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 『何が映画か』(黒澤明 宮崎駿 徳間書店)は、黒澤監督と宮崎監督の対談本で、1993年の出版です。『日本テレビ『映画に恋して愛して生きて』で放映された内容をまとめたものです。『紅の豚』の公開が1992年ですので、『紅の ... ]]>

宮崎駿 略歴

 1941年(昭和16年)東京生まれ。東京都立豊多摩高等学校から学習院大学政経学部に進学し卒業。

 1963年 学習院大学卒業後、東映動画に入社。アニメーターとして働く。東映退社後、いくつかの会社を渡り歩き、その間に『アルプスの少女ハイジ』『未来少年コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』に携わる。上映当時『ルパン三世 カリオストロの城』は興行的には振るわず、その後、映画界から声がかからなくなり不遇の時代を過ごす。

 1982年、雑誌『アニメージュ』(徳間書店)で『風の谷のナウシカ』連載開始。これを原作としてアニメ映画『風の谷のナウシカ』が制作・上映されヒットする。宮崎監督の名が一般の人々に知られるようになる。

 1985年スタジオジブリ設立。1986年の『天空の城ラピュタ』、1988年『となりのトトロ』と話題作を世に提供し、1997年『もののけ姫』は日本映画史の興行記録を塗り替えるヒット作となる。宮崎監督は、『もののけ姫』の完成後、引退宣言をしたが、翌年、撤回。

 2001年『千と千尋の神隠し』で、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、アカデミー賞長編アニメ賞する。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも引退宣言をしている。2004年『ハウルの動く城』は、世界的に高く評価され、宮崎監督は、ヴェネツィア国際映画祭にて栄誉金獅子賞を受賞。

  2013年、『風立ちぬ』を発表後、長編映画の製作からの引退を宣言するが、2023年『君たちはどう生きるか』が公開される。『君たちはどう生きるか』は、ゴールデングローブ賞と英国アカデミー賞においてアニメ映画賞を受賞し、第96回アカデミー賞(2024)で、長編アニメ映画賞を受賞する。『千と千尋の神隠し』に続き2度目の受賞となった。

【主な作品】『ルパン三世カリオストロの城』(1979)、『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ 』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『紅の豚』(1992)、『耳をすませば』(1995)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋の神隠し』(2001)、『ハウルの動く城』(2004)、『崖の上のポニョ』(2008)、『風立ちぬ 』(2013)、『君たちはどう生きるか』(2023)

宮崎駿の名言1:自分の思いを曲げない

 『何が映画か』(黒澤明 宮崎駿 徳間書店)は、黒澤監督と宮崎監督の対談本で、1993年の出版です。『日本テレビ『映画に恋して愛して生きて』で放映された内容をまとめたものです。『紅の豚』の公開が1992年ですので、『紅の豚』を完成させて一段落している時でしょうか。93年は、黒澤監督は83歳に、宮崎監督は52歳になる年です。2024年は宮崎監督が83歳になる年です。

 尊敬する巨匠黒澤監督を前にして、緊張し、聞き役になっている様子が、本からも伝わってきます。宮崎監督は、日本映画の実写の中で黒澤監督の『七人の侍』が最も好きだと明言しています。

『何が映画か』(黒澤明 宮崎駿 徳間書店)の表紙画像
『何が映画か』(徳間書店)
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 次の言葉は、黒澤監督との対談を終えて、インタビューで口にした宮崎監督の言葉です。

宮崎駿の名言

「自分の思いを曲げないで最後まで歩き続けて、それで堂々と死ぬ」

『何が映画か』(黒澤明 宮崎駿 徳間書店)p175

 この言葉に続けて「その見本として黒澤監督がはるかむこうを歩いていらっしゃるという、そいう感じです」といっています。黒澤監督をどれほどリスペクトしているかがわかる言葉です。

 この言葉は、黒澤監督から「学んだこと」と、とらえることができます。

 アニメと実写で違いはあれどもふたりとも監督です。宮崎監督は、黒澤監督を尊敬はするけど、監督としてはライバルだと考えています。そこで、記者から黒澤監督に「期待することは?」と尋ねられて、こう答えています。

 膝を曲げずに自分もやろう!というふに思うだけです。「世間がいろいろいっても、とにかく俺の思う通りに生きるぞ!回りに迷惑をかけても、俺はこれで生きていく。そういうことをちゃんとやること、それが大事なことなんだと」と全身でおっしゃっているじゃないですか。僕はそう思いますが。で、これはね、人に迷惑を随分かけるんですよ。多くの犠牲を周りに押し付ける。

『何が映画か』(黒澤明 宮崎駿 徳間書店)p174

 宮崎監督はこれまで何度か「引退宣言」をし、それを撤回しながら作品を作りつづけてきました。『もののけ姫』の時、『千と千尋の神隠し』の時、それぞれ「引退宣言」をしました。

 2013年『風立ちぬ』の後の引退宣言では、記者会見も行われ、年齢的なことを考えると、「確かに、これで最後になるだろう」と思われ、多くのファンが「もう宮崎監督の新しい長編アニメ映画は観られないのか」と残念に思いました。

 ところが、この「引退宣言」もまた撤回された形になり、2023年『君たちはどう生きるか』が公開されました。そして、アカデミー賞(2024)で、『千と千尋の神隠し』以来、2度目となる長編アニメ映画賞の受賞となりました。

© 2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli
まっつん
まっつん

 世界に名を知られた宮崎監督のほどの人が「引退宣言」をすると、仕事で関係する多くの人々に影響が及びます。宮崎監督がいっている通り、「人に迷惑を随分」かけますし、「多くの犠牲を周りに押し付ける」ことになります。もちろん、世間はいろいろといいます。

 それでも、『君たちはどう生きるか』の制作にとりかかったのは、黒澤監督から学びとった=「世間がいろいろいっても、とにかく俺の思う通りに生きるぞ!回りに迷惑をかけても、俺はこれで生きていく。そういうことをちゃんとやること、それが大事なことなんだと」、この哲学を変わらず持ちつづけていたからかもしれません。

 「自分の思いを曲げないで最後まで歩き続けて、それで堂々と死ぬ」

 まさに、この言葉通りの人生を歩んできたのが、宮崎駿監督といえます。

宮崎駿の名言2:子どものために作れ

 『日本人への遺言』(朝日新聞社)は、歴史小説家「司馬遼太郎」さんの本で、宮崎駿監督が登場し対談をしています。話題は、「子どもの心」のこととなり、宮崎監督はこういっています。


『日本人への遺言 司馬遼太郎』(朝日新聞社)の表紙画像
『日本人への遺言』(朝日新聞社)
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宮崎駿の名言

ぼくはスタッフに子どものために作れ、子どものために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら本を読め

『日本人への遺言』(司馬遼太郎 宮崎駿 朝日新聞社)

 宮崎作品を知っている人なら深くうなづく言葉です。

 宮崎監督の長編アニメ映画は、世代を問わず、国を超えて多くの人に愛されています。『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『となりのトトロ』『君たちはどう生きるか』など、主人公は「子ども」です。

まっつん
まっつん

 未来をになう「子ども」たちのために宮崎監督は、アニメ映画を作り続けてきました。かといって宮崎作品は「子ども向けアニメ」ではありません。大人が見ても感動があり、学びがあります。

 「子どもの心」の中に、「大人の心」の原型を発見できます。「子どもの心」には、大人が失ってしまった、忘れてしまったピュアな大切な何かが輝いています。映画の世界に没入し、宮崎映画の「主人公(子ども)」の心情にシンクロしていくと、大人になっても「忘れてはいけないもの」「失ってはいけないもの」が、心に浮かびあがってきます。

 自身に息づく「子どもの心」があらわになるので、宮崎作品を通して、多くの大人たちも胸をうたれるわけですね。

 司馬遼太郎さんは、宮崎監督との対談で、こういっています。

 人間は大人になっても、一人ずつ子供をもっていて、恋をするときや、作曲、絵画はー小説もしばしばそうですが、ときに学問も──その子どもがうけもっています。おくやみにゆくときは自分の中の大人がふるまうのですが、創造的なしごとは子どもの役割ですね。ただトシをとると、自分の中の子どもが干からびてきて、いい景色をみても小躍りするような気分が乏しくなります。

『日本人への遺言』(司馬遼太郎 宮崎駿ほか 朝日新聞社)

 「創造的なしごとは子どもの役割」

  司馬さんも宮崎監督も、日本代表する「創造的なしごと」をされてきた人物です。大人になって年齢を重ねても、しなやかな「子どもの心」を失わずに、創造性を発揮した人です。

 実は、宮崎監督は、「ぼくはスタッフに子どものために作れ、子どものために作れといってきたんです。自分のために作るな、自分のためなら本を読め」の後に、「といってきたんですが、恥ずかしいことに自分のために作ってしまいました」とお茶目なことをいっています。

『出発点』(宮崎駿 徳間書店)の表紙画像
『出発点』(徳間書店)
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 その「自分のために作った」作品が、『紅の豚』(1992年公開)です。『紅の豚』は、中年男性に向けた作品であり、宮崎監督の大好きな飛行機が登場します。

 宮崎監督は、自著『出発点』(宮崎駿 徳間書店)で、『紅の豚』について「まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男たちのための、マンガ映画」であることを忘れてはならない」と書いています。

© 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN

 「子どものために作れ」といっておきながら、「自分のため」「大人のため」にも作品を生み出しています。そうした「しなやかさ」こそ、宮崎監督が「子どもの心」を失っていない証といえるでしょう。

宮崎駿の名言3:配慮を自分でも持っていないと

 宮崎監督の右腕に鈴木敏夫プロデューサーがいます。スタジオジブリも資本提携に関して紆余曲折あり、2023年、日本テレビの子会社となっています。一時期、スタジオジブリの代表取締役を務めていたのは、鈴木プロデューサーです。宮崎監督はクリエイターとして作品づくりに集中し、会社経営のことは主に鈴木プロデューサーの担当、というイメージがありますが、宮崎監督も経営陣の一員ですので、経営的なことにも関わります。

 そこで、宮崎監督の著書 『風の帰る場所』(文藝春秋)に「経営者」という一節があります。

 「経営者」の一節で、次の言葉があります。

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 (文春ジブリ文庫 )の表紙画像
『風の帰る場所』(文藝春秋 )
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宮崎駿の名言

「膨大な仕事をやってもらってる中で、一番近いものには厳しくすべきだけども、遠く離れてやっているスタッフに対してはね、そういう配慮を自分でも持っていないとと思うんですよ。外注はひどいとかね、十把一絡にそういうことをすぐ言う奴がいますけど、もう、大っ嫌いですね、そういう奴は」

『風の帰る場所』(宮崎駿 文藝春秋 )

 この言葉はあるエピソードを受けてのものです。そのエピソードとは、こんな感じです。

 宮崎監督が、ある時、ある面倒くさいカットがあって、あるプロダクションに外注します。できあがりを見たら、満足のいくできでした。
 「これはお礼を言ったほうがいい」と、宮崎監督は思います。その外注プロダクションから電話があって、「いや、とてもいいカットでした、どうもありがとうございました」と、お礼をいいました。

 後日談…。宮崎監督と電話で話した人は、監督の「感謝の言葉」を聞いて、泣いていたそうです。

 宮崎監督の「そういう配慮」とは、協力してくれた会社の人に対して、発注者だからといって高飛車になるなどもってのほかで、「一緒に作品をつくりあげている」という仲間意識をもって、そして、感謝の気持を丁寧に表現していくことです。

 それが「そういう配慮」です。

 スタジオジブリで掃除をしてくれるおじいさんとおばあちゃんがいたそうです。その人たちに対して、一番丁寧に挨拶するのは「自分」(宮崎監督)と鈴木プロデューサーだと、『風の帰る場所』(文藝春秋)に書かれています。

 「一番近いものには厳しくすべき」とある通り、スタジオジブリのスタッフに対しては、時に厳しく叱責をします。「NHKプロフェッショナル」で、鳥のカットが手抜きに思えたようで、あるスタッフを怒鳴りつけているシーンが流れました。

© 1986 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

 作品づくりに対する厳しさがあるからこそ、感謝や挨拶など、人に対する基本的な配慮を大切にするともいえます。厳格さと丁寧な配慮があって、あの宮崎作品が生まれてくるのですね。

宮崎駿の名言4:本当に困らないとだめなんです

 2010年、スタジオジブリ作品のアニメ映画『借りぐらしのアリエッティ』が公開されました。企画脚本は宮崎駿さんですが、監督はジブリの米林宏昌さんです。公開をきっかけに『BURUTUS』が、スタジオジブリ特集を組み、宮崎監督のインタビューが掲載されています。

BRUTUS (ブルータス) 2010年 8/1号の表紙画像
『BURUTUS』(マガジンハウス)
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 そのインタビューで宮崎監督は、作品づくりについて語っています。

宮崎駿の名言

 作品というのは全部理詰めで作るとつまらないんです。理屈ではこうだけど、どうしてもこれではおかしい、これじゃつまらない、じゃあどうするか。理詰めじゃないものが出てくるには、本当に困らないとだめなんです。とにかく追い詰められるしかないんです、ものすごく。どれだけ自分を追い詰められるか。

『BURUTUS』2010 8/1(マガジンハウス)

 理詰めでは作品はつまらなくなるから、理詰めではないものを出すために、本当に困ることが必要というわけです。では、その理詰めではないもは、どこから出てくるかというと、宮崎監督は、上の言葉の前に、こういっています。

 人間の内面の奥の方には、何か混沌としたエネルギーやら個人の記憶を超えた記憶のようなものがあるんだと思うんです。それに従うわけです。『BURUTUS』2010 8/1(マガジンハウス)

 この言葉から、ユング心理学でいう『集合的無意識』(collective unconscious)を思い出します。

 ユングは、「無意識」「個人的無意識」(personal unconscious)と「集合的無意識」(collective unconscious)に分けて考えました。「個人的無意識」は「意識」の領域の下にあり「個人の記憶」が蓄積されています。そして「個人的無意識」のさらに奥に、「集合的無意識」があり、ここでは人類に共通する心のパターンが動いています。

 「集合的無意識」とは、まさに混沌したエネルギーであり「個人の記憶を超えた人類の記憶のようなもの」といえます。

まっつん
まっつん

「集合的無意識」の要素は、時に、「夢」の世界に登場してきます。神秘的で超常的な夢を見たら、それは「集合的無意識」からのメッセージかもしれません。

 宮崎監督が「集合的無意識」を知っているかどうかはわかりません。

 宮崎監督の言葉=「何か混沌としたエネルギーやら個人の記憶を超えた記憶のようなもの」は、ユング心理学で考えると、「集合的無意識」のことといえます。そして「それに従う」というのですから、宮崎監督は「集合的無意識」からヒントを得ようとしていると考えられるのです。

 ユング派心理療法家の河合隼雄先生は、『ユング心理学入門』(培風館)で、こう書いています。

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)の表紙画像
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「われわれの自我が問題に直面し、あらゆる意識的な努力を続けても解決できず、絶望に陥りそうなときに、自己の働きが起こり、われわれは今までの段階とは異なった高次の解決を得ることを経験する」

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)p228

 上の文でいう自我(エゴ)とは、ユング心理学では、心の表層部分である「意識」の領域を統括している「心の働き」です。「自己の働き」での「自己」(セルフ)とは、意識と無意識を含めた心全体を統括している「心の働き」です。「自己」(セルフ)の働きは無意識のものです。

 宮崎監督は、「理詰めじゃないものが出てくるには、本当に困らないとだめなんです。」といっています。「絶望に陥りそうなとき」に、「高次の解決」として「理詰めではない、作品をおもしろくする何か」を得てきたのでしょう。

© 2010 Mary Norton/Keiko Niwa/Studio Ghibli, NDHDMTW

 宮崎監督は、「経験のない人にはちょっとわからないと思うんですけどね」と前置きして、「人間の内面の奥の方には、何か混沌としたエネルギーやら…」と続けています。これを逆に言えば、「自分は経験をしているのでわかる」ということです。

 何度も何度も、本当に困って絶望しそうになって、そうして、無意識のもたらす高次の解決を手にして、あの数々の名作が創り出されてきたのですね。

宮崎駿の名言5:それは自分に対する敗北ですよ

 『黒沢明、宮崎駿、北野武 日本の三人の演出家』(インタビュー:渋谷陽一 ロッキング・オン) に、宮崎監督のロングインタビューがおさめられています。1989年11月に行われたものです。この時点での宮崎作品の最新作は『魔女の宅急便』です。

黒沢明、宮崎駿、北野武 ( ロッキング・オン)
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 宮崎監督は、自分のことをやたらと卑下します。例えば「このだらしなさとか、そんなの今さら他人に言われたくないし」(p114)「底知れぬ悪意とか、どうしようもなさとかいうのがあるのは十分に知ってますが」(p115)など、自分に対する評価になると、やけに否定的になります。

 この否定的なとらえ方は、自身のことだけに限らず、「大人」という存在に対する宮崎監督の実感のようです。

 宮崎監督は、「『人というのはこうものだ』っていうふうな描き方じゃなくて、『こうなったらいいなあ』っていう方向で映画を作ってます」(p114)といいます。

 大人の否定的な側面に共感していく映画ではなくて、子供たちが『こうなったらいいなあ』と思える映画づくりを目指しています。このインタビューでも、「子供のために作品を作りたい」といっています。 

 『人というのはこうものだ』となると、どうしてもニヒリズム(虚無主義)の要素が強くなります。ニヒリズム(虚無主義)とは、「この世界や人間に本質的な価値はない」とする考え方です。そこで、宮崎監督の言葉です。

宮崎駿の名言

 ニヒリスティックになったり、ヤケクソになったり、刹那的になるってことは、いまは少しも僕は肯定したくないんですよ!たとえそれが自分の中にどんなにあってもね、それで映画を作りたいとは思わないんです。それは自分に対する敗北ですよ。

『黒沢明、宮崎駿、北野武』 ( ロッキング・オン)p116-117

 大人の「だらしなさ」「底知れぬ悪意」「どうしようもなさ」が現実には確かにあって、それを『人というのはこうものだ』と物語っていくのが、大人の否定的な面に共感していくニヒリスティックな映画づくりです。

「大人だってだらしないし、底知れぬ悪意をもってるんだから、人ってそういうもんだよ、人生なんて無意味だよ」といったニヒリズム(虚無主義)は、人を悲観的にし、やがて絶望を生み出します。

 それは子どもたちから未来を奪う考え方です。もし、そんな考え方で映画を作ったら、まさに宮崎監督にとって「自分に対する敗北」になります。

  世界的心理学者V・E・フランクルは、こういっています。

悲劇に直面していても、幸せな人はいる。
苦しみにもかかわらず存在する意味ゆえに。
癒しの力は、意味の中にこそあるのです。 
『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル 春秋社)

 フランクルは、「人生はどんな時にも意味がある」と考えた人です。宮崎監督のように、人生における希望の大切さを唱えつづけた人です。

まっつん
まっつん

 『こうなったらいいなあ』という方向性が、宮崎監督の指針です。『風の谷のナウシカ』(1984)も、『天空の城ラピュタ』(1986)も、『となりのトトロ 』(1988)も、人が『こうなったらいいなあ』という理想や希望をベースに描かれています。

 宮崎監督には、現代社会をおおうニヒリズム(虚無主義)を超克しようとする、つまり、ニヒリズムを乗り越え、ニヒリズムに打ち勝とうとする「生きる姿勢」があります。

© 1989 Eiko Kadono/Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, N

 数々の映画作品もそうですが、宮崎監督の生き方そのものも、私たちに『こうなったらいいなあ』という希望を与えてくれています。

宮崎駿の名言6:君を助けてくれる人間があらわれるよ

 『本へのとびら』(岩波書店)は、スタジオジブリ制作『借りぐらしのアリエッティ』(原作『床下の小人たち』)の公開(2010)と岩波少年文庫創刊60周年を機に生まれた本です。宮崎監督が岩波少年文庫の中から、3ヶ月をかけて再読し、50冊を選び出し、その感想が記されています。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書) の表紙画像
『本へのとびら』(岩波書店)
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 出版は2011年10月20日です。本の後には、東日本大震災(3.11)の発生を受けての宮崎監督の思いが語られています。その文に、次の言葉がありました。

宮崎駿の名言

 何かうまくいかないことが起こっても、それを超えてもう一度やり直しがきくんだよ、と。たとえいま貧窮に苦しんでいても、君の努力で目の前がひらける、君を助けてくれる人間があらわれるよ、と、子どもたちにそういうことを伝えようと書かれたものが多かったと思うんです。

『本へのとびら』(岩波書店)p162-163

 宮崎監督の児童文学の「あるべき姿」を語ったものととれます。

 この言葉は、名言5であげた「『こうなったらいいなあ』っていう方向で映画を作ってます」の『こうなったらいいなあ』の具体的な内容と考えることができます。

 宮崎監督は、基本的には、子どものために映画を作っています。映画を通して、子どもたちにメッセージを伝えています。そのメッセージを次のものと考えると、深くうなづけます。

何かうまくいかないことが起こっても、それを超えてもう一度やり直しがきくんだよ、と。たとえいま貧窮に苦しんでいても、君の努力で目の前がひらける、君を助けてくれる人間があらわれるよ

 こうしたメッセージに対して、「そんなこといっても現実は違うよ、そうはならないよ」と、否定的な評価をくだすのがニヒリズム(虚無主義)です。

 「この世界や人間に価値なんてない」とするニヒリズム(虚無主義)は、さらなる高みへ向かう「心のエネルギー」を奪います。悪い意味での「あきらめ」を生み出します。

まっつん
まっつん

 ただでさえ人には、本能をベースとした「欲」があります。「欲」とは、人間を低いレベルにおしやろうとする力にもなります。「寝て」「食べて」という自分の「欲」を満たすことだけに夢中になったら、それはとても寂しい人生です。

