に思えます。

 しかし、ウェルバーは「統一意識へといたる道は存在しない」(p239)と書きます。これはどういったことでしょう。修練を積み重ね心の奥底を探究し続ければ、統一された特殊な意識状態が存在していて、そこに到達できるのではないのでしょうか。

 ここに「統一意識の逆説」があります。実は、統一意識はすでにどこにでもあるのだ、ウィルバーはいうのです。これは仏教でよく言われる「どんな人にも仏性があり、すでに悟った存在である」という教えに通じます。

 ウィルバーは白隠禅師の言葉を紹介しています。

衆生(しゅうじょう)近きを知らずして 
遠くを求むるはかなさよ
譬(たと)えば水のなかに居て
渇(かつ)を叫ぶごとくなり

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p241-242

 水の中に居て「喉が渇いた、誰か水をくれ〜、誰か水を〜」と叫ぶ人を見たら、あなたはどんな言葉をけるでしょうか。きっと「何、言ってるんですか、水は、すぐにそこにあるじゃないですか」と、呆れ顔で言うことでしょう。

 「統一意識」とは、ここでいう「水」であり、それはいつでも今、この瞬間に存在しているものなのです。だから「到達」するのではなく、「表現されるもの」なのです。

 ここで「表現されるもの」という違和感のある言葉が出てきました。この言葉を理解するために、順を追って説明していきます。

「統一意識」は、「表現されるもの」

 まず、「統一意識」は「無境界」でした。「無境界」のものを人間は認識・知覚できません。なぜなら、私たちが何かを認識するには、対象化する必要があるからです。

 心にしても体にしても自然にしても宇宙にしても、境界線を引き、それを対象化することで、認識・知覚が可能になります。怒りや喜びを体に感じ、夜空に星を眺めることができるのは、人間の意識がそれらを対象化しているからです。

 でも、「統一意識」を「無境界」だと想定すると、「対象化はできず認識・知覚は不可能」という理屈が成り立ちます。それはちょうど、「眼は、眼そのものを見ることができない」という理屈と同じです。

 「認識・知覚は不可能」だけど、「それは在(あ)る」とするのが「統一意識」です。

 では、詩人トマス・トラヘルネやリチャード・モーリス・バックの体験を、どうとらえればいいのでしょう。ウィルバーは、二人の体験を例にあげて「われわれはその一つの全体としての宇宙との愛にあふれた抱擁を「統一意識」と呼ぶことにする」(p13)と書いているのです。

 そこで「表現されるもの」という言葉の登場です。二人の体験を「統一意識そのもの」「自覚した」のではなく、「統一意識が表現されたもの」「自覚した」と考えるのです。

 何だか屁理屈のようですが、屁理屈のようにしか「統一意識」のことを記述できないののです。というのも、「言葉」が境界を設定する機能を有しているからだと、ウィルバーはいいます。

まっつん
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 言葉は定義するものですね。定義とは「これをそれとは違う〇〇である」と意味を設定することです。「りんご」と書けばそれは「みかん」「ぶどう」とは異なるものです。この違いを設定する作業は「境界線を引くこと」に他なりません。言葉にすればするほど、「境界」が発生し、「無境界」の「統一意識」と矛盾が生まれるのです。つまり、正確な記述は不可能なのが「統一意識」というわけです。

 

 よって、私たちが心がけるべき大切なことは、「統一意識」がどのような意識状態かを知ろうとするより、「統一意識は常に在る」と自覚することです。白隠禅師の言葉に、そのエッセンスが含まれています。「道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む」で、私たちの求める真理はいつでもどんな時でも、すぐそばにある、ということです。

 スティーブ・ジョブズが愛読していた本に、『禅マインド ビギナーズ・マインド』 (サンガ新書)があります。著者はアメリカに禅の教えを広めた鈴木俊隆です。ウィルバーの本『無境界』に、鈴木俊隆のこんな一文があります。

 もし修行が悟りにいたる一つの手段にすぎないのであれば、悟りにいたる方法など存在しない。悟りとはいい気分のような特定の心の状態では無い。あなたが(坐禅の修行で)坐るときに存在する心の状態それ自体が悟りなのだ。坐禅においては、正しい心の状態を論じる必要はない。あなたがすでにそうであるからだ。 

『無境界』(ケン・ウィルバー 平河出版社)p245

 ウィルバーは、「統一意識がつねに存在しているのがわれわれの本証、「本来の悟り」である」(p245)と書いています。仏教の教えでも、「私たちは誰もが悟った存在だ」と、よくいいます。

 でも、誰もが悟っているのであれば、なぜ、世界はこれほど混乱しているのでしょう。我が子を殺す親がいて、今だに戦争で人が死んでいます。お世辞にも、とても悟っているとは言えません。

 ですので、「悟りの意識を私たちは持っているけれど、それを自覚はできていない」と考えた方が、「普通の心」の私たちには納得できる考え方です。だとすればやはり、「統一意識」へ至る道は無くとも、「統一意識」という「高み」を目指す行いは、日々、続けていく必要があります。

 なぜなら、戦争、飢餓、環境問題など、この世界に存在する悩ましい問題の数々は、人の「意識が進化」していくことで、より効率的に解決できるようになるからです。

(文:松山 淳)


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