 名言5にも登場した心理学者フランクルは、こう述べています。 

「自分の中の、より高い欲求や目標を含んだ、高いレベルで自分自身を見る経験がない限り、人間もまた、その人が本来持っていたであろうレベルより低い所に落ち着いてしまうのである」

『〈生きる意味〉を求めて』(V・E・フランクル[著]、諸富祥彦[監訳] 春秋社)

 人間には、「欲」という、自己を低いレベルに押しやる力が働いています。

 その力のいいなりになったら、なまけ癖のついた「だらしない人間」になってしまいます。だから、高いレベルへと自分を押し上げる「希望」や「理想」が必要なのです。

© 2010 Mary Norton/Keiko Niwa/Studio Ghibli, NDHDMTW

 「希望」や「理想」が必要なのは、子どもだけでなく、もちろん、大人も、です。

宮崎駿の名言7:大事なことは面倒くさい

  2013年8月16日放送のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』(宮崎駿スペシャル「風立ちぬ」1000日の記録)で、宮崎監督の仕事ぶりが放映されました。宮崎作品『風立ちぬ』の制作現場への密着です。宮崎監督が、日頃、どんな風に仕事をしているのか、生の姿が映し出されていました。

© 2013 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NDHDMTK
まっつん
まっつん

 この放送をみて、意外というか驚いたのは、宮崎監督が貧乏ゆすりをしながら「面倒くさい」という言葉をくりかえすことです。貧乏ゆすりは、自分を鼓舞するためにしているとのことですが、それにしても「面倒くさい」とは、ずいぶんとネガティブだな、と感じました。

 宮崎監督のことですから、「面倒くさい」は、本音でしょう。ただ、もちろん、「面倒くさい」に込められた意味がありました。それが次の言葉です。

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宮崎駿の名言

 そなんですよね。「大事なことは面倒くさい」のです。仕事のことは特にそうですね。面倒臭いことがたくさんあります。面倒くさいから、ついつい手抜きをしたくなります。そうして手抜きをしてしまうと、仕事の質が落ちて、いつかしっぺ返しがきます。

 楽すれば楽が災いして楽ならず。

 そんな言葉がありますが、手抜きは災いを連れてきます。ですから、仕事を丁寧にするとは、面倒くさいことから逃げずに、手を抜かずにやることですね。

 この名言は、次の宮崎監督の言葉の一部です。

「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ。何が面倒くさいって究極に面倒くさいよね。『面倒くさかったらやめれば?』『うるせえな』って、そういうことになる。世の中の大事なことってたいてい面倒くさいんだよ。面倒くさくないところで生きていると、面倒くさいのはうらやましいなと思うんです」

NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』(宮崎駿スペシャル「風立ちぬ」1000日の記録)

 仕事をするのが面倒くさいなと感じることもあります。でも、本当に仕事がなくなってしまったら、何もすることがなくなってしまったら、面倒くさいと感じられた日々が、どこか愛おしく感じられます。

 だから、仕事があること、仕事ができていること、面倒くさいと思えていることは、「うらやましい」となるわけです。

 「面倒くさい」と思うのは大いに結構。それより、手抜きをしないことが大切ですね。

宮崎駿の名言8:努力はいつか実る

 『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』(文藝春秋 )の出版は、2013年です。宮崎監督の対談相手である半藤一利さんといえば、文藝春秋で専務取締役を務めたこともある人で、新田次郎文学賞、山本七平賞などの文学賞の受賞歴もあり、特に昭和史に精通された人物として著名です。

 対談は前半と後半に分かれ、後半は、2013年公開の宮崎作品『風立ちぬ』にまつまわる内容になっています。

 宮崎監督から「半藤一利さんと対談をしたい」というリクエストがあり、この本が生まれました。零戦のことなど、かなりマニアックな話が展開されています。

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 「東京湾は昔、きれいだった」という対談の流れから、半藤さんの学生時代のこととなります。半藤さんは、高校・大学を通してボート部で活動していたそうです。大学は東大です。昭和26年(1951)、大学3年生の時に50センチの差で慶應に敗北し優勝を逃します。これに勝っていたらヘルシンキ・オリンピック出場でした。その翌年、大学4年となった半藤さんは「全日本優勝」を果たします。

 この話を受けて、宮崎監督のいった言葉が、次のものです。

宮崎駿の名言

地道に根気よく、つらいことでも頑張って続ければ努力はいつか実る。

半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2817). Kindle 版.

 そうですね。まさに子どもたちに「希望」を感じさせてくれる言葉です。

 宮崎監督だって、現実の世界では、努力が100%実らないことは、痛いほどわかっています。宮崎監督の手がけた作品の全てが、そのクオリティや第三者からの評価や興行収入などを含めて、自分自身で納得のいく結果になっているかるといえば、「そうではない」と、インタビューでよく話しています。

まっつん
まっつん

 確かに努力は100%は実らないけど、がんばって続けていると、実ることもあります。それも現実であり、そこに「希望」があります。だから「不安」にならず、「頑張って続ければ努力はいつか実る」と信じて、私たちは「地道に根気よく」やっていくわけですね。

 「不安」にならず、と書きました。その「不安」について、宮崎監督は、こう語っています。 

宮崎駿の名言

 若い人たちはやたら「不安だ、不安だ」と言うんですが、ぼくは「健康で働く気があれば大丈夫。それしかないだろう」と言い返しています。「不安がるのが流行っているけど、流行に乗っても愚かなる大衆になるだけだからやめなさい」と。「不安なときは楽天的になって、みんなが楽天的なとき不安になれ」とね。

半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2619-2622). Kindle 版.

 人は誰もが不安になるものです。「不安がるな」といっても不安は無意識の作用が大きので、どうしても不安は出てくるものです。

 そこで、「不安に対処する方法としてよく言われていること」と、宮崎監督の言葉「健康で働く気があれば大丈夫。それしかないだろう」は、共通点があります。

 不安に対処する方法のひとつは、「不安は不安のままにして、行動することに意識をフォーカスしていこう」です。

 不安になる自分を否定するのではなく、不安になっているその気持ちはそのまま受け入れて、不安なままでいいから、行動していくことに集中するのです。

 もし、その行動が仕事であれば、「とにかく仕事をすること」であり、宮崎監督の「それしかないだろう」は、不安対処に関して的を射ることばです。仕事に集中できれば、その時、人は「不安」を感じていません。不安は心から消えています。

© 2013 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NDHDMTK

 だから、「つらいことでも頑張って続ければ努力はいつか実る」ことを信じて、「地道に根気よく」、自分のやるへきことに集中していくことが、とても大切ですね。

宮崎駿の名言9:闇も大切なんだと

 書籍『時代の風音』(朝日新聞出版者)は、宮崎監督の希望で生まれた対談本です。対談相手は、歴史小説家の司馬遼太郎と芥川賞作家堀田善衛です。宮崎監督は、最も尊敬する小説家として堀田善衛の名をあげています。

時代の風音 (朝日文芸文庫)の表紙画像
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 話題が「アニメーション」になったところで、司馬さんが宮崎監督にお願いをします。「宮崎さんに一つ作ってほしいテーマがあるのですが。平安時代の京の闇に棲んでいた物の怪のことです」(p115)と。

 司馬さんがこのリクエストをしたのは、天狗が出るという志明院(京都)に泊まった時に不思議な体験をしたからです。天狗だったかどうかはわかりませんが、司馬さんは、障子がゴトゴト揺れたり、ドンドンドーンと四股を踏むように踏んでいく音を聞いたといっています。

 司馬さんの不思議な体験が話された後、いつくかの奇怪談がつづき、そうした目に見えない存在は、「電気がつくといなくなると言いますね」と宮崎監督がいうと、司馬さんが「いなくなる。だから電気のない闇というもののすばらしさを、宮崎さんのアニメでひとつ表現していただきですな」(p117)と、ここでまたリクエストがなされます。

 この対談の時、すでに『となりのトトロ』(1988)は、公開されていました。

© 1988 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

 司馬さんは『となりのトトロ』がお好きだそうです。「物の怪」の一種といえる「トトロ」や「ネコバス」が登場しています。闇の側にいる存在たちへの想いが宮崎監督にはあります。そこで宮崎監督は、こう語っています。

宮崎駿の名言

 森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが(笑)

『時代の風音』 (朝日新聞出版)p119

 都市化は、光を空間に広げていきます。光ばかりになったら陰影がなくなり単調で寂しい風景になります。

まっつん
まっつん

「光害」という言葉がある通り、光にも「害」があります。強い光の中にい続けると、人は安眠ができなくなり、心身に不調をきたします。人間には「闇」が必要です。人の性格にも、影があるから、個性が生まれます。

 実は、司馬さんからのこのお願いから着想をえて、あの『もののけ姫』(1997)が誕生したといわれています。

『もののけ姫』(監督:宮崎駿 スタジオジブリ)
『もののけ姫』
(監督:宮崎駿 スタジオジブリ)

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 この時いった通り、人間だけでなく、「闇」ほうにも味方をした名作が生まれました。

宮崎駿の名言10:人生の真実はキラキラした正しいものがあるんじゃないよ

 2023年12月16日、NHKプロフェッショナル「ジブリと宮﨑駿の2399日」が放映されました。『風立ちぬ』で引退宣言をしたため、宮崎監督の長編アニメ映画の新作は、もう観られないものとファンは思っていました。ところが、引退宣言を撤回し、『君たちはどう生きるか』が2023年に公開され、第96回アカデミー賞(2024)で、長編アニメ映画賞を受賞します。

© 2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli


 さて、宮崎監督は、NHKプロフェッショナル「ジブリと宮﨑駿の2399日」で、こんな言葉を残しています。

宮崎駿の名言

「人生の真実はキラキラした正しいものがあるんじゃないよ。ドロドロとか色々なもの含めて全部あるから、自分の奥に隠してあることとか眠っていることを引っ張り出して作品を作らなきゃダメな時期だろ」

NHKプロフェッショナル「ジブリと宮﨑駿の2399日」(2023.12.16放映)

 「自分の奥に隠してあることとか眠っていることを引っ張り出して」と聞くと、名言4で書いた次の言葉が思い出されます。

 人間の内面の奥の方には、何か混沌としたエネルギーやら個人の記憶を超えた記憶のようなものがあるんだと思うんです。それに従うわけです。『BURUTUS』2010 8/1(マガジンハウス)

 「人生の真実はキラキラした正しいものがあるんじゃないよ」からは、「私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっている」(『時代の風音』p119)につながっていきます。

 光があれば闇があります。キラキラしたものだけではなくて、ドロドロとしたものもあり、ふたつが対立しあって、そうしてエネルギーが生まれてきます。

 「対立」がエネルギーを生む。この考え方を、世界三大心理学者のひとり「C.G.ユング」は大切にしていました。ユングはこういっています。

『エッセンシャル・ユング』(アンソニー・ストー 創元社)の表紙画像
『エッセンシャル・ユング』(創元社)
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「あらゆる意識は、おそらくそれと気づかないうちに無意識内に対立するものを求めるのである。対立するものがなければ、意識は抗いようもなく停滞、渋滞、硬直化へと向かう。人生は対立するものの閃光によってのみ生まれるのである」

『エッセンシャル・ユング』(創元社)p175 

 「意識」と「無意識」がぶつかりあって、まざりあって、人の心は成熟していきます。意識の表面にある「自我」(エゴ)と、心の奥底にある「無意識」からの働きかけがあって、その人ならではのユニークな何かが創造されていきます。

 「対立あるところに創造あり」です。

 「意識」(自我)だけで考える自分は、「小さい自分」です。人の心には「無意識」という、宇宙のように広い心の領域があり、それを含めて自分です。ですから、自分とは自分で考える以上に、もっと大きな心をもった「大きい自分」です。

 「小さい自分」だけで考えることは、自我(エゴ)を中心とした考え方です。

 原作『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎 岩波書店)で、主人公コペル君が、おじさんの「ものの見方」がタイトルのノートを読む場面があります。そのノートに、こう書かれてあります。

『君たちはどう生きるか』(岩波書店)
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「自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ

『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎岩波書店)p26-27

 ここでいう「大きな真理」を宮崎監督のいう「人生の真実」だとすれば、「自分ばかりを中心」にした「自我(エゴ)=中心」思考ではなく、無意識にあるドロドロしたものとも向き合い対立していく、心全体を視野に入れた考え方が求められます。 

© 2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

  自分のドロドロしたものと対立し、それを受け入れ、時に傷つきながら、私たちは成長していくのです。

(文:松山 淳


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「悟り」のこころ(ユング心理学)https://www.earthship-c.com/jung-psychology/enlightenment/Thu, 14 Mar 2024 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=16108

 「悟り」とは、宗教的な修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験を通して、人生に迷いがなくなる境地である。「悟りを開く」「悟りの境地に達する」という。心理学的に考えると、「悟り」とは「意識の変容」を意味する。  C.G.ユ ... ]]>

 「悟り」とは、宗教的な修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験を通して、人生に迷いがなくなる境地である。「悟りを開く」「悟りの境地に達する」という。心理学的に考えると、「悟り」とは「意識の変容」を意味する。

 C.G.ユングの著『東洋的瞑想の心理学』(創元社)がある。東洋思想・宗教に関するユングの論文をまとめた本であり、「悟り」についても考察している。ユング心理学(分析心理学)を確立していくプロセスにおいて、東洋思想との出会いは、ユングにとってターニングポイントとなっている。

C.G.ユングの著『東洋的瞑想の心理学』(創元社)の表紙画像
『東洋的瞑想の心理学』(創元社)
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 無意識に関する意見の相違から、ユングは「師」といえたフロイトと訣別することになる。その後ユングは、方向喪失の状態となり精神的危機に陥る。この時期、ユングは「曼荼羅(マンダラ)のような絵」を描いていた。また、患者の中にも「曼荼羅のような絵」を描いて持ってくる人がいた。

 ユングは東洋思想の「曼荼羅」を知っていて「曼荼羅のような絵」を描いていたわけではない。不安定になっている自分の心をおさめようとして、自然と、「曼荼羅のような絵」を描いていたのだ。その絵が、東洋の曼荼羅に似ているとわかったのは、『黄金の華の秘密』と題する道教の錬金術に関する論文をみてであった。この論文は、中国在住のドイツ人宣教師リヒアルト・ヴィルヘルムが送ってきたものである。

ユング画像
心理学者C.Gユング
(Carl Gustav Jung)

 フロイトという「拠り所」を失い、「新たな拠り所」として期待したグノーシス主義の研究も納得できるレベルではなかった。仕事に行きづまっていたユングは、『黄金の華の秘密』との出会いについて、「これは私の孤独を破った最初のことがらであった。私は類似性に気づき始めた。私は何ものかと、そして誰かと関係を打ち立てることがきでるはずだ」(『ユング自伝1』みすず書房 p280)と自伝に書いている。

 「孤独を破った最初のことがら」という言葉から 、ユングにとってどれほどインパクトがあったのかがわかる。

 ユングはヴィルヘルムの論文をきっかけに、錬金術の研究に没頭していく。ユング独自の心理学理論を支える「新たな拠り所」を『黄金の華の秘密』の中に見い出したのである。

 それ以前に、「ヨガ」や「易」にも興味を持っていたユングは、『黄金の華の秘密』との出会いをきっかけに、西洋思想だけでなく東洋思想の考え方も取り入れながらユング心理学(分析心理学)を打ち立てていく。

 そのため「西洋」と「東洋」の出会いは、ユング派の日本人心理療法家にとっても課題といえる。次の3冊は、東洋思想とユング心理学を融合させたユング派の日本人心理療法家による代表的な著作である。

  • 『ユング心理学と仏教』(河合隼雄 岩波書店)
  • 『悟りの分析』(秋山さと子 PHP研究所)
  • 『仏教とユング心理学』(目幸黙僊 J.マーヴィン スピーゲルマン  春秋社)

 この3人の著者の中で特に興味を引くのが、目幸黙僊(ミユキ モクセン)氏の存在である。

 なぜなら、目幸氏は僧侶(浄土真宗)でありつつ、米国の大学で教えていた宗教学者であり、かつスイスのユング研究所で国際資格をとった心理療法家でもあるからだ。「東洋」と「西洋」の出会いの体現者が、目幸氏である。ちなみに、秋山さと子氏も禅寺の育ちである。

 目幸氏は、『仏教とユング心理学』(春秋社)において、「悟りの本質的な特徴は、自我の超越や自我の否定にあるのではなく、むしろ、自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」(p75)と書いている。

『仏教とユング心理学』(目幸黙僊 J.マーヴィン スピーゲルマン  春秋社)の表紙画像
『仏教とユング心理学』(春秋社)
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 「悟り」を「一生を賭けたプロセス」とらえ、「自我が無意識の内容を統合する」こと、つまりユング心理学のキーコンセプトである「個性化の過程」と重ね合わせている。「個性化」(individuation)とは、『その人がなりうる〝本来の自分になっていくこと』だ。

 冒頭書いた通り、「悟り」といえば、「宗教的な何らかの修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験」を想像する。神秘的、超常的、急激的な「覚醒体験」が「悟り」だ。すると、宗教を信仰せず、修行に取り組まない人々にとって、「悟り」は縁遠いものだ。しかし「個性化の過程」というユング心理学の視点から眺めていくと、その縁遠さが、やや身近なものとなってくる。

 目幸黙僊氏の考え方を軸に、ユング心理学の知識もおりまぜながら「悟りのこころ」について考えていく。

「悟り」とは何か?

 「悟り」とは本来、仏教の言葉です。でも、現在の日本においては、仏教だけに限らず、ヨガや精神世界やスピリチュアルの領域においても、「悟り」という言葉は使われます。いずれにしても、通常の意識を超越する「覚醒体験」ととらえることは、共通しています。

 では「悟り」とは、いったいどんな体験なのでしょうか。。「悟る」ことで、どんな変化が起きるのでしょうか。それを知るためには、実際に「悟り体験」をした人から話を聞くか、「悟り体験」をした人の記録にあたるに限ります。

 大乗仏教における「悟り体験」をまとめた本に『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)があります。大竹先生は仏教研究者です。「悟り体験」の記された中国古典から近現代までの書を網羅して「悟り」の本質に迫っています。

書籍『悟り体験を読む』の画像
『「悟り体験」を読む』(新潮社)
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悟りの「頓悟」と「漸悟」

 仏教の悟り体験には、「頓悟」(とんご)と「漸悟」(ぜんご)があります。「頓悟」は、ある日、ある時、突然、「悟りの境地」に達することです。急激な変化を伴う覚醒体験が「頓悟」です。これに対して「漸悟」は、時間をかけて、だんだんと「悟りの境地」に至ることです。

まっつん
まっつん

 一般的に私たちが抱く「悟り」に対するイメージは、「頓悟」のほうでしょう。突然、「わからなかったものが、わかる」「明らかでなかったものが、明らかにされる」。そんな覚醒体験です。

 「頓悟」があっても、もちろん終わりではなく、宗教家たちの修行は「悟った」後も続きます。

 「頓悟」がいくつか起きて、さらに深い「悟り」に至る例もあります。「小悟」(小さな悟り)と「大悟」(大きな悟り)という言葉があります。「頓悟」が「小悟」の時もあり、「小悟」を積み重ねて段階的に「大悟」を得たとしたら、そのプロセス全体は「漸悟」だったといえます。

 目幸氏が「悟り」を「一生を賭けたプロセス」と書いているのは、「頓悟」と「漸悟」でいえば「漸悟」のほうだといえます。

悟り体験の5つの枠組み

 『「悟り体験」を読む』(新潮社)には、「頓悟」と「漸悟」のいずれもの例が掲載されています。大竹先生は、数多くの悟りに関する文献を読み漁り、「悟り体験」を5つの共通の枠組みに整理しています。それが次の5つです。

自他忘失体験

 自他忘失体験とは、自分と他者との隔たりがなくなり、「ただ心」だけになる状態です。「精神世界」の概念ですと、「非二元」(ノンディアリティ)「一元」(ワンネス)の体験といえるものです。人に強いインパクトを与える体験ですが、禅宗の臨済宗では「悟り」(見性:けんしょう)とはされない段階です。

 以下、個人名は、『「悟り体験」を読む』(新潮社)に登場する悟り体験をした「覚者」たちの名前です。

  • 倉田百三「宇宙と自己がとが一つになつているのを覚証した。其処(そこ)には天地と彼我とは端的に一枚であった」(p218)
  • 抜隊得勝「みだりな想いが尽きて胸中に一つの物もなく、内側〔である自己〕と外側〔である他者〕との隔てがなくなることは、晴れわたった大空のようであって、全方向にわたってすっきりしている」(p219)

真如顕現体験

 真如顕現体験とは、「自我の殻」が破られ「真如」を知る体験です。「真如」とは、この世界の様々な枠組みに「我(確かな自分)がない」ことです。つまり、「真如」を知るとは、仏教が重視する「空性」(からっぼさ)を知ることです。禅宗の臨済宗では、真如顕現体験をもって「悟り」(見性)とされます。

  • 山田無文「わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか」(p222)
  • 江部鴨村「そのとき俄然、私は、無限と有限と一体の実感を得た」(p222)

自我解消体験

 自我解消体験とは、私たちが日常で「自分」と考える「いつもの意識(自分)」=「自我の殻」が解消される体験のことです。「いつもの意識(自分)」が解消されて、「自我の殻」にあったものが外に飛び出し拡散される経験もあります。

  • 今北洪川「ただ、自分の体内にあった一つの気が、全方向の世界に満ち溢れ、光り輝くこと無量であるのを、知覚するのみだった」(p223)
  • 白水敬山「自己の心気力が宇宙に遍満して心身を忘失してしまった」(p223)
  • 朝比奈宗源「見るもの聞くもの何もかもきらきら輝いた感じ、そこに生も死もあったものではない」(p224)

基層転換体験

 基層転換体験とは、「いつもの意識(自分)」が解消されることで、生きている感覚の基礎となっている「心と体」の仕組み(感じ方・認識の仕方)に、パラダイムシフトが起きる体験です。「心の外側にあった全世界がその後は心の内側にあるかのように」(p226)感じられることも起きてきます。

  • 菩提逹磨「悟ってからは心が景色を包んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている」(p226)
  • 原青民「心の外側に実在すると思っていたものは、まったく思いがけないことに、心の内側に顕現された対象であったのだ」(p176)

叡智獲得体験

 叡智獲得体験とは、悟り体験の前では知り得なかった「叡智」を獲得する体験のことです。解けなかった「公案」(師から与えられた悟りを開くための問題)が、たちどころにわかってしまいます。また、理解不能だった宗教的な問題が、わかってしまうこともあります。

  • 梶浦逸外「ひとたび見性いたしますと、あとにつづく公案がどんどん解決していきました」(p228)
  • 平塚らいてう「神とは何か、自我とは何か、神と人間との関係、個と全体との関係などと、女子大時代に頭の中だけでの、概念の世界で模索していた諸問題が、みんないっしょに解決され、」(p228)

 以上、5つの枠組みでの「悟り体験」の例は、あくまで一例であり、各時代を生きた覚者が「悟り体験」に関して、さまざまな表現をしています。あくまで大乗仏教での「悟り」体験です。

 「悟り」に近い超越的な「覚醒体験」は、仏教だけでなく、キリスト教(神秘主義)を始めとした西洋の宗教でもいろいろな体験が記録され、報告されています。ヨガや精神世界での「覚者」による「悟り体験」もあります。

 ただ、その中核にある「悟り体験」に関する要素は共通する要素が多く、それを『「悟り体験」を読む』(新潮社)では5つに整理しているわけです。

平塚らいていの悟り体験

 『「悟り体験」を読む』(新潮社)によると、多くの「悟り体験」をした人(覚者)が、古い時代から伝えられてきた「悟り」に関する叡智は「本当だった」と、驚いています。

 「自分と他者との隔たりがなくなり、「ただ心」だけになる」と書かれたのを読んだ時に、「そうなのか」と、頭では理解できます。「頭だけの理解」を真に理解するためには、やはり、実際に自分で体験するしかありません。半信半疑だった知識をリアルな体験を通して理解できた時、そこに自分自身の根幹を変化させる「驚き」が生まれます。

 また、多くの覚者が、「悟り」を得られたことに、強い喜びを感じています。大正から昭和にかけて女性解放運動を展開した思想家「平塚らいてい」は、「悟り体験」の喜びを、こう記しています。

平塚らいてうの自画像
平塚らいてう 出典:Wikipedia

「わたくしの場合は半年あまりかかって、徐々に心境が展開し、ついには百八十度の心的革命というか、一大転回を遂げたのでした。これはわたくしにとっては、まさしく第二の誕生でした。(中略)第二のこの誕生は、わたくし自身の努力による、内観を通して、意識の最下層の深みから生まれ出た真実の自分、本当の自分なのでした。

求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、わたしはその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました」

『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)p128

 「悟り」の強く深い喜びを「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」と表現することがあります。「平塚らいてい」は、うれしさのあまり1日中歩いたと書いています。まさに「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」状態だったのでしょう。

 どれほどの喜びなのか。ぜひ、体験してみたいものです。悟りを得た「覚者」たちは、誰もが日々、修行を重ねています。文献を読むだけでは「悟りの体験」はできないので、頭で理解しようとせず、「修行」に励むしかないですね。

「悟り」とは「意識の変容」のこと

 「平塚らいてい」の文章に「百八十度の心的革命」とあります。「心的革命」を心理学で考えれば、それは「心が変わる」ことであり「意識の変容」を意味します。「悟り体験」を「百八十度の心的革命」とするなら、「悟り」とは「意識の変容」の特殊なパターンといえます。

 「意識の変容」なら、誰もが経験しています。

まっつん
まっつん

 30代の人が10代の自分をふりかえった時、50代の人が30代の自分を思い浮かべ内省する時、「過去の自分」と「今の自分」を比べて、何らかの「変化」を感じとることができます。その「変化」こそが、長い時間をかけてなされた「意識の変容」です。

人生とは悟りの旅

 人は、「幸せ」を求めながらも、家族のことや、仕事のことや、お金のことや、病気のことや、いろいろなことで「人生の課題」を抱えます。それら「人生の課題」に取り組み、時に喜び、時に苦しみ、悲喜こもごもありながら、長い時間をかけて、人は意識を変容させていきます。

 自分で意図して心を「変容させる」のではなく、気づいたら自然と「変容していた」というのが、一般の人にとっての「意識変容」の姿です。宗教家たちの体験する「悟り」=「宗教的な何らかの修行を重ねた末に得られる特殊な覚醒体験」と、普通の人の「意識の変容」とは別ものです。

 ただ、日々の生活で苦悩することが、その人にとっての精神的な「修行」となっていて、「悟り」の本質を「心が変わること」=「意識の変容」ととらえるならば、宗教家と一般の人の「悟り」には、重なっている面があります。

 「百八十度の心的革命」とまではいかなくても、60度とか90度ほどのゆるやかで段階的な「心的革命」=「意識の変容」を、誰もが、年齢を重ねつつ経験しているものです。

 人生は、「わからなかったことがわかるようになる」、その連続です。

 子どもの頃にはわからなかったことが、大人になって初めてわかります。親になり苦労して初めて、自分の親の喜び苦しみが深く理解できます。お世話になってきた上司の苦労は、自分が上司になって経験を重ねて初めて、本当の意味でわかるものです。その「わからなかったことがわかるようになる」という経験が、「意識の変容」であり、広い意味での「悟りの体験」といえます。

 人生とは、長い時間をかけてなされる「悟りの旅」なのです。

悟りは無意識の内容を統合すること

『仏教とユング心理学』(春秋社)
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 そう考えてくると、「悟り」を「一生の賭けたプロセス」ととらえた、ユング派の目幸先生の言葉が腑に落ちてきます。

「悟りの本質的な特徴は、自我の超越や自我の否定にあるのではなく、むしろ、自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」『仏教とユング心理学』(春秋社)p75

 目幸先生は、「自我の超越や自我の否定にあるのではなく」と書いています。

 「悟り」というと、「無我」「没我」という言葉がある通り、「自我」を「無くす」というイメージがあります。それが「自我の超越」「自我の否定」です。ですが、人が生きている限り、「自我」は決して「無くなる」ことはありません。

まっつん
まっつん

 もし「自我」(ego)が無くなってしまったら、「私(自分)という意識」が無くなり、思考や感情が働くなり、日常生活を送ることが困難になってしまいます。宗教家の人たちでさえ、「悟り体験」をした後も、自我意識を中心として人生は続いていくのです。

 そう考えると、悟りのプロセスとは、ユング心理学の観点からみると、「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」といえるのです。

 上の一文の前に目幸先生は「我々は、ユングの概念と方法論を用いる研究によって、禅の悟りを自己実現つまり自己(Self)が自分自身を実現しようとする衝動という用語で心理学的に理解した」と書いています。

 ユング心理学で「自己実現」(self-realization)といえば、「個性化」(individuation)のことです。「個性化」(individuation)とは、「その人がなりうる〝本来の自分になっていくこと」です。

 では、「個性化」(individuation)はどのようにしてなされるのでしょう。その答えが、「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」です。

 著書『自我と無意識』(第三文明社)の中で、ユングはこう書いています。

『自我と無意識』(C.G.ユング 第三文明社)
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「自らの無意識的な自己を実現する道を歩む者は、必然的に個人的無意識の内容を意識にとりいれ、それによって、人格は大きさを増すのである」

『自我と無意識』(C.G.ユング 第三文明社)p34

 上にある「無意識的な自己を実現する道」が、「自己実現」(self-realization)のことであり、「個性化」(individuation)のことといえます。

「悟り」とユング心理学

 「自我」や「自己」や「意識」や「無意識」という言葉が出てきて、初めてユング心理学にふれる人だと混乱します。ここで、ユング心理学の基本的な心の全体像についておさえておきましょう。

ユング心理学の「意識」と「無意識」

意識と無識の補償作用のイメージ図

 ユングは、心を「意識」「無意識」にわけて考えました。

 「意識」の中心には、「自我」(ego)があります。「自我」(ego)は、意識の領域を統括している「心の働き」です。

 「自我」が働くことで、「私(自分)」という意識が生まれ、何かを考えたり、何かを感じたり、何かを記憶したりできます。「自分が何を考えているか」「自分がどんな感情をもっているか(嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか)」「昨日、何かを食べたのか」を記憶し自覚できるのは、「自我」(ego)があるからです。

 「無意識」を、ユングは「個人的無意識」(personal unconscious)と「集合的無意識」(collective unconscious)に分けました。「個人的無意識」には、「意識」の領域から取りり払われ、忘れ去られた「心の要素」が蓄積しています。「集合的無意識」では、「人類に共通する心のパターン」(元型)が、動いています。

まっつん
まっつん

「意識」を統括するのが「自我」(ego)ならば、無意識を含めた心全体を統括している「心の働き」を、ユングは「自己」(self)としました。

 「自己実現」「個性化」において、心全体の中心にある「自己」(self)の働きがキーになってきます。

こころの補償作用

 「意識」と「無意識」は、相互に作用していて、補償しあう関係にあります。「意識」が偏っていく時、「無意識」が「意識」に働きかけて、心全体のバランスを保とうとします。

ユングは、『ユング 夢分析論』(みすず書房)で、こう書いています。

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「こころとは自己調整を行うシステムであり、体という生がそうするのと同じようにしてバランスをとっています。行き過ぎた過程に対しては、それが何であれ直ちに、そして確実に補償が始まります。この補償を抜きにしては、正常な新陳代謝も正常な心もありえません。」

『ユング 夢分析論』(C.G.ユング みすず書房)P6

 「心の補償作用」であり「自己調整を行うシステム」の具体例が、夜に見る「夢」です。「夢」は「無意識」から「意識」へ向けたメッセージです。何かに追いかけられる夢を見たり、歯が全部抜けたりする夢を見るのにも、何らかのメッセージがあります。

 夢のメッセージをクライエントと共に考え味わっていくのが「夢分析」であり、その結果、人に「意識の変容」が起きてきます。心全体は、「意識」と「無意識」がエネルギーを交換し、お互いに補い合いながら、日々、変化していくのです。

 「悟り」を「意識の変容」の特殊なパターンととらえるなら、ユング心理学では、「悟り体験」を、「意識」と「無意識」の相互作用の観点から考えていくことができます。

「悟り」に対するユングの考え

 『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)では、「悟りの体験」が5つの観点で整理されていました。「自他忘失体験」「真如顕現体験」「自我解消体験」「基層転換体験」「叡智獲得体験」でした。

まっつん
まっつん

「宇宙と自己がとが一つになつているのを覚証した」という「自他忘失体験」だけを考えても、「悟りの体験」とは、通常の意識では想像しにくい、神秘的かつ特殊な「意識の変容」といえます。

ユングの考えた「悟り」の仕組み

 ユングの著『東洋的瞑想の心理学』(創元社)に、『禅の瞑想という論がおさめられています。仏教学者「鈴木大拙」が英文で書いた著書に『禅仏教入門』があります。この著書がドイツ語に翻訳され出版されました。その時、ユングの書いた「序文」が『禅の瞑想です。「鈴木大拙」といえば、1897年(明治30年)に渡米し、「禅」を世界に広めた人物です。

 『禅の瞑想に、「悟り」について解説している箇所があります。それが次の一文です。

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 意識がその内容についてできるだけ空っぽになった場合、その内容は、一種の(少なくとも一時的な)無意識の状態になる。禅の瞑想の場合、この転換状態はたいてい、意識のエネルギーがその内容から抜きとられて、「空」の観念か、あるいは公案へと向かうときに生じる。(中略)こうして蓄積されたエネルギーは無意識領域へと向かい、自然にそこに充電されるエネルギー量を極限まで増大させる。

『東洋的瞑想の心理学』(C.G .ユング 創元社)旧版p195

 上の文からわかる通り、ユングは、「悟り」を、「意識」と「無意識」、「心のエネルギー」の観点から解説しています。

 日々の宗教的修行(坐禅/瞑想など)を通して、「意識」を「空っぽ」にする体験を積み重ねていくと、「無意識」の領域にエネルギーが充電されていきます。その極限まで増大したエネルギーが、何かをきっかけに、「無意識の内容」を伴って、「意識」の領域に、一気に流入していきます。

 その状態が、「特殊な覚醒体験」=「悟りの体験」を引き起こすと、ユングは考えました。

「悟り」とは意識と無意識の相互作用

 ユングは「長い年月にわたる禅の瞑想ときびしい修行によって、悟性の合理的なはたらきを消滅させる努力を重ねるとき、本性そのものがひとつの ── 唯一の正しい ── 答えを出すのである」(p197)とも書いています。

 「悟性の合理的なはたらき」は、「自我」(ego)による心の働きです。これを「消滅させる努力」が、坐禅や瞑想などの宗教的修行になります。その時、意識の領域が「空っぽ」になります。この状態を「無我」や「没我」といいます。

 そして、「本性そのもの」が、ある日、ある時、突然「唯一の正しい答え」を出すわけで、「本性そのもの」とは、ユング心理学でいう「自己」(Self)と考えられます。

 ユング心理学で考えた時、「悟りの体験」とは、「意識」(自我:ego)「無意識」(自己:self)を流れる「心のエネルギー」の相互作用によって、引き起こされる特殊な「覚醒体験」といえます。

 『禅の瞑想の中でも、ユングは「意識」と「無意識」の「相互作用」「補償作用」についてふれています。

 (※意識と無意識の)その関係は、本質的に言って、ひとつの補償的関係である。無意識の諸内容は、広い意味において補充するために、言いかえれば心の全体を意識的に方向づけるために必要な一切のものを、意識の表面にもたらすのである。無意識がさし出した、あるいは押しつけた断片を、意識的な生活の中に有意義に組み込むことができれば、そこから、個人の人格の全体によく対応した心の存在形態が生まれてくる。

それは、意識的な人格無意識的な人格の間に起る無益な葛藤をなくした状態である。

『東洋的瞑想の心理学』(C.G .ユング 創元社)旧版p196
(※意識と無意識の)は筆者追記

 ある人が、「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」になっていく時、その人は「個性化」(individuation)の道を歩んでいるといえます。

 「個性化」(individuation)をユングは「自己実現」(self-realization)とも呼びました。「自己実現」といった時の「自己」とは、心全体を統括している「自己」(self)の働きを、意味します。

まっつん
まっつん

 ユング派の目幸先生は、『仏教とユング心理学』(春秋社)において、「悟りの本質的な特徴」「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力を行うことを求める一生を賭けたプロセスにあるのである」(p75)としていました。

 上の文にある「意識的な人格」「自我」(ego)とし、「無意識的な人格」「自己」(self)とした時、「無益な葛藤のない状態」になるとは、意識と無意識の統合が進み、心全体のバランスがとれて、「その人がなりうる〝本来の自分〟」に近づいている状態といえます。

 つまり、「意識的な人格無意識的な人格の間に起る無益な葛藤をなくした状態」とは、「個性化」(individuation)が進んでいることを意味しているのです。

「悟り」は「自己」(self)の導き

 「その人がなりうる〝本来の自分〟」になるには、「自己」(self)が鍵を握っています。「悟り体験」に導かれていくこととは、ユング心理学の観点から考えると、「自己」(self)の働きに身を委ねていくことです。

 普段の私の意識=「自我」(エゴ)において、「悟れ、悟れ」とどれだけ必死に願っても、「悟りの体験」は起きてきません。「自我」(エゴ)を手放し、「自己」(self)に任せていくことで、「悟り」は近づいてきます。

 「悟り」の主導権は、「自我」(ego)ではなく、無意識の「自己」(self)にあるのです。

 目幸先生は『危機の世紀とユング心理学:目幸黙僊論考集』(創元社)で、「自我」(ego)「自己」(self)の関係を、こう説明しています。

目幸先生の危機の世紀とユング心理学:目幸黙僊論考集』(創元社)の表紙画像
『危機の世紀とユング心理学』(創元社)
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 エゴとセルフの関係は、ユングによると、ちょうど動かすものと動かされるものということです。(中略)自我はいつもセルフによって動かされているもので、セルフはいつも自我を動かしているものである。そして自我はセルフによって動かされている対象であり、セルフはいつも主体性をもっているというわけです。

『危機の世紀とユング心理学』(創元社)p73

 人は、自分で考え、自分で選択・決定し、主体性をもって行動しています。

 この主体性のある「自分」を考える「自分」が、上の文でいう「自我」(エゴ)です。ところが、この自我(エゴ)は、自己(セルフ)によって動かされていて、「主体は自己(セルフ)にある」と、目幸先生はいいます。 

 「自我」(エゴ)で考える「自分/私」とは、「意識」という狭い領域だけの「自分/私」です。

 その「自分/私」は、心全体から考えたら「部分の自分/私」に過ぎません。「自分/私のかけら」を見て、「自分/私の全て」と錯覚しているのが、「自我」(エゴ)の働きであり、普段の私たちの意識です。

意識と無識の補償作用のイメージ図

 その「錯覚」が強くなっていくと、「意識」と「無意識」が離れていき、「相互作用」「補償作用」が働きにくくなり、心全体のバランスが崩れていきます。その結果、心身に何らかの悪影響が及びます。

 心には「無意識」という、とても広くて豊かな領域があります。「無意識」を含めて初めて「自分/私の全体」といえます。

まっつん
まっつん

つまり、「私」という存在、その全体のバランスをとるためには、自己(セルフ)の主体性を受け入れ、「無意識」からの声にも耳を傾け、その声を「意識的な生活の中に有意義に組み込」んでいく「心の習慣」をもつことが求められます。

 その「心の習慣」が、目幸先生のいう「自我が無意識の内容を統合するための絶え間ない努力」であり、この努力が継続的に行われていけば、ユングのいう「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」が生まれてくる確率が高まります。

 宗教家たちは、「今より、よりよい人間になろう」として、宗教的な修行に励み「悟りの体験」を求めていきます。

「悟り」によって人の豊かさを知る

 禅では坐禅を組み、厳格なヨガ行者たちは、山にこもり瞑想を続けます。「悟りの境地」に達して「今より、よりよい人間になろう」とすることは、「個人の人格の全体によく対応した心の存在形態」を生み出していくことであり、それは「自分/私の全体」を知ろうとする体験にほかなりません。

悟りのこころのイメージ画像

 「自分/私の全体」を知るとは、無意識を含めた自分の心、その全体を知ろうとすることです。

 「無意識」は、宇宙のように広大です。その全体を人は、一生をかけても知り尽くすことはできないでしょう。しかし、宇宙に可能性を感じて人類が宇宙開発を続けるように、「無意識」という「心の宇宙」を開発し続けることによって、「心の広大さ」を知ることはできます。そのプロセスが「悟りへの道」です。

 ユング心理学で考えた時、「悟りの体験」とは、自己(セルフ)が導く「心全体の開発」といえます。

 現代において宇宙に実際に行ける人がひと握りの人間に限られています。それと同じように、悟りの境地に達する人は、ごくわずかの人間です。

 宗教家ではない私たちが、「悟りの体験」を求めて時間を費やすことは、日常生活を困難にします。

まっつん
まっつん

 ただ、「小さな私」(自我:エゴ)の背後に、大きな可能性をもった自己(セルフ)を知ること、つまり、「もっと大きな私」が確かに存在していると知ることは、日常生活において、私たちの「心を支える杖」になります。

 人は、「普段の自分」(小さな私)で考えているより、もっと大きく豊かな可能性をもった存在です。

 「悟りの体験」が確かにあると知ることは、人の可能性の豊かさを知ることであり、私たちを勇気づけてくれます。

(文:松山 淳


【参考文献】

『東洋的瞑想の心理学』(C.G.ユング 創元社)
『「悟り体験」を読む』(大竹晋 新潮社)
『ユング 夢分析論』(C.G.ユング みすず書房)
『自我と無意識』(C.G.ユング 訳:松代 洋一ほか 第三文明社)
『危機の世紀とユング心理学』(目幸黙僊 創元社)


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稲盛和夫の教え「六つの精進」https://www.earthship-c.com/nice-word/kazuo-inamori-six-diligences/Sun, 14 Jan 2024 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15801

「六つの精進」とは、すばらしい人生・経営を実現するために守るべき哲学だ。「経営の神様」と呼ばれた京セラ創業者稲盛和夫氏が唱えた。「六つの精進」は、次の6か条である。 ❶ 誰にも負けない努力をする❷ 謙虚にして驕らず❸ 反 ... ]]>

「六つの精進」とは、すばらしい人生・経営を実現するために守るべき哲学だ。「経営の神様」と呼ばれた京セラ創業者稲盛和夫氏が唱えた。「六つの精進」は、次の6か条である。

❶ 誰にも負けない努力をする
❷ 謙虚にして驕らず
❸ 反省のある毎日を送る
❹ 生きていることに感謝する
❺ 善行、利他行を積む
❻ 感性的な悩みをしない

 稲盛氏は「盛和塾全国大会」(2008.7/17)にて、「六つの精進」をテーマに講演を行なっている。その模様をまとめた著書が『六つの精進』(サンマーク出版)である。

「精進」とは、「一つのことに精神を集中して励むこと。一生懸命に努力すること」(デジタル大辞泉 小学館)である。稲盛氏は「六つの精進」を通して、人生はすばらしいものになるという。

「六つの精進」とは、どのような教えか。著書『六つの精進』を軸に、稲盛氏の哲学を学んでいく。

精進一:誰にも負けない努力をする

 「経営の神様」と呼ばれる稲盛和夫さんですが、大学を卒業して就職した会社をすぐに辞めようとしています。というのも、就職した松風工業が、優良企業とは程遠い状態だったからです。同期が次から次へと辞めていくので、稲盛さんも辞めようとしました。しかし、それが叶わずひとり「松風工業」に残ることになるのです。

書籍『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)の表紙画像
『六つの精進』(サンマーク出版)
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 「3年で辞める若者」ではありませんが、かの「経営の神様」も会社を辞めようとした経験をもっています。ただ、この後が違いました。稲盛さんは、「自分の人生をうらんでみても、天に唾するようなものだ。たった一度しかない貴重な人生を、決して無駄に過ごしてはならない」(『人生と経営』 致知出版社p24) と心を改め、覚悟を定めます。

 そして、「誰にも負けない努力」を始めました。すると研究成果が次から次にあがるようになり、幼い頃から不運つづきの稲盛さんの人生は、この時から好転していくことになるのです。

 「誰にも負けない努力」を続けた稲盛さんは、『六つの精進』の講演で、こう語っています。

稲盛和夫 精進の言葉

 すばらしい人生を生きるにせよ、すばらしい企業経営をするにせよ、誰にも負けない努力をすること、一生懸命に働くことが必要です。このことを除いては、企業経営の成功も人生の成功もありえないのです。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p14-15

 努力の大切さは誰もがわかっています。

ポイントは「人並みの努力」ではなく「誰にも負けない」といっているところですね。では、「誰にも負けない努力をする」ためには、どうすればいいのでしょうか。そのためには「仕事を好きになることだ」と稲盛さんはいいます。

稲盛和夫
稲盛和夫

「一生懸命に働くというのは苦しいことです。その苦しいことを毎日続けていくためには、いま自分でやっている仕事を好きになることが必要です。好きなことであれば、いくらでもがんばることができます。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版) p24

 楽しい仕事はありますが、楽な仕事はありません。仕事をする限り、いつかどこかで辛く苦しい経験をするものです。ただ、その苦しい経験のなかで「誰にも負けない努力」を続けた時、たとえ成果が出なかったとしても、仕事の醍醐味を深く知り、仕事を好きになることが人にはあります。

 仕事を好きになるコツとは、「誰にも負けない努力をする」ことでもあるわけです。

 稲盛さんは「惚れて通えば千里も一里」という言葉をあげています。「好きになった人であれば、会いにいくのが千里であっても一里のように感じ、遠い道のりでも、疲れもしないし辛いとも思わない」という意味ですね。

 仕事に惚れて「誰にも負けない努力」をしたら、辛く苦しい仕事のなかにも「楽しさ」を見つけることができます。そうして人格は磨かれていきます。人格が磨かれていけば、他の人を思いやる慈悲心が生まれ「利他の心」が育まれていきます。

 世のため人のためにと、さらに「誰にも負けない努力」を重ねていけば、きっと人生を良き方向へと導いていくことができるでしょう。

精進二:謙虚にして驕らず

 「ただ謙のみ福を受く」

 稲盛さんは若い頃に、この言葉に出会い「謙虚でなければ幸福を受けることはできない、幸福を得られる人はみな謙虚でなければならないのだ」(p39)と思い、生きていくうえで、経営を行なっていくうえで「謙虚さ」を大切にしてきたそうです。

稲盛和夫
稲盛和夫

「謙虚であるということは、人間の人格を形成する資質の中でもっとも大切なものではないかと思います。「あの人は立派な人格者だ」ということを我々はよくいいますが、人間性の中に謙虚さを備えている人を、我々はそいうふうに表現しているわけです」

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版) p24

 中国文学者の守谷洋氏の著書『中国古典一日一言 』(PHP文庫)に、「謙のみ益を受く」という言葉があります。中国古典「書経」にある言葉です。「書経」は、儒教の重要経典とされる五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)のひとつです。恐らく稲盛さんは、「謙のみ益を受く」のことをいっているのでしょう。

『中国古典一日一言 』(PHP文庫)
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 「満は損を招き、謙は益を受く」(書経)

 ここでの満は慢心のことです。守谷氏は慢心が損を招く2つの理由をあげています。

  1. 自分自身、それ以上の進歩向上が望めない。
  2. 必ずや周囲の反発を招き、まとまる話もまとらなくなる。

 慢心を抱いた組織が、その行いによって世間から退場を余儀なくされることは歴史が証明しています。大手企業のリーダーたちが「満」によって倫理観を欠き、その結果不祥事が発覚して、記者会見で頭を下げるシーンは現代において珍しくない光景となっています。

稲盛和夫 精進の言葉

世の中では、他人を押しのけてでも、という強引な人が成功するようにみえますが、けっしてそうではありません。成功する人とは、内に燃えるような情熱や闘争心、闘魂をもっていても、実は謙虚な控えめな人なのです。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p14-15

 稲盛さんの上の言葉を聞き、経営学者ジェームズ・C・コリンズが提唱した『第五水準のリーダー』という概念が思い出されます。経営学書の名著『ビジョナリーカンパニー② 飛躍の法則』(日経BP)で提唱されたリーダー論です。

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 ある企業が飛躍した要因をコリンズ博士たちは調査していました。その中で、飛躍を導いたリーダーに共通する資質を発見したのです。その資質を『第五水準のリーダーシップ』と名付けました。

 『第五水準のリーダーシップ』について、コリンズ博士は、こう書いています。

良い企業を偉大な企業に変えるために必要なリーダーシップの型を発見したとき、われわれはおどろき、ショックすら受けた。派手なリーダーが強烈な個性をもち、マスコミで大きく取り上げられて有名人になっているのと比較すると、飛躍を指導したリーダーは火星から来たのではないかと思えるほどである。

万事に控えめで、物静かで、内気で、恥ずかしがり屋ですらある。個人としての謙虚さと、職業人としての意思の強さという一見矛盾した組み合わせを特徴としている。

『ビジョナリーカンパニー2』(日経BP)

 経営学者がチームとなって丹念な研究を重ねた結果、優れたリーダーの資質に「謙虚さ」をクローズアップしている点は、注目に値します。しかも「万事に控えめで、物静かで、内気で、恥ずかしがり屋」は、米国人のリーダーシップ・スタイルをイメージすると、とても意外です。

 稲盛さんも長い人生を通して、数多くのリーダー・経営者と会っています。その経験から導き出された教訓が、経営学者の研究結果と重なっています。なおさらのこと「謙虚にして驕らず」を忘れたくありません。

精進三:反省のある毎日を送る

「原因」と「結果」の法則 (サンマーク出版)表紙画像
『原因と結果の法則』(サンマーク出版)
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 稲盛さんは、「反省のある毎日を送る」の章で、20世紀初頭の哲学者ジェームズ・アレンの『原因と「結果」の法則』(サンマーク出版)から、いくつかの言葉を引用しています。そのひとつが次のものです。

 「心の中に蒔かれた(あるいは、そこに落下して根づくことを許された)思いという種のすべてが、それ自身と同種類のものを生み出します。それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがては環境という実を結ぶことになります。良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。」『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p50

 もし、「良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結ぶ」のならば、日頃、「良い思い」を抱くことがとても大切になっています。

 稲盛さんは、その「良い思い」を抱くために、「反省のある毎日を送る」と、私たちを諭すのです。

 「反省だけなら、誰でもできる」。そんな言い方がありますが、稲盛さんのいう「反省」は、そう簡単に誰でもできるものではありません。稲盛さんは、「反省」をこう定義しています。

稲盛和夫 精進の言葉

自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっているよい心を心の中に芽生えさせていく作業が、「反省をする」ということなのです。よい心とは、心の中心にある「真我」、つまり「利他の心」です。他を慈しみ、他によかれかしと思う、やさしい思いやりの心です。それに対して、「自我」とは、自分だけよければいいという「利己的な心」、厚かましい強欲な心のことです。

 今日一日を振り返り、今日はどのぐらい自我が顔を出したのかを考えて、それを抑え、真我、つまり利他の心が出るようにしていく作業が「反省」というものです。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p14-15

 「反省」は辞書に「 1.自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。2. 自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること。」(デジタル大辞泉 小学館)とあります。

まっつん
まっつん

確かに、この辞書にある意味合いでの「反省」は、「考えること」ですから、誰にでもできるのかもしれません。稲盛さんのいう「真我、つまり利他の心が出るようにしていく作業」となると、なかなか難しいものです。

 とはいえ、稲盛さんの教えが心に残るのは、反省に「目標」がある点です。自らを省みるだけではなく、「利他の心」が養われるように、日々、反省をしていくわけです。すると、漠然と反省するよりも、「自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっているよい心を心の中に芽生えさせていく」という目標があれば、目的意識が生まれ「反省」することに意味を感じられるようになります。

 人は、意味のないことに力が入りませんが、意味があるとわかれば継続する力が生まれます。

稲盛和夫
稲盛和夫

反省をして、邪で貪欲な、卑しい私に対して、「少しは静かにしなさい」「少しは足ることを知りなさい」と言い聞かせ、自我を抑えつけていく作業がいるのです。そうすることによって自分の魂を、自分の心を磨いていくことができるのです。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版) p56

 日々、「反省」をして、「良い思い」をたくさん抱き、「良い実」を結ばせたいものですね。

まっつん
まっつん

 小学校で習うような道徳・倫理観をベースにして、稲盛さんは経営判断を行なっていったのです。経営学の知識ではなくて、「人間として正しいかどうか」を基準にした判断が、後の成功につながったと、稲盛さんはいいます。

精進四:生きていることに感謝する

 ユング派の心理療法家河合隼雄さんの著書『こころの処方箋』(新潮社)に、「強い者だけが感謝できる」という章があります。河合先生は京都大学の教授で、京セラは京都にありますので、おふたりは懇意にしていたと聞きます。

 さて、なぜ、河合先生が「強い者だけが感謝できる」と書くのかといいますと、心理療法の場において、「感謝できるか否か」が、その人の「強さ」のバロメータになると考えているからです。河合先生は、こう書いています。

「ある人がどの程度の強さをもっているかを前もって知っておくことが必要なときがある。そんなときに、その人が適切な感謝をする力があるかどうかは、相当に信頼できる尺度のように筆者は思っている」『こころの処方箋』(河合隼雄 新潮社)p149

 ここで「適切な感謝」と書いているところがポイントです。押し付けがましい感謝、つまり、「感謝してるのだから〜」と何か要求するような感謝は、「適切な感謝」とはいえません。それは「不適切な感謝」であり、「強い者」がすることではありません。なったのです。

 では、稲盛さんは「感謝」について、どういっているのでしょうか。

稲盛和夫 精進の言葉

「どんな些細なことに対しても感謝をする心は、すべてに優先する大切なものであり、「ありがとうございます」という言葉は、大きな力をもっています。この言葉は、自分自身を気持ちのよいすばらしい境地へと導いてくれるとともに、それを聞いた周囲の人々をもやさしいよい気持ちにする万能薬なのです。私も、「ありがとうございます」という言葉を、ずっといいつづけてきました」

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p14-15

 稲盛さんは、幼い頃にあるお坊さんから「なんまん、なんまん、ありがとう」というように諭され、それ以来、この言葉を大切にし、繰り返し唱えつづけてきました。京セラはグローバル企業です。経営トップとして海外で教会に立ち寄った時にも、「なんまん、なんまん、ありがとう」を唱えていたそうです。

 それぐらい人生において、感謝すること、「ありがとうございます」と口にすることを稲盛さんは大切にしていたのです。よって、「生きていることに感謝する」の教えが生まれてきます。

まっつん
まっつん

「生きていることに感謝する」は、とても根本的なもので、日々できる感謝です。「感謝できることあれば、感謝します」と考えていると、感謝の機会も少なくなります。ですが、「生きていること」「生かされていること」に感謝するのならば、生きている限り、毎日、毎日、感謝することできます。

 まわりの人を心地よくする「感謝」は「良い思い」です。「良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結ぶ」のであれば、こういえますね。

 感謝できることがあるから感謝するのではなく、感謝するからこそ感謝したくなることが起きてくる。

 河合先生のいう「強い者だけが感謝できる」を真理とするなら、日々、感謝することによって心を磨き「強い者」になれるといえます。「生かされていることに感謝」をし、心を強くして、たくましく人生を歩んでいきましょう。

精進五:善行、利他行を積む

 「利他」は、稲盛さんの「座右の銘」といえる言葉です。さまざまな著書で稲盛さんは「利他」の大切さを説いてきました。例えば『成功の要諦』(致知出版社)では、こういっています。

『成功の要諦』(稲盛和夫 致知出版社)
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稲盛和夫
稲盛和夫

 世のため人のために尽くすことによって、自分の運命を変えていくことができます。自分だけよければいい、という利己の心を離れて、他人の幸せを願う利他の心になる。そうすれば自分の人生が豊かになり、幸運に恵まれる

『成功の要諦』(稲盛和夫 致知出版社) p114

 『六つの精進』(サンマーク出版)の中では、「善行・利他」に関してて「小善」と「大善」を比較して話を進みます。例として「お金の貸し借り」について、多くのページがさかれています。

 あるとき、社員の父親が「お金を貸してほしい」と、稲盛さんの自宅を訪ねてきました。事情を聞くと稲盛さんは、「お父さん、私がお金を貸すことはあなたのためにななりません。いまどれだけ困っておられるのかは知りませんが、それはできません。お父さんは現在の苦境を真正面から受け止めて、耐えていかなければなりません」(p81)と、断りました。

まっつん
まっつん

困っている人にお金を貸すのは、善行であり利他であるはずです。しかし、「小善」と「大善」の尺度で見た時に、すぐにお金を貸することは「小善」となるかもしれませんが、本当にその人のためになる「大善」になるのかと問うと、そうとはいえません。

 「苦境を真正面から受け止め耐えることを学ぶように」導くことが「大善」といえます。

 稲盛さんの判断は正しく、この時の社員は、後に京セラの幹部となって活躍したそうです。

稲盛和夫 精進の言葉

「立派な人生を送るためにも、また立派な経営を続けていくためにも、真の善行、利他行を積むということに努めてください。」

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p81

 

精進六:感性的な悩みをしない

 反省はしても後悔はしない。

 そんな言葉がありますが、過去の失敗など過ぎた出来事をくよくよと考え続けることは「心」によくありません。「マインド・ワンダリング」(mind wandring)という言葉があります。

まっつん
まっつん

 マインドは「心」で、ワインダリングは「さまよう」という意味です。そこで「マインド・ワンダリング」とは、今すべきことに集中できず、くよくよとあれこれ考え続けて、心がさまよっている状態です。

 例えば、仕事で失敗して上司にひどく怒られたことを、帰りの電車や家に帰ってきて、「あんな言い方ないじゃないか」「なんなんだ、あれでも上司か」「だったら、お前がやってみろよ」などと考え続けてしまうと、その度に「ストレスホルモン」が分泌されてしまうのです。

 過剰にストレスホルモンが分泌されると、自律神経が乱れ、心身のバランスが崩れていってしまいます。だから、稲盛さんは、「感性的な悩みをしない」と説くわけです。

稲盛和夫 精進の言葉

すんだことに対して深い反省はしても、感情や感性のレベルで心労を重ねてはなりません。理性で物事を考え、新たな思いと新たな行動に、ただちに移るべきです。そうすることが人生をすばらしいものにしていくと、私は信じています」

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版)p81

 そういう稲盛さんは、京セラで不祥事があった時には、たいへんな苦労を味わいました。「厚生省の許可をとらずにファインセラミック製の膝関節を売って金儲けしている」とマスコミに叩かれたことがあるのです。稲盛さんが、テレビカメラの前で頭をさげる姿が、連日、ニュース映像となって流れました。

 心を痛めた稲盛さんは、臨済宗妙心寺派円福寺の西片老師を訪ねました。西片老師は、稲盛さんに対して、こう言葉をかけました。

「ひどい目にあったということは、あなたが過去につくった罪、穢れ、つまり業が結果として出てきたということで、そのときに業は消え去っていくのです」(p97)

 この言葉を聞いた稲盛さんは、すぐには納得できなかったものの、家に帰って救われる思いがしたそうです。そこで稲盛さんは、こういっています。

稲盛和夫
稲盛和夫

災難にあったとき、それは自分が過去に犯した罪、穢れ、業つまりカルマが結果となって出てきたのだと考えるのです。命までとられるわけではなく、その程度ですんだのであれば、むしろお祝いをしなければならない。そういうふうに思い、すっきりとそのことを忘れ、新しい人生に向かって力強く、希望を燃やして生きていく。そのことがすばらしい人生を生きていくために必要なのです。

『六つの精進』(稲盛和夫 サンマーク出版) p99

 とても辛く苦しい目にあうと、そこには「救い」がないように感じられます。しかし、辛く苦しい経験を通して「罪、穢れ」が少しでも消えるのだとしたら、それは「救い」になります。

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 「救い」があるのならば、「救いなどまったくない」と感じている時よりも、少しは早く、過去を断ち切って忘れることができます。「感性的な悩み」をせずにすみます。

 稲盛さんがいうように、「感性的な悩み」はほどほどにして、忘れてよいことはさっさと忘れて、新しい人生に向かって力強く、希望を燃やして生きていきましょう。

 

(文:松山 淳


稲盛和夫 略歴

 1932年(昭和7年)鹿児島県(鹿児島市薬師町)生まれ。1948年(昭和23年)鹿児島市高等学校第三部に進学。1951年(昭和26年)鹿児島大学工学部に入学。1955年大学卒業後、碍子メーカー松風工業(京都)に就職する。1958年、上司と衝突し松風工業を退社。

1959年(昭和34年)、京都セラミック株式会社(現京セラ)を創業。1984年、電気通信事業の自由化にともないNTTに対抗するため第二電電企画を設立。2000年10月に他会社と合併し、KDDIを設立する。
 2010年2月、破綻した日本航空(JAL)の再生のため会長に就任。2年7ヶ月で再上場を果たし、再生に成功する。「経営の神様」と呼ばれる。

 経営塾「盛和塾」の塾長として数多くの経営者を育成する(1983年〜2019年)。

 2022年8月24日に永眠。享年90歳。

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精神(精神的無意識)の3つの働き〈フランクル心理学〉https://www.earthship-c.com/frankl-psychology/three-functions-of-mind/Wed, 10 Jan 2024 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15787

 ロゴセラピー(Logotherapy)を提唱したヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、「無意識」に関して独自の見解を展開した。フランクルは「身体」「心理」「精神」と ... ]]>

 ロゴセラピー(Logotherapy)を提唱したヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、「無意識」に関して独自の見解を展開した。フランクルは「身体」「心理」「精神」という3つの概念に分けて考える。深層心理学でいう「無意識」を「精神」と呼び区別した。「精神」を「精神的無意識」とも呼んだ。

 フロイトが考えた「無意識」は、衝動的で「心の病」の原因になる。それとは異なり、フランクルは「無意識」そのものが、自律的に動き人間らしい決断すると考えた。「無意識には、衝動的ではない人間らしさを志向する理性的かつ主体的な心の働きがある」とした。

 フランクルは、精神の働きとして「芸術的インスピレーション」「愛」「良心」の3点をあげる。本稿では、フランクルの考える「精神」(精神的無意識)が「具体的にどのような働きをするのか」について解説していく。

フランクルの考えた精神(精神的無意識)

 フランクルは、フロイトやユングが考えてきた「無意識」を「精神」(精神的無意識)と名付けて、フロイトの考える「無意識」とは、違う側面を強調しました。「決断する無意識」とも、フランクルはいいます。

 ここで若干わかりにいくのが、「精神」という言葉ですね。フランクルのいう「精神」は単に「心」を意味するのではなく、「自律的に動き、人間らしい決断する心の働き」というポジティブな意味合いと深い内容が含まれます。

 下の図のようにフランクルは、「身体」「心理」「無意識」(精神的無意識)の3つに分けて考えます。フランクルに言わせると、この「無意識」(精神的無意識)が、「人間らしい働き」をするから、心の病を癒すことが可能になるのです。

フランクル心理学「身体」「心理」「精神」のイメージ図

フランクルは、自身が考え出した「ロゴセラピー」のことを、こう表現しています。

「精神的なものからの心理療法」

 クライエントが癒えていくプロセスにおいて、「精神」(精神的無意識)の果たす役割が大きいわけです。「無意識」に、自己を越えた世界とつながる人間らしい「精神的もの」があると考えます

 「心理主義」とフロイト、アドラー、ユングの心理学を批判したフランクルは、精神の働きを重視しました。著書『死と愛』(みすず書房)の中にある言葉です。

『死と愛』(みすず書房)の表紙画像
『死と愛』(みすず書房)
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フランクルの言葉

 心理療法はその精神分析としての細かい技法においては心理的なものの意識化に努める。それに対してロゴテラピーは精神的なものの意識化に努力する。

『死と愛』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)p32

 「意識化」とは、心理療法の現場でなされるクライアントの「心の働き」です。「意識化」されることで、心が癒されていきます。

精神分析の「意識化」とは。

 例えば、幼い頃に両親から暴力を受けていた人がいたとします。ですが、大人になってからそのことをすっかり忘れて生きていました。その人が、原因不明の「ひどい頭痛」で精神分析家のもとを訪れます。

 暴力が実際にあったのに思い出せないのであれば、無意識に暴力を受けた記憶が隠されていると考えます。これが「トラウマ」ですね。無意識で「トラウマ」が悪さをして「ひどい頭痛」が引き起こされているのです。本人はもちろん無意識のことですから、わかりません。だから原因不明となるのです。

まっつん
まっつん

フロイト初期の精神分析では、対話や催眠によって、無意識に隠されている過去の出来事を思い出していきます。この「思い出す」ことが「意識化」です。「意識化」がうまくいけば、無意識にあったトラウマがとり除かれます。無くなれば、もう悪さをしません。

 これでひどい頭痛が癒やされたなら、やはり無意識にあった過去の記憶(トラウマ)が「原因」だったということになります。こうして「心の病」が癒されると考えたのが、フロイトの精神分析です。

精神的なものの「意識化」とは。

 フランクルは、フロイトの「心理的なものの意識化」に対して、「精神的ものの意識化」といっています。フランクルは、「精神」(精神的無意識)が、「自律的に動き、人間らしい決断をする」と考えました。 

 ロゴセラピーは、催眠ではなく主に対話によって、クライアントが「生きる意味」を発見し、精神(精神的無意識)が「人間らしい働き」「精神的なもの」を取り戻すようにサポートしていきます。この働きかけが「精神的なものの意識化」になります。その結果、クライアントの抱える苦悩や何らかの症状が癒やされていくのです。

 それでは、次に、フランクルが精神(精神的無意識)の働きとしてあげた「芸術的インスピレーシ「愛」「良心」について説明していきます。

「芸術的インスピレーション」について

 フランクルにとって精神(精神的無意識)は、創造性の源泉です。無意識の創造性を認めた点は、ユングと一緒ですね。フロイトとは異なりユングも「無意識の創造性」に着目しています。

 フランクルは、芸術家の創造性と無意識にふれて、こう書いています。

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フランクルの言葉

 精神的無意識のなかにはエートス的無意識すなわち道徳的良心とともに、いわば美的な無意識すなわち芸術的良心も宿っている(中略)芸術的創造においても再創造においても、芸術家はやはりこの意味における無意識の精神性に依存している。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p40

 画家、写真家、小説家など、様々な芸術家たちが世界にいます。世界的に評価される芸術作品にふれると、「一体、このアイディアを、どうやって考え出したのだろう?」と、深い感動をおぼえます。

まっつん
まっつん

 長編の小説を読み終えた時など、「これだけのストーリーは、どこから生まれてくるんだ?」と、不思議で仕方ありません。その才能の豊かさに、驚くばかりです。

 天才的な芸術家たちは、凡人には理解できない何かを直感でつかまえます。理屈ではなくて、「ひらめき」です。フランクルは、それを「霊感」と表現しています。この「霊感」のある場所を、フランクルは「精神的無意識」と考えていたのです。

芸術家のスランプを克服した「反省除去」

 芸術家がスランプに陥っている時は、この「霊感」がうまく働かなくなっている状態です。

「世間にもっと評価される作品を創りたい」「もっと上手にもっと美しく音を奏でたい」と、意識主体で考え過ぎてしまうと、余計にうまく「霊感」が働くなります。

 これは、「無意識」への信頼を失い、自分のことを意識し過ぎている状態です。フランクルは、実際に、芸術家たちを立ち直らせた経験をもっています。それは「反省除去」というロゴセラピーの手法によってです。

「反省除去」は、無意識を信頼し、過度の自己観察をやめるようにクライアントを諭し、芸術家たちの「霊感」を、つまり、「精神的無意識」の「人間らしい働き」を取り戻す手法です。

 「反省除去」については、フランクル心理学の「反省除去」(脱反省)とは』に書きましたので、参考になさってください。

フランクル心理学 「反省除去」(脱反省)とは アイキャッチ画像 フランクル心理学の「反省除去」(脱反省)とは

「ひらめき」と呼ばれるものは、多くの人が経験することです。ですので、フランクルのいう「芸術的インスピレーション」は、誰にも備わっている心の働きだといえます。

それでは、つづいて2番目の「愛」についてです。

「愛」について

 宗教が日常生活に織り込まれている欧米諸国に比べて、日本で「愛」を語るのは、少し抵抗感があります。愛について、歌詞や映画や小説の中でふれることはあっても、日常会話で、友達や家族と「愛とは何か」について語ることは、まず無いことです。

 とはいいつつ、日本人が「愛」を体験していることは事実です。誰かを愛し、誰かから愛されること。それが「愛」の体験です。

抱き合うカップル「愛」のイメージ画像

 親に育てられたのも、彼女、彼氏ができるのも、結婚するのも、子どもができるのも、そして子どもを育てようと懸命になるのも、そこに「愛」があるからです。「愛」の対象は「人」だけではありません。自然、仕事、趣味など、自分以外の「何か」にも向けられます。そして「愛」は、何かを行う時の原動力でもあります。

 もし「愛」がなくなったら、人間は子孫を残すことができず、仕事に取り組む高い志も失われて、社会が壊れてしまいます。そう考えると、「愛」があるから、この世界は成立していると考えることもできます。

まっつん
まっつん

「愛」は、生まれてから、親や学校の先生に教えられて、身につけたものではありませんよね。「一目惚れ(ひとめぼれ)」を経験したことのある人なら、すぐわかるでしょう。

 心が奪われる瞬間は、意識してできるものではありません。「よし、今月は絶対、ひとめぼれするぞ!」。そう、がんばったところで「ひとめぼれ」できるものではありません。気づいたらしているのが「ひとめぼれ」です。

 そこで、フランクルの考える「精神」(精神的無意識)とは、「人が生まれもって身につけているもの」と考えると理解しやすいでしょう。ンクルは、愛について、こう書いています。

心理学者フランクルの自画像
フランクルの言葉

 愛と決断との間にはそもそもなんらかの関係があるのだろうか。もちろん、ある。なぜなら、愛においてもまた、いや愛においてはなおさらなこと、人間の存在は「決断する存在」であるのだから。実際、伴侶の選択、「愛の選択」は、それが衝動的なものによって動かされたものでない限りにおいてのみ、真の選択でありうる。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p39

フランクルは、最初の妻である「ティリー」を、ナチスの強制収容所で失います。『夜と霧』(みすず書房)を読むと、とても深くティリーを愛していたことがわかります。

フランクルが結婚を決めた瞬間

『フランクル回想録』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)の表紙画像
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 その「ティリー」と結婚する「決断」をした時のことを、フランクルは、自伝『フランクル回想録』(春秋社)に書いています。ある日、フランクルが自宅でランチの準備をしていた時、睡眠薬中毒の患者のために、病院から緊急で呼び出されます。そして…、

フランクルの言葉

 二時間後、私は家に戻った。せっかくの一緒の昼食は台なしだった。私は他のみんなはもう食事を済ましたものと思っていたし、実際両親はそうしていた。

 ところが、彼女は私を待っていて、帰って来た私にかけた最初の言葉は、「ああ、やっと帰って来たの。ごはん待っていたのよ」ではなく、「手術はどうだった。患者さんの具合はどう?」だったのだ。

 この瞬間、私はこの娘を妻にしようと決めた。私から見た彼女がどうこうだから、ということではなく、まさにそれが彼女そのものだったからである。

『フランクル回想録』(V・E・フランクル[著]、山田邦男[訳] 春秋社)p115

 「ティリー」は看護婦でしたので、職業柄「患者さんの具体はどう?」と、自然と言葉が口をついたのかもしれません。ですが、フランクル自身が、この言葉に「まさにそれが彼女そのものだった」とティリーの本質を直観し、瞬間的に「愛の選択」=「結婚の決断」したのは、意識的にはできないことです。

まっつん
まっつん

「彼女がどうこう」というのが、意識的に「愛の選択」を決断することです。それに対して、フランクルがここでした決断は、瞬間的でありながら深い納得感のともなったものであり、論理を超えた心の奥深く「精神的無意識」で行われたものです。

 これこそ「決断する無意識」の働きですね。真の意味での「愛の選択」は、無意識のレベルでなされているのです。

それでは、最後、「良心」について、書いていきます。

「良心」について

「良心」とは、「良いことをする心」であり、「良いことを行う際の原動力になる心」とも言えます。「何が良いことなのか悪いことなのか」を語り出すと、本1冊になるお話しですので、ここでは、「良心」「人間にとって良いことをする心」と定義しておきます。

人の「良心」のイメージ画像。ボランティアのTシャツを着る人たち。

それでは、フランクルが、「良心」について何と言っているか、耳を傾けてみましょう。

フランクルの言葉

 (※良心という現象は)「決断する存在」としての人間存在に無条件に所属している(中略)良心と呼ばれているものが無意識の深層にまで及んでいるものであり、無意識の根底に根ざしているものであることは、事実なのである。人間の現存在における大きな、真正の(実存的に真正の)いろいろな決断は、いかなる場合にも非反省的に、またそれゆえ無意識になされるものなのだ。

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p32
※(良心という現象は)は追記

 ここでポイントとなるのは、良心が「無条件に所属している」という点です。「無条件」とは、「どんな人にも、どんな時にも」ということです。

まっつん
まっつん

男であっても、女であっても、日本人であってもアメリカ人であっても、1000 年前であっても現在でも、条件にとらわれず、「どんな人にも、どんな時にも」、人は「無意識」という場所に「良心」を持っている。そうフランクルは考えたのですね。

「良心」は本当に無意識からのものか?

 ですが、本当にそういえるでしょうか?

 この世界には、たくさんの悪人がいて、良心に反する行いをしています。道徳心を忘れ罪を犯す人は、全世界で数えたら、100人、1000人の話しではありません。

 それでも、フランクルが「良心」の存在を否定しないのは、地獄のナチスの強制収容所に投獄されて、極限状態における「人間の本性」を見続けたからです。

 強制収容所は、監視官に殴られ蹴られるの日常で、食べ物もろくに与えられない非人間的な環境です。そんな地獄のような状況に置かれたら、「良心」の出る幕などなくなってしまうのではないでしょうか。生き延びるために、誰もが自分のことだけを考えて、平気で「良心」に反する罪深い行いをするのではないかと想像してしまいます。

 ですが、フランクルは見たのです。 地獄の惨劇で、人のお手本になるような「良心」を発揮する人たちを。しかも、その数は、決して少なくなかったのです。世界的ベストセラーとなった『夜と霧』で、フランクルは、こう書いています。

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フランクルの言葉

 各ブロックの囚人代表の中には優れた人物がいたが、そういう人物は彼のしっかりした勇気づける存在によって、深い広汎な道徳的影響を統率下の囚人に及ぼし得る多くの機会をもっていたのである。模範的存在であるということの直接の影響は常に言葉よりも大きいのである。

『夜と霧』(V・E・フランクル[著]、霜山 徳爾[訳] みすず書房)p32
※(良心という現象は)は追記

 フランクルは、「地獄」に「天使」を見ました。その「天使」は「たまに」ではなく、「いつも、どこか」で見かけることができました。

まっつん
まっつん

 もし、「良心」が、どんな人にも、どんな時にも、無条件に備わっているものでなければ、ナチスの強制収容所で「良心」的な人を見かけることは、なかったでしょう。

「良心」が、「精神的無意識」といわれる「無意識」の根底に根ざしているからこそ、人の道に反する行いをされても、非人間的な環境に置かれても、「良心」は押し流されず、人を模範的な存在に仕立てあげた、と考えられます。

「良心」が超越的な存在からの声を聴きとる

 フランクルは、この「良心」を、「超越的な存在からの声を聞きとる心」だと考えていました。フランクル心理学では、「人間が生きる意味をのではなく、人間は、運命から問われている存在だ」と考えます。

 生きる意味を問うのではなく、問われ、その問いに答えていくが人生である。

 フランクルは、人間を「問われ、答えていく存在」として定義します。

 では、この問いを、どこで聴きとるかというと、フランクルは、それは無意識のレベルにある「良心」だと言います。「良心」は、運命や人生や何か大いなる存在からの声を聞き取り、道徳的な人間らしい決断をしているのです。


 以上、フランクルが考える精神(精神的無意識)と、その3つの代表的な働き(「芸術的インスピレーション」「愛」「良心」)についてでした。では、フランクルの名言を最後にあげて、本論を終えます。

フランクルの言葉

 われわれは、人間がみずからの内部にそれと意識することなく天使を秘めている

『識られざる神』(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p76

(文:松山 淳


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松下幸之助10の名言https://www.earthship-c.com/nice-word/matsushita-konosuke-10-quotes/Tue, 09 Jan 2024 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15750

 「ウェルビーイング」(心身共に健やかな状態)や「人的資本経営」が、人事マネジメントのキーワードになっています。人材の力をいかに引き出し、育て、その価値をどこまで高めることができるかは、経営上の大きな目標にもなっています ... ]]>

松下幸之助 略歴

 松下幸之助は、松下電器産業(現パナソニック)創業者。明治27(1894)年、和歌山県に生まれる。16歳の時、大阪電灯に入社し7年間働く。同社を退社後、自宅で、妻むめのと妻の弟である井植 歳男と共に起業する。大正7(1918)年、松下電気器具製作所を創業。昭和4(1929)年、松下電器製作所に改名する。
 昭和21(1946)年、出版社の「PHP研究所」を創設。『道をひらく』『指導者の条件』『素直な心になるために』など数多くの著作を遺し、本を通しての啓蒙活動を行った。昭和54(1979)年、松下政経塾を設立。政治家の育成にも力を注ぐ。平成元(1989)年に94歳で没。「経営の神様」の異名をもつ。名経営者として世界に名を知られ、その教えに今も多くの人が耳を傾けている。

松下幸之助の名言1:人間はだれもが光る

 「ウェルビーイング」(心身共に健やかな状態)や「人的資本経営」が、人事マネジメントのキーワードになっています。人材の力をいかに引き出し、育て、その価値をどこまで高めることができるかは、経営上の大きな目標にもなっています。

まっつん
まっつん

パナソニックを1代でグローバル企業に育てあげた松氏幸之助は、人材育成においても優れていたといえます。『人を活かす経営 』(PHP文庫) の中で、松下氏は、こう述べています。

人を活かす経営 (松下幸之助 PHP文庫) の表紙画像
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松下幸之助の名言

 人間はだれもが、磨けばそれぞれに光る、さまざまなすばらしい素質をもっている。
 だから、人を育て、活かすにあたっても、まずそういう人間の本質というものをよく認識して、それぞれの人がもっているすぐれた素質が生きるような配慮をしていく。
 それがやはり、基本ではないか。

『人を活かす経営』(PHP)

 人それぞれ違う素質をもってこの世に生まれてきます。そして育った環境も人それぞれです。だから「人材の素質をいかす」ことが大事だと、誰もが理解できています。では、そのために何が必要なのでしょうか。松下氏は上の言葉に続けて、こう述べています。

松下幸之助
松下幸之助

「なによりも仕事上の知識、技能を修得させ、向上させるといったことが必要なのはいうまでもない。そうしたものがおろそかになっては、仕事をスムーズに進めていくこと自体がむずかしい」(『人を活かす経営』PHP)

 言われてみれば当然のことですね。ですが、仕事に必要な「専門知識」が、上司から部下へと継承されていないことがあります。モチベーション・マネジメントのポイントとして、次のことがよくいわれます。

目標を達成するためのスキル・ノウハウが何かを知り、それを「身につけられる」と感じられればモチベーションを維持できる。

 成果を出すことは人のやる気を高めます。しかし、成果をあげることがすぐに無理でも、仕事に必要なスキル・ノウハウが何かを知り、それを「この会社では身につけることができる」と、見通しをもてていれば、モチベーションに好影響を及ぼし続けます。

 例えば、新人A君が成果を出すのに「英会話力」が必要だとします。A君は英語が苦手です。高校生の時は、いつも赤点でした。それでも「英語」を身につければ「今以上に成果を出せる」と「わかっている」のと「わからない」では、大きな差があります。

「先の見えない霧の中を、ただ、やみくもにさまよう」のではなく、「先の見えない霧の中だけれど、ライトと地図を手に入れれば、なんとかなる」と思えていることが、大事です。

 そう考えると、松下氏がいう「仕事上の知識、技能を修得させ、向上させる」という、いってみれば当たり前のことが、改めて、人材育成には大切なことだと理解できます。

松下幸之助の名言2:熱意のある人はハシゴを考える

 昭和34年(1959年)、松下氏は「大卒定期採用者壮行会」の講演で、こう述べています。

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松下幸之助の名言

 この二階に上りたい、何とかして上がりたいという熱意のある人は、ハシゴを考えましょう。非常に熱意のある人は、どうしたら上れるのか、ということでハシゴを考える。
 この二階に上ってみたいなあ、というくらいの人ではハシゴは考えられません。

『社員稼業』(PHP)

 上の言葉は、「熱意ある願望」の大切さを説いています。「2階に上れたらいいけど、別に上れなくてもいいや」といった中途半端な「願い」では、そこに差が生まれてきます。

 この「熱意ある願望」に関する、京セラ創業者稲盛和夫氏のエピソードがありますので、ご紹介します。稲盛氏の著書『生き方』(サンマーク出版)に、その様子が書かれています。稲盛氏といえば松下幸之助亡き後、「経営の神様」と呼ばれた人ですね。

 エピソードは、稲盛氏がまだ若き日、初めて松下氏の講演を聞きに行った時のことです。講演の中で「ダム式経営」の話しになりました。

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 「ダム式経営」とは、水不足になった時にダムに水があれば困らないように、会社もいざという時に備えて、資産を十分に蓄え、余裕のある経営を目指すものです。

 この話を聞いていかがでしょうか。「それができたら苦労はないよ」「そんな当たり前のことは誰でもいえる」などと、つい否定的にとらえてしまわないでしょうか。会場もそんな雰囲気になったそうで、最後、質問がされました。

「ダム式経営ができれば、たしかに理想です。しかし現実にはそれができない。どうしたらそれができるのか、その方法を終えてくれないことには話にならないじゃないですか」

 この質問に対して、松下氏はポツリとこう答えました。

松下幸之助
松下幸之助

「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わないとあきまへんなあ

 この答えに、失笑が広がります。しかし、稲盛氏は「体に電流が走るような大きな衝撃を受け」たと書いています。なぜ、それほどまで強いインパクトがあったのでしょうか。稲盛氏は、こういいます。

「ダムをつくる方法は人それぞれだから、こうしろと一律に教えられるものではない。しかし、まずダムをつくりたいと思わなくてはならない。その思いがすべての始まりなのだ。(中略)つまり、心が呼ばなければ、やり方も見えてこないし、成功も近づいてこない。だからまず強くしっかりと願望することが重要である。そうすればその思いが起点となって、最後はかならず成就する」

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 冒頭の松下氏の言葉に戻りましょう。

 「非常に熱意のある人は、どうしたら上れるのか、ということでハシゴを考える」とありました。ダム式経営も同じで、「まずダムをつくりたいと思わなくてはならない」わけです。

 2階に上りたいと願うから、ハシゴというアイディアが出てきます。そもそも2階に上ることを願ってない人に、ハシゴは思いつきません。

 どんな思いをもち、その思いに対して、どれだけ熱意があるのか。

 それが大切ですね。

松下幸之助の名言3:賢い人を集めてもうまくいくとは限らない

チームビルディングのイメージ画像

 「チームビルディング」

 この言葉が、日本に広く普及しました。人と人が集まっただけでは「チーム」とはいえず、それは単なる「集団」「グループ」です。「チーム」とは、メンバー同士の相乗効果から、個々の能力の総和を越えたものが引き出されてくる人の集まりだといえます。

まっつん
まっつん

「うちは、まだまだチームになっていない」。日本代表チームやプロスポーツのチームを率いる監督たちが、よくそういいます。

 日本人は、「以心伝心」を無意識のうちに行おうとする精神文化をもっています。「以心伝心」にはメリットもありますが、やはりデメリットがあります。デメリットは「言葉にすること」=「言語化」が後回しになり、コミュニケーションに対して受け身になることです。「日本人ははっきり言わないので、何を考えているかわからない」と、欧米諸国の人から批判されます。

 では、「以心伝心」のメリットは何でしょうか。「以心伝心」のメリットといえる最たる例は「阿吽の呼吸」です。「以心伝心」は否定的な意味合いにとられることもありますが、「阿吽の呼吸」と聞けば、優れたコミュニケーション手法としてポジティブな印象があります。

 言葉にせずともわかりあえる。サッカー、ラグビー、バスケットなど、試合中、優れたチームプレーが生まれる時、そこに言葉を越えた「阿吽の呼吸」の世界があります。言わずとも相手が何を求めているかが瞬時にわかり、それに答えようと個々の選手が自ら動ける。最高のプレーが生まれる瞬間です。

 「阿吽の呼吸」は、「知能指数」(IQ=Intelligence Quotient)というより、「心の知能指数」(EQ=Emotional Intelligence Quotient)の問題です。「知能が高いか低いか」「頭がいいか悪いか」ではなく、「相手の立場から考え、感じられる力」が「阿吽の呼吸」には求められます。

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 ですから、ビジネスにおけるチームビルディングでも、「知能指数が高くて賢い人を集めればうまくいく」というわけではありません。賢い人にこだわるよりも、「阿吽の呼吸」が生まれる「人と人の組み合わせ」が大切です。

 松下幸之助氏は、『指導者の条件』(PHP)で、こう述べています。

松下幸之助の名言

 立派な人、賢い人ばかり集めたからといって必ずしも物事がうまくいくとは限らない。反対に平凡な人たちでも組み合わせよろしきを得れば、非常に成果があがる。
 そうした人の組み合わせの妙というものを指導者は知らなくてはならないと思う。

『指導者の条件』(PHP)

 「賢い人」を集めようとするよりも、チームの何たるかを知り、「組み合わせの妙」によってチーム力を高められる「心のしなやかな人材」を集めた方が、結果的に、成果に結びついていきます。

松下幸之助の名言4:長所も短所もその人の持ち味

 人には長所もあれば短所もあります。長所が多ければいいなと思いますが、そうとも言い切れません。なぜなら、長所と短所は「表裏一体」の関係になっているからです。

 長所と思っていたことが、短所になり、短所となっていたことが長所にもなる。それが人間というものです。

神経質は、丁寧さに。いい加減は、大らかさに。 しつこさは、あきらめない心に。優柔不断は、しなやかさに 。臆病さは、用意周到さに。長所と短所は表裏一体。短所が長所をつくっている。だから嘆くことはないよ、自分のダメなところを。
 短所は長所に。人は短所があるから長所が輝き、もっと強くなれる。

 神経質は、丁寧さに。いい加減は、大らかさに。 しつこさは、あきらめない心に。優柔不断は、しなやかさに 。臆病さは、用意周到さに。長所と短所は表裏一体。短所が長所をつくっています。

 だから嘆くことはありません、自分のダメなところを…。短所は長所になります。人は短所があるから長所が輝き、もっと強くなれます。

 松下幸之助氏は、こういっています。

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松下幸之助の名言

 長所だ、短所だといっても、それは大きな目で見れば、その人の持ち味、あるいは運命ともいえるものでね、絶対なものではない。それをどう見るかが大切なところなのでしょうね。

『人生談義』(PHP)

 「私ほ短所なんてなければいい」と強く願い、もし、神様がその人の短所を全てとってしまったら、その人の長所が同時に消えてしまうでしょう。

 だから、人を見る大きな目が大切ですね。大きな目で見て、大目に見れば、長所と短所が折り合わさって、その人の「持ち味」になっていることがわかります。

 「持ち味」とは「個性」ともいえます。長所と短所の関係性をよく見つめて、自分の「個性」を大切にしましょう。

松下幸之助の名言5:結局、悩みはひとつ。

 人間が一度に考えらるのはひとつです。人には意識と無意識があります。無意識は自分では自覚できないことなので、どれだけ気づこうと思っても気づけません。ですので、自分は悩んでいると気づくのは意識の領域のことです。

 この意識の領域では、常に考えていることは、ひとつです。そうです、ひとつだけです。

 それが人間の心の構造となっています。

 もちろん私たちは無意識の領域をもっていますから、自分で「あーだ、こーだ」と悩みながら、同時に、他のさまざまなコトを考えています。とはいっても、無意識の動きは意識することはできないのですから、その時に悩むことはやはり「ひとつ」なのです。

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 松下氏もこういっています。

松下幸之助の名言

 私の悩みは多い。悩むことは百も千もある。
 しかし、千の悩みがあっても百の悩みがあっても、
 結局その悩みは一つである

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 松下氏が、長い人生経験を経て、悩みを常に持ちつづけてきたけれど、結局のところ、それは「ひとつ」だと気づいたのは、悩むときは、ひとつのことしか悩めないという厳然たる事実からでした。

 町工場から始めて世界のパナソニックを作った人ですので、それはそれは、悩みは尽きなかったでしょう。この言葉が出てきた章で、松下氏は「悩み」そのものを肯定しています。

 悩むのは結局ひととつだし、また、悩むことがあるから、自分が向上していくし、悩むたびに知恵がつくのだから悩むことも必要なことだと、肯定します。

 悩みは、運命が出す人に出す宿題です。

 「その人に乗り越えられるからこそ、神様は宿題を出す」とよくいいます。その宿題に人は悩まされるわけですが、悩みがあって、人は成長していくのですから、ひとつひとつ乗り越えていきましょう。

松下幸之助の名言6:一人前の大人というもの

 リーダーシップは100年に及ぶ研究成果があり、さまざま学術的な理論があります。「SL理論」「PM理論」「サーバントリーダーシップ」「オーセンティック・リーダーシップ」など。

まっつん
まっつん

いろいろとあるのはいいのですが、リーダーシップを発揮する側の人間からすると、「結局、どれが正解なの?」といいたくなります。理論があり過ぎて、逆に、リーダーシップがわからなくなってしまうのです。

 研究家の間でも、しばしば「リーダーシップは、研究すればするほど、さらにわからなくなる」と、いわれるほどです。そこで、松下幸之助氏の言葉です。

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松下幸之助の名言

 もし一緒に歩いている友人が、途中で何かにつまずいて転んだというようなことがあったら、だれもがその友人が起きあがることに手を貸す。
 そういう行動がごく自然にとれるのが、一人前の大人というものである。

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 リーダーとは「一人前の大人」です。そして「一人前の大人」としての行動をとっていくことがリーダーシップです。

 こう考えると、むずかしい理論が、とてもシンプルになります。

 ニュースとなり世間を騒がせる企業の不祥事の数々は、「一人前の大人」としての行動をとれないことが原因です。企業の不祥事は後を断ちません。「死ね」と部下を罵倒するリーダーの所業には、首を傾げざるをえません。とてもシンプルに「一人前の大人であれば、しないこと」といえます。

「リーダーとは何か」を考えることは、「一人前の大人とは何か」を考えることです。「リーダーシップとはどんな行動か」を問うことは、「一人前の大人であればどんな行動をとるのか」を問うことです。

 そんな人間学の視点と取り入れることで、リーダーシップはシンプルになり学びやすくなります。

松下幸之助の名言7:私心にとらわれない

 人には生まれ持った「欲」があります。「欲」は本能的なものであり、生存本能が強く働けば、命を守るために、他人より自分を優先するのが人です。この傾向が強くなると何事も、他人より自分のためと「私心」が強くなっていきます。

 「私心」というと否定的な印象がありますが、私心なくして、人は生きていけません。私心があって、自分を活かそうという成長欲も出てきますし、自分を守る術も身につけていきます。

 ですが、人が社会で他者と共に生きる存在である限り、私心が強くなると、うまくいかなくことが多くなります。

「自分だけよければいい」

 そんな考え方は、自分を小さな箱にとじ込め、自己の可能性や人生そのものを小さなものにしてしまいます。松下氏は、こんな言葉を残しています。

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松下幸之助の名言

 自分のやっていることは正しいのだとか、自分はこういう使命に立っているのだからこれをやるのだ、もしうまくいかなくてもそれはしかたがない、というような心境が大切だと思う。
 そしてそのことは私心にとらわれない、ということに通じると思う。

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 「私心」とは、自分への執着であり、「自己執着」のことです。自己執着は、人の目を曇らせ「使命」(この人生でなすべき正しいこと)から人を遠ざけます。

まっつん
まっつん

もちろん、自分のしていることが正しくても、使命だからといって必ずしも、うまくいくわけではありません。使命だからこそ試練となって、逆にうまくいかないことも人生にはあります。

 「私心」にとらわれ自己執着が強くなっていると、「どうしても自分だけが、こんな目にあうのだ。あの人が悪い、この人が悪い」と、何もかも他のせいにする「他責思考」が強くなってしまいます。

 うまくいかな時に、使命の正しさを信じられると、「他責思考」から「自責思考」となって、「今、うまくいかないのは、自分に何か原因があるのかもしれないし、まだ時機をえていないだけなのかもしれない」と、冷静になれます。それが結局は「私心にとらわれない」マインドセットを育んでいくわけです。

 自分のためだけでなく、世のため人のためにベストを尽くしてるか。

 時々、自問自答してみましょう。

松下幸之助の名言8:過ちにどう対処するか

バットを構えるイチロー(マリナーズ時代、2008年6月25日)
6/25/08 Seattle Mariners @ New York Mets. Ichiro Suzuki performs his batting ritual.OlympianX, Andrew Klein

 イチローに、こんな言葉がありました。

 「結果がでないとき、どういう自分でいられるか。決してあきらめない姿勢が、何かを生み出すきっかけをつくる」(『夢をつかむイチロー262のメッセージ』(ぴあ)

 数々の記録を打ち立て、天才と呼ばれたイチローにもスランプはありました。特に現役時代の終盤は、成績不振に苦しみ、試合に出場することすらできませんでした。天才と呼ばれた人にも、「失敗」といえる時期は訪れたのです。

 松下氏は「過ち」について、こう述べています。

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松下幸之助の名言

 大切なのは、過ちをおかしたときに、これにどのように対処するということだと思います。
 この処し方いかんによって、人間としてのほんとうの値うちが決まるといっても決して過言ではないと思うのです。

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 人は誰もが失敗をし、過ちを犯すものです。その時、大切なことは、イチローがいうように、その苦難に対して「どういった自分」となり、「どう対処するか」に尽きます。

 成功している時よりも、失敗している時に、その人の本性が出るものです。

 だから失敗した時に、自分の「人間としてのほんとうの値うちが決まる」と思い、底力を発揮し自分のほんとうの値打ちを高めましょう。

松下幸之助の名言9:「できるはずだ。どうすればできるか」と考える

 「できない理由」

 これは、不思議なもので、ドンドンでてきます。予算がないから、人手が足りないから、優秀な人材がいないから、政治が悪いから、国が悪いから、世の中がおかしいから…。いい出したらキリがありません。

 「できない理由」をひたすらいいあう非建設的な会議を、「建設的な会議」だと勘違いしていると、もったいないです。時間を浪費することになります。

 もちろん、無謀なことには歯止めをかけなければいけませんので、「できない理由」は、それはそれとして大事です。

 でも、「できない理由」を並べることが習慣化され風土になってしまうと、組織に沈滞ムードが漂うことになります。なぜなら、「できない理由」は新たな挑戦を遠ざけて、同じことの繰り返しを「よし」とするからです。同じことの繰り返しでは、時代にキャッチアップできず市場から、時代から取り残されてしまいます。

 松下幸之助氏もこう述べています。

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松下幸之助の名言

 やはり事業でもなんでも「できない」と考えてしまえばそれで終わりである。
 「できるはずだ。どうすればできるか」というように考えていってこそ、困難なこと、一見不可能のようなこともできるようになる。

『決断の経営 』(PHP)

「できない理由」ではなくて、「どうすればできるか」と問い「できる理由」を探していくのが大切ですね。

「できない理由」を探し出す名人になるのではなく、「できる理由」を発見する達人になりましょう。

 

松下幸之助の名言10:幸・不幸の両面があるということが、結局は幸福

 「禍福はあざなえる縄のごとし」
 「災い転じて幸となる」
 「幸福は不幸の顔してやってくる」

 いずれもの言葉も、逆境にある人を励ます世の真理です。

 松下氏は、父の事業が失敗し、少年時代はとても貧乏でした。おまけに、からだ病弱でした。そして小学校しか卒業できませんでした。世界企業パナソニックを一代で作り上げた名経営者ですが、何度も逆境に陥っています。特に第二次世界大戦後、GHQによって財閥解体の対象となった時は、自分のつくった会社を取り上げられそうになったので、人生最大の逆境だったといえます。

 長い人生において数多くの禍福を味わった松下氏は、こう述べています。

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松下幸之助の名言

 幸・不幸の両面があるということが、結局は幸福なのかもしれません。不幸な姿を一瞬でも味わうことによって、初めて幸福のありがたさを知ることができるからです。
 これが、すべて幸福の連続だとしたら、そこからは、何ら、幸福感は生まれてこないでしょう。

『人生談義』(PHP)

 確かに、その通りですね。幸福なことばかり続いたら、幸福が当たり前になって、幸福であることに「ありがた味」を感じることができなくなります。感謝の念を持てなくなります。

 「ありがたい」の反対が「当たり前」です。

 人生には、辛いことと幸せなこと、この二つがあって、人生に「ありがた味」をもたらしてくれるのです。「あ〜ありがたい」と感じる時、私たちは幸福の中にあるのです。

 だから、不幸にあっても、、今の不幸は、次の幸福で深い「ありがた味」を感じるために必要な意味のある時だと覚悟を定めて、未来に向けて歩んでいきましょう。

(文:松山 淳


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無意識の力を信頼する〈フランクル心理学〉https://www.earthship-c.com/frankl-psychology/trust-in-unconscious-power/Fri, 22 Dec 2023 20:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15640

 「ロゴセラピー」(Logotherapy)を生み出したヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、世界三大心理学者(フロイト・ユング・アドラー)とは異なり、ユニ ... ]]>

 「ロゴセラピー」(Logotherapy)を生み出したヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)は、世界三大心理学者(フロイト・ユング・アドラー)とは異なり、ユニークな無意識に対する考え方を提唱した。

 フロイト、ユングの深層心理学では、意識と無意識を層構造でとらえる。ユングは無意識をさらに個人的無意識と集合的無意識に分類した。これに対してフランクルは、「身体」「心理」「精神」の3つの概念を並列させ、深層心理学でいう無意識を「精神」と呼んだ。

心理学者フランクルの自画像

 フランクルは世界三大心理学者の提唱する理論は心理主義と批判した。心理主義では、「心の中」(内界)を起点にして理論が生まれてくる。フロイトは無意識に「病」の原因があると考え、ユングは無意識を創造性の源であると考えた。いずれにしても、「心の中」に着目し内界を軸に理論が展開される。

 フランクルは、自己を超越した何かからの呼びかけに答えようとする「意味への意志」があるとした。「心の中」ではなく、「心の外」である「外界」からの働きかけを重視し、理論を展開した。

 フロイト、ユングを心理主義と批判したため、フランクルは無意識を否定した心理学者という印象がある。しかし、「精神」という言葉でフランクルは無意識について独自の見解を展開している。

 本稿では、フランクルの無意識の考えを含む「心理」「精神」の概念を説明しながら、論を展開していく。

フランクルの考えた心の構造

 フランクル心理学は、思想であって心理学ではない。そんな批判があります。フランクルは、医師として「逆説志向」「反省除去」という心理療法によって実際に、患者を治療していたわけですから、その批判は的外れです。

 そう批判されてしまうひとつの要因に「心の構造」の難解さがあげられます。フランクル心理学の基本となる「心の構造」は、日本語にした時に、余計に難しくなってしまっています。この皮肉のため、フランクル心理学では、「心の構造」をとりあげにくのだと思います。

 まず深層心理学で考える心の構造をおさえていきます。

深層心理学での心の基本構造

 フロイトやユングの深層心理学では、下の図のように、心を「意識」「無意識」にわけて考えます。私たちの心には、「意識できる部分」(意識)と、「意識できない部分」(無意識)がある。とてもシンプルです。

意識と無意識の図

 「今、自分の右手に意識を向けてください。」

 そう言われたら、心が右手へと移動します。その移動した心が、ここでいう「意識」です。と同時に、今の「意識」とは異なる部分が、私たちの中にあって常に働いています。それが「無意識」です。

まっつん
まっつん

 当たり前の話ですが、意識することができないからこそ「無意識」なわけです。「無意識」があるということは、普段の私たちの意識では、自覚することのできない心の働きを誰もが持っているということになります。

 さて、ではフランクルは心の中をどう考えたのでしょうか。

フランクルが考えた「心の構造」

 フランクルは、「身体」「心理」「精神」という3つの要素を考え出して、「心の構造」を整理しました。

フランクル心理学「身体」「心理」「精神」のイメージ図

 身体は「からだ」のことですので、これは、すぐわかります。次にくる「心理」と「精神」を見た時に、「それって同じじゃないの?」と混乱してしまいます。私たちが日常会話で、「心理」と「精神」といったら、ほぼ同じ意味で使いますよね。ここが、つまづくところです。

 では、この「つまづき石」をとるために、2つの違いについて説明していきます。

「心理」と「精神」の違い

心理とは何か?

フランクルがいう「心理」は、心理的現象を感じとる場所です。心理的現象とは「心の反応」のことです。

自然の中で癒される女性の写真

 例えば、「先生に叱られてムカついた」「ディズニーランド行って、めっちゃ楽しかった」「久しぶりに、自然の中で、癒されたわ〜」など、ある出来事があった時に自然と起きる「心の反応」が、心理的現象です。

 嫌いな虫を見たら逃げたくなります。美しい景色を見たら感動します。

まっつん
まっつん

 現実の出来事という刺激に対して心が反応し、人はいろいろな感情が自然とわいてきます。それを感じるのが「心」ですね。その自然と感じる部分またはその働きを、フランクルは「心理」といっています。

 では、この「心理」に対して「精神」とは何でしょうか。

「精神」とは何か?

「精神」とは、「無意識レベルでの主体的な人間らしい心の働き」のことです。フランクルは「精神的無意識」ともいっています。ここでポイントになる言葉は2つあります。「人間らしい」「主体的」です。まず、「主体的」をフックにして説明を進めていきます。

 先ほど、「心理」を説明したところで、「自然と起きる」を太字にしました。「主体的」「自然と起きる」では、反対の考え方になりますね。

 そういえば、Aさんが自分の意志で選択し決断して〜を行うことです。反対に「自然と起きる」だと、自分の意志の関わりは少なくなり、受け身の状態となります。それは受動的な心の動きといえます。

「精神」→「主体的」
「心理」→「受動的」

 この「主体的」「受動的」が、「精神」「心理」の大きな違いになります。ですが、ここで疑問がわいてきます。

 「精神のある場所が無意識だとしたら、どうして主体的になれるの?決断するとか選択するとかって、意識的に行うことでしょ。無意識にできないよね?」

 ホント、その通りです。ここが混乱するのです。では、この混乱をおさめるために、まず、深層心理学における無意識との違いについて説明していきましょう。

無意識には理性的かつ主体的な働きがある

フロイトの「無意識」は、「意識」に衝動的に強く作用するものです。衝動的とは、意志や理性に反して心が突き動かされる状態です。

衝動買いをした女性のイメージ写真
Aさん
Aさん

 「昨日、けっこう高かったんだけど、つい、このワンピース衝動買いしちゃったの」

 そういったら、「買うつもりはなかったんだけど、欲求に理性が負けて、つい、買ってしまった」という状況ですね。

まっつん
まっつん

 深層心理学の「無意識」には、人の心を突き動かす衝動的な「欲求」という側面があります。「欲求」は、お腹がすいたり、眠たくなったりで、それは自然と起きてくるものです。「欲求」は、自分の意志理性ではとめられない時があります。

 衝動的な欲求は「自然と起きる」のですから、これは、フランクルの「心の構造」で考えると「心理」に近いものです。

 「衝動買い」をしたら、お小遣いが足りなくなったり、せっかく買った服がタンスの肥やしになったりします。「お店では似合うと思ったんだけど、家に帰って着たら全然、似合ってなかった」と、後悔することが衝動買いにはよくあります。これは、欲求に理性が負けている「人間らしい」行いとはいえない心の動きです。

「衝動的無意識」「精神的無意識」

 そこで、フランクルは、フロイトの無意識を「衝動的無意識」と名付けて、自身の理論である「精神」の部分を「精神的無意識」と呼んで、対比させました。

・深層心理学ー「衝動的無意識」(理性に反する働きもする)
・フランクル心理学ー「精神的無意識」(主体的・理性的に働く)

 つまり、フロイトが無意識を「衝動的で理性を負かしてしまう働きがある」としたのに対して、フランクルは、無意識には、主体的で理性的で自律的な「人間らしい」心の働きがあると考えたのです。

 つまり、フランクルのいう主体的とは、人が意識的にする主体的な判断ではなく、無意識そのものが主体的に行う心の働きのことをいっているわけです。

フランクルの考える無意識

無意識には、衝動的ではない人間らしさを志向する理性的かつ主体的な心の働きがある。

 この無意識の考え方は、フランクル心理学ならではの独自の見解になります。私たちの知らないところ(無意識)で、「心」が人間らしい決断や選択をするのです。フランクルは「決断する無意識」といっています。であれば、私たちのもつ「心」は、頼もしい味方となりますね。

無意識は人間らしい決断をする

 さて、「人間らしい」という言葉が繰り返されています。「人間らしさ」が、2つの目のポイントとなる無意識の特性です。もし、無意識が「人間らしい」働きをするのであれば、それを信頼することで、「心」は健全化していくはずです。

 例えば、広場に行くと、なぜか「心臓が止まるのではないか」という恐怖に襲われるようになった人がいたとします。これは、その人の本来の姿ではありませんね。その人らしくない状態です。

心理ー精神拮抗作用

 この自然とこみあげてくる衝動的な恐怖は、出来事(広場にいる)に対する自然と起きる「心の反応」ですので、フランクルは「心理」次元の問題ととらえます。もし、その恐怖が習慣化すると、外に出られなくなる可能性が出てきます。

 「心理」次元の問題に対して、「精神」(精神的無意識)は、「人間らしい」選択・決断をします。ですので、自然とわき起こってくる「恐れ」に対抗し、「精神」は「広場にいてOK」という選択・決断をするように促すのだと、フランクルは考えました。

 衝動的な「心理」の働きに対して、「精神」には抗(あらが)う作用があります。この作用をフランクルは、「心理ー精神拮抗作用」と呼びました。この「心理ー精神拮抗作用」があるから、フランクル心理学の心理療法である「逆説志向」「反省除去」が成立するわけですね。

不安や緊張を軽くする方法「逆説思考」のアイキャッチ画像 不安や緊張を軽くする方法「逆説志向」 フランクル心理学 「反省除去」(脱反省)とは アイキャッチ画像 フランクル心理学の「反省除去」(脱反省)とは

もっと無意識の力を信頼しよう!

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 「スランプを克服する方法(反省除去)」の記事で、スランプに陥ったバイオリニストの事例をあげました。あまりに意識的に努力をしすぎた結果、そのバイオリニストは、自分の本来持っている力を発揮できなくなったのです。

「反省除去」とは、過剰に自分へ向く意識を取り除き、無意識の働きに委ねることで、心の障害を取り除こうとする療法です。つまり、「反省除去」は、先ほどの「心理ー精神拮抗作用」を活用しているわけです。フランクルはこう書いています。

フランクルの言葉


 彼のなかに蔵されている無意識のものが彼の意識にくらべてどんなに「より音楽的」であえるかを繰り返し繰り返し彼にきづかせてやることにより、この患者のために無意識への信頼を取り戻してやるということがなされねばならなかった。

 事実、このようにして行われた治療の結果、本質的に無意識的(再)創造の過程が過度の意識作用の阻害的な影響から解放されて、無意識の有する芸術的「創造力」のいわば抑制解除がなされたのである。

『識られざる神』【旧版】(V・E・フランクル[著]、佐藤利勝[訳] みすず書房)p41

 上の文章でフランクルが言いたいことを簡潔に述べれば、「もっと無意識の力を信頼しましょう」ということですね。

 フランクルは、「精神的無意識」の作用として、「芸術的インスピレーション」「愛」「良心」の3つをあげてます。「芸術的インスピレーション」を私たちが持っているのであれば、「無意識の力」をもっと信頼してよいことになります。

フランクル心理学「身体」「心理」「精神」のイメージ概念図

 図にあるように、心身の奥の無意識のレベルにある「精神」は、人間らしい力を発揮できるように私たちを導く力です。

 もっと、無意識の力を信頼して人間らしさを発揮していきましょう。

(文:松山 淳


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人格の発達について(ユング心理学)https://www.earthship-c.com/jung-psychology/personality-development/Thu, 21 Dec 2023 11:34:20 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15534

 人格の発達とは、「意識」と「無意識」が相互に作用し、より高次の全体性を目指しながら、生涯を通してなされる心の統合作業である。ユング心理学では、意識と無意識は補償しあう関係にあると考える。意識が一面的になり、過剰な偏(か ... ]]>

 人格の発達とは、「意識」と「無意識」が相互に作用し、より高次の全体性を目指しながら、生涯を通してなされる心の統合作業である。ユング心理学では、意識と無意識は補償しあう関係にあると考える。意識が一面的になり、過剰な偏(かたよ)りをみせる時、その偏りを正しバランスを取り戻そうとする働きが、無意識から起きてくる。この無意識からの働きかけと日々の多様な人生経験を通して、人は心を成熟させ人格を発達させていく。

 心理学的類型論(タイプ論)を提唱したユングは、「タイプとは発達の偏りである」(『タイプ論』みすず書房p 551)という。例えば、外向タイプとは、「内向」に比べて「外向」が発達していることだ。それは、「内向」ではなく「外向」という心的態度に偏った結果、もたらされる人格の特徴である。つまり人が、人格を発達させていくことは、常に「偏(かたよ)り」があることを意味する。「偏りなくして発達なし」といえる。

ユング画像
心理学者C.Gユング
(Carl Gustav Jung)

 長い人生を通して、性格タイプの偏りが適度に保たれ、現実に適応できていればよい。しかし、往々にして人はタイプの偏りに対して無自覚で、その結果、人格の「過剰な偏り」が発生し、現実世界を生きていくうえで、時に様々な問題を抱え込むことになる。

 この「過剰な偏り」に起因する問題に人が取り組む時、無意識は意識に「夢」を通してメッセージを送り、その人の「生き方」に調和をもたらそうと働きつづける。無意識からのメッセージを理解し受け入れることができれば、時間がかかり苦悩することは多いが、人は「生き方」を更新できる。この「心の更新」がなされる時、そこに人格の発達がある。

 本稿では、人格の発達について、ユング心理学の観点から「心理学的類型論(タイプ論)」と「夢分析」の知識をおりまぜながら解説していく。

意識と無意識の補償作用があって人格の発達がある

 ユング心理学では、心を3つの層でとらえます。「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」です。

まっつん
まっつん

 「私は、こんな性格で、こんな人」。そう考える自分は、「意識」の領域で心が働いた結果の「セルフ・イメージ」です。「意識」のエリアで考える自分は「普段の自分」ともいえますね。

 「意識」に対して、ユングは2つの「無意識」のエリアがあるとしました。

補償作用とは?

 ひとつ目の「個人的無意識」は、「意識」の領域から取り払われ、忘れ去られた「心の要素」の蓄積している領域です。ふたつ目の「集合的無意識」は、「人類に共通する心のパターン」=「元型」が生み出されてくる場です。「元型」は、ユングの考え出したコンセプトです。「元型」は夢を通して、強い感情の揺れをともなう鮮烈な印象を人に与えます。

意識と無識の補償作用のイメージ図

 さて、上の図にある通り、意識と無意識は補償作用を通して、心のバランスを保とうとします。目が覚めている時には、意識と無意識に「壁」のようなものがあって、無意識の要素が意識の領域に一気に流れ込むことはないと考えます。

 しかし、眠りについた時には、この「壁」に浸透性が生まれて、無意識から何らかの「イメージ」が意識のエリアへと入り込んできます。意識に流入してきたイメージを、目を覚ました時に覚えているのが「夢」です。

 ユングは夢に対して「目的論」の立場をとっています。何らかの目的があるから人は夢をみると、考えました。夢の目的のひとつが、意識と無意識の補償作用です。補償作用を通して、心は人格のバランスを保とうとします。つまり、偏ってしまった心に、調和をとり戻すために人は夢をみるのです。

 人格にバランスがもたらされるのであれば、それは心の成熟であり、人格の発達が促されているといえます。

ある天狗社員の夢

 例えば、ある高い業績をあげた新入社員がいたとします。この新人が「自分の力」だけで優秀な成績をおさめたと勘違いをし、「天狗」になっています。実際は、多くの人たちが支えてくれたのに…、です。

 職場の人たちは、「入社した時にはもっと謙虚だったのに、あの新人さん、最近、天狗になってるね!」と陰口をささやいています。鼻高々の天狗ですから、もちろん、ここに「人格の偏り」がみられます。

 さて、そんな天狗社員が、夜、こんな夢をみたとします。

「翼を広げ高い空を独りで気持ちよく飛んでいる。すると強い風が吹いてきて、顔面から地面に叩きつけられる。鼻がぺしゃんこになって、強い痛みに苦しみ、その場にうずくまる」。

 「痛いっ!」と声をあげて目を覚ましました。夢のメッセージはあまりにシンプルで、「あなた天狗になってるよ、そろそろ自分で気づいて、態度を改めなさいよ!」ですね。

 彼は夢の意味を考え、「これは、何かの警告だから、もう少し謙虚になったほうがいいな」と、その日から態度を改めました。そんな単純な話はなかなかありませんが、もし、天狗社員が「夢」という「無意識からのメッセージ」を通して謙虚な社員に戻ることができたら、これぞ意識と無意識の補償作用であり、人格の発達がなされたといえる出来事です。

『ユング 夢分析論』(みすず書房)
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 さて、ユングは人が夢をみる目的を「こころの自己調整システム」として、こう書いています。

ユングの言葉

「こころとは自己調整を行うシステムであり、体という生がそうするのと同じようにしてバランスをとっています。行き過ぎた過程に対しては、それが何であれ直ちに、そして確実に補償が始まります。この補償を抜きにしては、正常な新陳代謝も正常な心もありえません。」

『ユング 夢分析論』(C.G.ユング みすず書房)P6

 つまり、人は、「こころの自己調整」を行うために夢を見ているというわけです。

 「こころの自己調整システム」がありながらも、人はなかなか変わることはできません。なぜなら、夢(無意識)は時にあまりにも難解で、夢からのメッセージをうまく理解できなくて、ついつい無視してしまうことが多いからです。すると、夢からの生きるためのヒントを上手に人格の発達に活用できません。

まっつん
まっつん

 せっかく、「こころの自己調整システム」が、日頃から働きつづけているのですから、無意識の声に耳を傾け、意識と無意識の補償作用を信頼し、日々、人格の発達に対して意識的になりたいものですね。

 さて、つづいて「心理学的類型論(タイプ論)」の観点から、人格の発達についてお話ししていきます。

劣等機能も人格の発達を促す心の資産

 ユングは20年にわたる臨床経験と研究から人の性格に関する理論で心理学的類型論(タイプ論)を生み出しました。その詳細は、1921年、スイスで刊行された『心理学的類型(Psychplogical Type)』に書かれてあります。日本版は、『タイプ論』(みすず書房)です。

 

『タイプ論』(みすず書房)
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主要機能と劣等機能の関係

 ユングは、「一般的態度」として2つの態度「外向・内向」を、また、「心理機能」として、4つの機能「感覚・直観・思考・感情」を考えだしました。そして、人によって4つの心理機能のいずれかが、他の機能に比べて優先的に発達する「主要機能」(優越機能)を設定し、外向・内向と組みわせて、8つのタイプを設定します。

 8つのタイプは、「外向思考」「外向感情」「外向感覚」「外向直感」「内向思考」「内向感情」「内向感覚」「内向直感」です。 

一般的態度
外向内向
心理機能感覚外向感覚内向感覚
直観外向直観内向直観
思考外向思考内向思考
感情外向感情内向感情

 人格の発達においてポイントになるのが、「主要機能」(優越機能)に対する「劣等機能」の存在です。性格が形づくられていく時、最も、優越して分化(意識化)され発達していくのが「主要機能」(優越機能)です次に「補助機能」があり、最も未分化のままになっていて、主要機能に比べると相対的に成熟していないのが「劣等機能」です。

まっつん
まっつん

「主要機能」が、「最も使い慣れている心」だとすれば、「劣等機能」は、4つの心理機能のうち、「最も使い慣れていなくて、最も扱いにくい心」といえますね。

 

『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)
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 以下のイメージ図は、ユングの信頼するC.Aマイヤーが書いた『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)の中にあったものです。この図ですと、主要機能が「思考」である「思考タイプ」で、補助機能が「直観」です。すると劣等機能は、主要機能の反対になるので、「感情」が劣等機能となります。

『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)p67
掲載図5をもとに作成

 上の図において、各心理機能に、その色を選択した理由について、マイヤーはこう書いています。

「思考の青は思考の世界の冷たさに対応している。感情の赤は血のような暖かみとみなされる。感覚の緑はわれわれの世界の主要な色であり、したがって「現実機能」を表す。直観の黄色は、この機能自体のような困惑のままである」

『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)p67

発達の順番

 さて、上の図に「αβγδ」の文字と矢印の曲線が描かれています。これは、4つの心理機能における発達の順番を意味しています。つまり、補助機能が直観である「思考タイプ」の場合、「α思考→β直観→γ感覚→δ感情」の順に発達していく傾向があるということです。あくまで傾向ですので、100%必ずそうなる、というものではありません。

 矢印の通り、劣等機能の順番は一番最後となっています。これは劣等機能が未分化になりがちであることを意味します。分化とは、「心の要素が無意識から区別されて意識化され発達していくこと」です。つまり、劣等機能は、多くのケースで、主要機能や補助機能に比べると未発達の状態になるといえます。

まっつん
まっつん

 ですので、人生において劣等機能は私たちを悩ます存在になりがちです。一方で、その存在なくして「さらなる人格の発達」はない、ともいえるのです。

 ユングは、『タイプ論』(みすず書房)の中で、劣等機能について、こう書いています。

ユングの言葉

「まさしく劣等機能こそが、機能の分化によって消えかかっていた生命を生き返らせるのである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p284

 なぜ、劣等機能が、「生命を生き返らせる」のでしょうか。

 なぜなら、意識と無意識は相互作用を起こし心を成熟していくものであり、劣等機能も相互作用を起こす対象となりうるからです。劣等機能も、私たちの心に存在している人格を発達させるための大切な「心の資産」です。

 図の「思考タイプ」の例であれば、相互作用ですから、「α思考 + β直観 + γ感覚 + δ感情」の足し算ではありません。「α思考 × β直観 × γ感覚 × δ感情」の掛け算です。仮に各心理機能に数値をふってみて、「α思考100 × β直観70 × γ感覚50 × δ感情30」とした時、4つを全部かけ合わせれば「10,500,000」となります。劣等機能を無視すると、「350,000」にとどまってしまいます。

対立がエネルギーを生む

 また、劣等機能は「生命を生き返らせる力」になる理由として「対立」という概念が考えられます。ユングは「対立によってエネルギーが生まれる」と考えた心理学者です。主要機能と劣等機能は、対立関係にある。劣等機能なくして、主要機能は対立関係をつくることができません。よって、劣等機能は「生命を生き返らせる力」といえるのです。

 ユングは、対立とエネルギーについて、こう書いています。

『エッセンシャル・ユング』(アンソニー・ストー 創元社)の表紙画像
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ユングの言葉

対立するものの緊張のないところにエネルギーは生じない。それゆえ、意識の態度にたいして対立するものを発見することが必要である」

「あらゆる意識は、おそらくそれと気づかないうちに無意識内に対立するものを求めるのである。対立するものがなければ、意識は抗いようもなく停滞、渋滞、硬直化へと向かう。人生は対立するものの閃光によってのみ生まれるのである」

『エッセンシャル・ユング』(創元社)p175

 ユングのタイプ論にある「外向↔︎内向」「思考↔︎感情」「感覚↔︎直観」は、相反する概念が組み合わせであり、「対立」する関係にあります。ライバルと対立することでお互いに切磋琢磨し成長していけるように、ユング心理学にとって、対立は、人格の発達の深く関係する概念となります。

劣等機能の発達が人格を高める

 下の図では、円の上の領域が「意識」の領域です。下に行いくほど「無意識」の領域です。「劣等機能」は無意識の領域にあって、意識の領域にある主要機能と対立してます。「意識」の領域に近いものほど、分化され意識化され発達しています。無意識の領域にあるものは未分化の状態と考え、心の機能が未発達にあると考えます。

主要機能と劣等機能のイメージ図
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
P59掲載「図3」を参考に作成

 ユングにいわせれば、「意識」は停滞、渋滞、硬直化をしないように、「無意識」のうちに対立を求めています。対立がエネルギーを生むのはいいのですが、現実問題として劣等機能に意識的に向き合うことは、かなりの「産みの苦しみ」を味わうことになります。そう簡単なことではありません。

まっつん
まっつん

 これを反転して考えると、私たちが人生のさまざまな場面で、「産みの苦しみ」を味わっている時、それは劣等機能の発達に取り組んでいる時期でもある、という解釈が成り立ちます。

 

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)の表紙画像
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
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 人は、精神的、身体的、経済的に、さまざまな苦悩を味わいます。

 そんな時、自分の運命を呪い、「なんでこんなことになってしまったんだ」と、人生を否定しがちです。しかし、それらの辛い日々を乗り越えた時、「あの苦しい経験があったから今の自分がある」と、懐かしく過去の苦悩を肯定的にふりかえることができます。否定的な体験を肯定できるようになることは、人格の発達にほかなりません。

 タイプ論の知識によって、自分の劣等機能が何であるかを知っておくことは人格の発達に有利に働きます。ですが、それを知らずとも、私たちは苦悩を通して人格の発達を促され、「より高次の段階へと高められている」と知っておけばよいのでしょう。

 なぜなら、意識的、無意識的にさまざまな人生を経験を通して、人格の発達は成されていくものだからです。

人格の発達と夢のパターンと個性化の過程

 ユングとユングの弟子たちによってユング心理学をまとめた『人間と象徴(下)』(河出書房新社)に、「ユングは非常に多くの人を観察し、その夢を研究すること(彼は、少なくとも8万の夢を解釈したと見積もっている)」とあります。

 「少なくとも8万」とありますので、実際は、8万以上なのでしょう。

個性化の過程とは

 数多くの夢を分析したユングは、夢の流れに「パターン」があることを見出しました。『人間と象徴(下)』(河出書房新社)で、「個性化の過程」をテーマにして筆を進めたフォン・フランツは、次のように書いています。

『人間と象徴(下)』(河出書房新社)
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「すべての夢が程度の差はあれ、夢をみた当人の人生に関係しているのみならず、夢は心理的要素のひとつの大きい組織のすべての部分を成していることを見いだした。彼は、また全体として夢が、ひとつの配列やパターンにしたがうように見えることを見いだした。そのパターンをユングは、“個性化の過程”と呼んでいる。」

『人間と象徴(下)』(河出書房新社)p6

 上の記述に似た内容を、ユングの高弟C.Aマイヤーが書いた『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)に見つけることができます。

「人が意識して夢の内容を気にかけて、それに対する態度をはっきりさせると(これはたとえば分析の場合がそうである)、夢の内部に多かれ少なかれ時間的に順序正しい経過が生じ、それがさらに意識の連続的な発展に影響を及ぼす、ということである。こうしてその経過は、プロセス、ユングによれば個性化のプロセス、という性格をおびることになる。」

『ユング心理学概説4 個性化の過程』(創元社)p89

 「個性化の過程(プロセス)」という言葉が、2つの文章の中にあるのがわかります。「個性化」(individuation)は、ユング心理学の重要概念です。ユングは、「個性化」について、こういっています。

『個性化とマンダラ』(みすず書房)
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ユングの名言

「個性化とは、前へ進みすぎた若さに溢れた意識が後ろへ取り残された古老の無意識といかにしてふたたび結合できるかという、今日的大問題への答えとしての、個人の全体化のことである。」

『個性化とマンダラ』(C.G.ユング みすず書房)p143

 ユング心理学は、「人の個性化をサポートしている心理学である」ともいえます。そのサポート法として、主に夢分析を行います。

 ユングの言葉を借りれば、「夢」には「後へ取り残された古老の無意識」が含まれまています。また、「夢」には、「前へ進みすぎた若さに溢れた意識」が抱える課題がイメージ化されています。

まっつん
まっつん

 「前へ進みすぎた」とは、「意識の偏り」と考えられますね。「古老の無意識」「偏った若き意識」が、補償し合い、統合していくことで、個人の全体化が図られます。個人の全体化とは、その人が目指すべき完成形(全体)へと、より成長していくことです。

 つまり、「個性化」とは、ますますのその人が、「その人本来の自分」になっていくことであり、それは同時に、人格が発達していくことでもあります。

夢に登場するものたち

 さて、「個性化」が行われていくプロセスで、夢のなかにパターンが現れていきます。ユングは、いくつものパターンを概念化していますが、その中の代表的なものが、「影(シャドー)」「ペルソナ」「アニマ・アニムス」「自己(セルフ)」です。これらの夢に現れてくる夢の心的イメージをユングは「元型」(アーキタイプ:Archetype)といっています。

ユング心理学の心の全体像

「影(シャドー)」:自分の生きられなかった半面の姿。性格的に対立する存在。男性の夢には男性として、女性の夢には女性として登場することが多い。
「ペルソナ」:その語源は「仮面」。外に向けている自分の「顔」といえるもの。夢では主に衣服に関連することが多い。
「アニマ・アニムス」:その人の魂がイメージ化したもの。男性の夢には女性として、女性の夢には男性として登場することが多い。
「自己(セルフ)」:「意識」の領域の中心が「自我(エゴ)」であり、「心の全体」の中心が「自己(セルフ)」。自己(セルフ)は、その人の本質であり、「個性化の過程」は、自己(セルフ)を目指す心の旅でもある。

 「元型」の詳細については、コラム「元型とは何か」に書きましたので、参考になさってください。

 夢に登場してくるものは、もちろん、元型だけで説明はつきません。元型はあくまでパターンのひとつ過ぎません。夢は複雑怪奇で、どれひとつとして同じものはありません。何を意味しているのか、まるでわからないものもあります。わからないものがあった時、わからないままにしておき、次の夢がどのように展開していくかに気を配ればいいのです。

『ユング 夢分析論』(みすず書房)
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 ユングは、「夢を解釈する人に対して、あまり急いで解釈しないように、大きな声でこう呼びかけてやりたいくらいなのです。「とにかく理解しようとはしないよう」と。」と、(『ユング 夢分析論』みすず書房p16)書いています。

まっつん
まっつん

 ユングでも、わからない夢はたくさんあったのです。あせって理解して、「わかったつもり」になるより、「わからないまま」の状態に耐え抜いて、より深い答えに至ることのほうが、人格の発達にとっては大切です。

 さて、そろそろ本稿も終わりに近づいています。

 ここで、特に強調しておきたいことは、「夢や心の中を観察することは大事ですが、そればかりでは人格の発達はなされない」ということです。現実の世界を生き、「嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと」、さまざまな体験をすることで、人は、人格を発達させていくのです。

 その時、心のなかの動きに意識的になっていることは、必ず、何かの助けになります。

 著書『自我と無意識』(第三文明社)の中で、ユングはこう書いています。

『自我と無意識』(C.G.ユング 第三文明社)
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ユングの名言

「自らの無意識的な自己を実現する道を歩む者は、必然的に個人的無意識の内容を意識にとりいれ、それによって、人格は大きさを増すのである」

『自我と無意識』(C.G.ユング 第三文明社)p34

 人格の発達とは「個性化のプロセス」と重なります。

 人格が大きさを増す時、つまり、人格が発達していくために、無意識の大切さに気づいていくことです。このことを忘れたくありません。

(文:松山 淳


【参考文献】
『タイプ論』(訳:林義道 みすず書房)
『ユング心理学概説4 個性化の過程』(監訳:河合隼雄 創元社)
『エッセンシャル・ユング』(訳:菅野 信夫ほか 創元社)
『人間と象徴(下)』(監訳:河合隼雄 河出書房新社)
『個性化とマンダラ』(訳:林義道 みすず書房)
『ユング 夢分析論』(訳:横山 博ほか みすず書房)
『自我と無意識』(訳:松代 洋一ほか 第三文明社)


ユングのタイプ論をベースに開発された性格検査MBTI®を活用した自己分析セッション

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 国際的性格検査MBTI®を使用しての自己分析セッションです。MBTI®は、世界三大心理学者のひとりC.Gユングの理論がベースになっており、世界の企業が人材育成のために導入しています。その人の「生まれ持った性格」を浮きぼりにするのが特徴です。自分本来の「強み」を知ることができ、心理学の理論をもとに自己理解を深めることができます。

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タイプ論 8つのタイプついて(ユング心理学)https://www.earthship-c.com/jung-psychology/8-types/Thu, 07 Dec 2023 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15403

 ユングは20年にわたる臨床経験と研究からタイプ論(心理学的類型論)を生み出した。1921年、スイスで出版された『心理学的類型(Psychplogical Types)』に詳しく書かれてある。ユングのタイプ論では、「一般 ... ]]>

 ユングは20年にわたる臨床経験と研究からタイプ論(心理学的類型論)を生み出した。1921年、スイスで出版された『心理学的類型(Psychplogical Types)』に詳しく書かれてある。ユングのタイプ論では、「一般的態度」(外向・内向)「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)を組み合わせて、8つのタイプとなる。

 8つのタイプは、「外向思考」「外向感情」「外向感覚」「外向直感」「内向思考」「内向感情」「内向感覚」「内向直感」である。

一般的態度
外向内向
心理機能感覚外向感覚内向感覚
直観外向直観内向直観
思考外向思考内向思考
感情外向感情内向感情

 「一般的態度」(外向・内向)「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)が、どのような「心のメカニズム」なのかについては、「タイプ論 外向/内向 感覚/直観 思考/感情について」にまとめた。

 本稿では主に「8つのタイプ」の特徴について述べていく。その際、参考文献から文を選択し、箇条書きをしていく。参考文献は次の通りである。(以下、敬称略)

【参考文献】
『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)
『ユング心理学概説4 個性化の過程』(C.Aマイヤー 創元社)
『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(F.フランツ、J.ヒルマン 創元社)
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
『心のしくみを探る―ユング心理学入門〈2〉 』(林義道 PHP 電子書籍)

 まず、タイプ分類のキーとなる「主要機能」(優越機能)「劣等機能」について説明し、その後に、「8つのタイプ」の特徴について述べていく。「8つのタイプ」は、❶「外向思考」→❷「外向感情」❸「外向感覚」❹「外向直感」❺「内向思考」❻「内向感情」❼「内向感覚」❽「内向直感」の順で説明していく。

主要機能と劣等機能とは

 「8つのタイプ」の説明に入る前に、「主要機能」(優越機能)「劣等機能」について述べていきます。この2つの機能の定義があって「8つのタイプ」が生まれてきます。

 ユングは、「主要機能」(優越機能)に関連して、こう書いています。

『タイプ論』(みすず書房)
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ユングの言葉

優越機能が最も意識化され、意識の制御や意識的な意図に従っているのに対して、未分化な機能はどれもあまり意識的でなく、その一部は無意識的であり、意識の自由になることがほとんどない。優越機能がつねに意識的な人格を表しその意図・その意志・その行為・を反映するのに対して、未分化な機能はその人にとって降ってわいたように現れるのである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p366

 例えば、「外向」が「内向」よりも優越しているタイプは「外向タイプ」です。「外向タイプ」の人も、もちろん「内向」することがあります。そこで「外向タイプ」は、「外向」が「内向」よりも意識化されていて、「内向」の働きが「外向」に比べたら「未分化」になっているのだ、と考えます。

タイプとは「分化」「意識化」の結果

まっつん
まっつん

 「分化」とは生物学でよく使われる用語ですが、ここでは「心の要素が無意識から区別されて意識化され発達していく過程とその程度」を意味します。

 赤ちゃんの心は「無意識」の状態です。成長するにつれて「無意識」から「意識」「分化」してきて「自我」が生み出されてきます。「自我」が生まれることで、「私」(自分)という存在を意識できるようになります。「ものごころがついた」といわれる状態ですね。

赤ちゃんのイメージ写真

 ですので、赤ちゃんの時は、「意識が完全に未分化になっている」と表現できますね。「未分化」とは、意識化がされておらず発達していない状態と、その程度のことです。

 ユングのタイプ論(心理学的類型論)では、2つの「一般的態度」(外向↔内向)と4つの「心の機能」(思考↔感情・感覚↔直観)を組み合わせて「8つのタイプ」が生み出されてきます。 

 2つの「心的態度」(外向↔︎内向)のうちどちらかが、4つの「心の機能」(思考↔感情・感覚↔直観)のうちいずれかが、優越して分化し発達し、その人の「タイプ」をつくりあげていきます。それぞれのタイプが生まれるのは、「分化」「意識化」の結果だといえます。

まっつん
まっつん

 タイプがつくられていく時、最も、優越して分化(意識化)され発達していくのが「主要機能」(優越機能)となります。反対に、最も未分化のままになっているのが「劣等機能」です。

 そこで、「優越機能」「劣等機能」は次のように定義できます。

主要(優越)機能とは、そのタイプで最も分化(意識化)されている機能のこと。
劣等機能とは、そのタイプで最も未分化の(意識化されていない)機能のこと。

 ユングは、劣等機能を定義する箇所で「心の発達」とからめて、こう書いています。

ユング画像
心理学者C.Gユング
(Carl Gustav Jung)
ユングの言葉

「私は劣等機能を分化過程において取り残された機能と理解する。すなわち経験によると、自らの心的機能を同時にすべて発達させることは、ーすべての条件が整うものではないのでーほとんど不可能である。人間は生まれつき最も得意とする機能、あるいは自らが社会的に成功するために最も有効な手段となるような機能をまっさきに一番よく発達させることを余儀なくさせられる」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p484-485

主要機能と劣等機能の関係図

 下の図は、「4つの心理機能」で、主要機能(優越機能)劣等機能を表した図です。円の上の領域が「意識」の領域で、下に行けばいくほど「無意識」の領域となります。「意識」の領域に近いものほど、分化され意識化されていて、無意識の領域にあるものは未分化の状態と考えます。

主要機能と劣等機能のイメージ図
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
P59掲載「図3」を参考に作成

 上の図の例だと、「直観機能」が主要機能(優越機能)となっている「直観タイプ」ですね。8つのタイプの枠組みで考えると、これに「外向」「内向」のどちらかが組み合わさりますので、「外向直観タイプ」か「内向直観タイプ」ともいえます。

 4つの心理機能は、次の通り「対」になって分類されています。

〈4つの心理機能〉
 :感覚↔直観(知覚機能/非合理機能)
 :思考↔感情(判断機能/合理機能)

 感覚と直観は「知覚機能」で対なり、思考と感情は「判断機能」で対になります。

 図の例だと「直観」が「主要機能」(優越機能)になっていますので、「劣等機能」は、その対となる「感覚」になります。もし、「思考」が「主要機能」(優越機能)」になるなら「感情」が「劣等機能」になります。これがタイプ論のルールです。

全てが同時に発達することはない

 ユングが「心的機能を同時にすべて発達させることはほとんど不可能である」と書く通り、全ての心理機能が同時に発達することではありません。何らかの事情がなければ、優越機能から先に分化され発達していきます。そう考えるのが、ユングのタイプ論です。

まっつん
まっつん

 また「人間は生まれつき最も得意とする機能」とありますので、優越機能がどれになるかは、生まれつき決まっているとユングは考えています。

 ただその後に、「社会的に成功するために最も有効な手段となるような機能をまっさきに一番よく発達させる」と書いています。つまり、生まれた後の環境によって、優越機能より他の機能が先に、分化・意識化されていく可能性があるということです。

 例えば、「外向タイプ」の両親のもとに生まれた「内向タイプ」の子が、幼い頃から「内向」することを否定され、両親から外向することを過度に求めらるような場合です。このケースだと、「内向タイプ」のこの子は、両親との関係を成功させるために最も有効な手段が、つまり親から叱られず傷つけられないための手段が、「内向」より「外向」になるので、「外向」をまっさきに一番よく発達させる可能性があるというわけです。

 この例のように、「生まれた後の生育環境がどのようであるか」も影響しますし、2つの「一般的態度」(外向↔内向)と4つの「心の機能」(思考↔感情・感覚↔直観)は、相互作用しながら性格タイプは形にづくられていきますので、実際は、とても複雑なものになるのです。

タイプ論とは人間理解のための「心の羅針盤」

 本に書かれた「タイプの特徴」は、あくまでも、典型的な例のひとつに過ぎませんので、タイプの知識で「人を決めつけない」ことが大切です。

 あのユングでも「ある人がどのタイプに入っているのかを明らかにすることはしばしばきわめてむずかしく、それが自分自身のことになるととくにむずかしいのである」(『タイプ論』みすず書房p10)といっているほどです。

まっつん
まっつん

 例えば、同じタイプの人が10人、集まったとします。その時「本当に同じタイプですか?」といいたくなるほど、自分とは違うタイプに見えることが、実際にはあるわけです。

 ユングのタイプ論の知識は、自己理解し他者理解し、人間を理解するための「心の羅針盤」です。性格を理解するための指針として活用するものであって、人の性格を「決めつける」ための知識ではないことを、忘れないでおきましょう。

 ユングは「彼らが求めている真理は、彼らの視野を狭くするものではなく広くするような真理、暗くするのではなく明るくするような真理です」(『黄金の華の秘密』人文書院)といっています。人のタイプを「決めつける」ことは、人の視野を狭め、暗くする考え方です。その点に関しては、「タイプ論の目的と経緯」に書きましたので、参考になさってください。

 さて、「優越機能」と「劣等機能」のパートは、これぐらいにしまして、では次に、「8つのタイプ」の特徴について、述べていきます。

「8つのタイプ」について

 ここから冒頭にあげた参考文献から、8つのタイプに関する記述をご紹介していきます。最後に引用した文からキーワードをピックアップします。参考文献は次のものです。(以下、敬称略)

【参考文献】
(ユング)は、『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)から。
(マイヤー)は、『ユング心理学概説4 個性化の過程』(C.Aマイヤー 創元社)から。
(フランツ)は、『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(F.フランツ、J.ヒルマン 創元社)から。
(河合)は、『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)から。
(林)は、『心のしくみを探る―ユング心理学入門〈2〉 』(林義道 PHP 電子書籍)から。

 C.Aマイヤーは、ユングが最も信頼していたといわれるユング研究所の初代所長です。
 フランツ(マリー=ルイズ・フォン・フランツ)は、ユングと30年以上、共に研究を重ねた女性です。
 河合隼雄は、日本におけるユング心理学の第一人者です。
 林義道は、ユング研究家であり数多くのユングの著書を翻訳しています。『タイプ論』(みすず書房)も林による翻訳です。

 

まっつん
まっつん

 ここから書いてあることは、ユングあるいはユング心理学に精通した専門家たちが数多くの言葉を費やした詳細な説明の「一部分」に過ぎません。詳しくは上の参考文献にあたってください。

 タイプ論の知識で「タイプを決めつける」ことはせず、人間理解を深め、建設的な人間関係を育くむための「心の羅針盤」としてご活用していきましょう。

 では、❶「外向思考」→❷「外向感情」❸「外向感覚」❹「外向直感」❺「内向思考」❻「内向感情」❼「内向感覚」❽「内向直感」の順番で書いていきます。

❶外向思考タイプ

「外向的な思考は純粋に具象的な事実に則った思考である必要はまったくなく、純粋な理念に則った思考であっても、理念を用いて思考するさいに外から借りてきた度合いが強いことが、すなわち伝統・教育・学歴によって伝達されたものであることが証明されさえすれば、それも外向的思考である」(ユング p367-368)

「古典的な外向的思考タイプにとっては、すべてが知的な判断にかかっている。その際彼は、外的対象から導き出された公式ないし原理に従っている。この原理があらゆる事柄を結びつけ、ついには一つの法則にまで至る。しかしそこで、それは誰ににとってもあてはまるものとして説明される」(マイヤー p35)

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「外向的思考タイプは、明確な立場を打ち出したり、こう言い切ることで秩序を確立する。「私が言うことは、言葉通りの意味であり言外の意味はない」。彼らは、明確な秩序を外的状況に持ち込む。商談の場では「基礎的な真実を突き止めてから、どうやって取りかかるかを考えねばならない」などと述べる」(フランツ p69-70)

「外向的思考型のひとは、自分の生活を知性の与える結論に従わせようと努めている。そして、その考えの方向づけは客観的な事実によってなされる。このようなひとが内的なこと、哲学や宗教を問題にしているときも、結局は周囲のひとびとの考えを基にしたり、取り入れたりしている場合が多い」(河合 p50)

「こういう人はたいてい公式をもっている。その公式は自分が作ったものではなく、外から来た公式である。(中略)これは外向的思考型の思考様式で、外から与えられた公式をそのまま信じていて、世の中はその通りになると思っている」(林)

公式が十分な幅をもったものである場合には、このタイプは改革者として、すなわち不正を公然と糾弾し人々の良心を洗い浄る者とか、重大な変革を訴えるものとして、社会生活にきわめて有益な役割を演じる」(ユング p373)

【外向思考タイプのキーワード】
知的な判断、公式、原理、法則、秩序、知性、客観的な事実、公式、外から来た、外から与えられた、改革者、変革

❷外向感情タイプ

「たとえば私(※外向感情タイプの人)が「美しい」とか「よい」といった述語を用いなければと感じる場合、それは私(※外向感情タイプの人)主観的な感情からその客体を「美しい」とか「よい」と思うからではなく、「美しい」とか「よい」と言う方がその場にふさわしいからであり、しかもこのその場にふさわしいとは、反対の判断を下すと皆の感情の場を何らかの形で乱すことなるという意味である」(ユング p381-382 ※外向感情タイプの人は追記)

「この人たちの集合的に正しい諸価値は、ちょうど快適な雰囲気を作り出す。同じ理由から、彼らはいつも快活で人をひきつけ親切であり、調和のとれた社交性を生み出す」(マイヤー p37)

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「外向的感情タイプの特徴は、主として外界の客体を評価したり、それと適切な関係を結んだりすることで適応していく点にある。それゆえ、このタイプはたやすく友達を作り、人への思い込みもほとんどない。友人の肯定的・否定的側面を的確に評価することもできる」(フランツ p78)

「外向的感情型のひとは、自分の気持ちに従ってそのまま生きているが、それは環境の要求するところと非常に一致しているので、スームスに行動してゆくことができる。ともかく、皆が「よい」と思い「すばらしい」と思うことは、このひとにとってもそうなのである」(河合 p52)

「外向感情型の人というのは、感情の持ち方やエネルギーが外に向いている。「みんなと仲良くしよう」「みんなに気に入られよう」と、まわりのみんなに合わせるのである。みんなが「今日はいい天気ね。すがすがしいね」と言うと、「まあ、ほんとにすばらしい、いい天気ね」と言う。そして、みんな気持ちを巧みにリードしていって、「今日はいい天気ですね。だからハイキングに行きましょうよ」というふうに、気持ちよくまわりに働きかけるのである」(林)

【外向感情タイプのキーワード】
主観的感情、その場にふさわしい、皆の感情、快適な雰囲気、調和、適切な関係、環境おん要求、皆が「よい」、みんなに合わせる、気持ちを巧みにリード、気持ちよくまわりに働きかける

❸外向感覚タイプ

「彼の動機はつねに、客体を感じとろう感覚を得よう、そしてできれば享楽を得ようというのである。彼はけっして無愛想な人間ではなく、反対に彼はしばしば人に好感を与える生き生きとした享楽能力を持っており、陽気な仲間であったり、品のよい趣味人であったりする」(ユング p392)

「外向感覚タイプは、いつも明日に対して今日を守ることになる。しかし明日が来れば、再び新しい明日に対抗する。当然のこととして、くり返しつねに与えられた新しい状況に合わせるのである。その際、問題性は自動的に消滅する」(マイヤー p30)

「外向的感覚タイプは、才能や得意とする機能が感覚に向き、外界の客体と具体的・実際的に関わるといった人である。こういった人は、何一つ見逃すことなく、あらゆるものに嗅覚を働かせており、入るなり部屋に何人いるのかを見て取る。何某夫人はそこにいて、どんな服を着ていたか、後々まで覚えていたりする」(フランツ p43)

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「外向的感覚型のひとは、まさにリアリストそのものである。客観的事実を、事実そのままに受け取って、その経験を集積してゆく。これに思考や感情の助けがあまり加わらぬときは、このひとは気楽な、そのとその場の現実の享受者となる」(河合 p54)

「「外向的感覚型」というのは、外からの刺激をそのまま受け取るタイプである。外からの刺激というのは、たとば見たものをそのまま受け取って、記憶にとどめる。また食べ物を口にしたとき、「これはどんな味だな」というのを感じ取るのである」(林)

【外向感覚タイプのキーワード】
客体を感じとろう感覚を得よう享楽を得よう、新しい状況に合わせる、外界の客体と具体的・実際的に関わるリアリスト、事実そのままに受け取って、経験を集積、外からの刺激をそのまま受け取る

❹外向直観タイプ

「直観型の人が向かうのは、皆に認められるうような現実価値を見つけられる方角ではけっしてなく、つねに、可能性が依存する方角である。(中略)彼(※外向直観タイプ)はつねに新しい可能性を追い求めているため、安定した状況の中では息がつまりそうに思えるのである。彼はたしかに新しい対象や方法を手に入れるときは懸命に、時には異常なほど熱狂することもあるが、いったんその広がりが確定してもはやそれ以上の著しい発展が望まれないとなると、たちまち愛着をなくし、見たこともないようなふりをして冷たく見捨ててしまう」(ユング p392 ※外向直観タイプは追記)

「外向的直観人は、萌芽的なものや将来の見込みに対して見事なを働かせる。純粋に静的なものやただの存在は、彼らをほとんど窒息させてしまう」(マイヤー p39)

「直観は、事態の背景に潜んでいる、未だ目には見えない未来の可能性なり将来性なりを直観する能力なのだ。外向的直観タイプは、この能力を外界に応用するため、身近な外界がこの先どう移ろってゆくかを推測する能力に抜きん出ている」(フランツ p56)

『ユングのタイプ論』(著者 フォンフランツ 創元社)
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「外向的直観型のひとは、外的な物に対して、すべてのひとが認めている現実の価値ではなく、可能性を求めて行動する。(中略)この直観が思考や感情による判断によって補助されていないときは、この型のひとは、種はまくが、収穫を得られないひとになる危険性が高い」(河合 p56)

「「外向的直観型」というのは、外的なことがらについて、将来のことや物事の本質が見えてしまう人のことをいう。こういう人は、「これから世の中はどういうふうに動いていくだろうか」「何が値上がりするだろうか」「どんな商品が売れるだろうか」というのがパッと分かってしまう」(林)

【外向直観タイプのキーワード】
新しい可能性、新しい対象や方法、将来の見込み、勘、未来の可能性、未来の可能性、この先どう移ろってゆくかを推測する、可能性を求めて行動する、種はまくが収穫を得られない、将来のことや物事の本質

❺内向思考タイプ

「この思考は主体の中で始まり主体に戻るのである。したがってこの思考は新しい事実を提示するという点では主として間接的な価値かしかもっていない、とういうのはこれ(※内向思考)がまず第一に伝えるのは新しい見解であって、新しい事実に関する情報はほとんど伝えないからである。これは問題提起や理論を生み出し、展望や洞察を開くが、しかし事実に対しては冷淡な態度を示す」(ユング p392 ※内向思考は追記

「内向的思考人は、新しい事実というよりは、新しい見方を生み出す。事実はせいぜいのところ、説明として利用されるにすぎない。(中略)あらゆる場合に彼は本質を主張し、ことばにすることを好まない。」(マイヤー p48)

「内向的思考型の生活は、観念に支配されており、その際この観念は、(中略)「主体要因」から生じている、といってよい。しかし外向的な人とは逆に、この観念は応用されることがなく、他人とかかわったり気に入られようとすることもない。」(マイヤー p49)

「内向的思考型のひとは、新しい「事実」についての知識よりは、新しい「見解」を見出すことを得意とする。(中略)この種の人の思考の深さ、ときにまったく独創的な体系として輝きを発するが、また、ひとによってはまったく伝達不能のひとりよがりに堕してしまうこともある」(河合 p51)

「「内向的思考型」だが、これは心の中に基準を持っていて、理想や理念、あるいは道徳律という形をとっている。自分の中に基準があるから、それに従って自分の行動をいろいろと律したり、学問を導き出したりするのである。その典型例がカントである。カントは、「自分の心の中にある道徳律、これこそがいちばんすばらしいんだ。これは神の与えてくれたものであって、これに従っていればいいんだ」と、とても分かりやすい言葉を残している。」(林)

【内向思考タイプのキーワード】
思考は主体の中で始まり主体に戻る、新しい見解、問題提起や理論、展望や洞察、新しい見方、本質、観念、思考の深さ、独創的な体系、ひとりよがり、心の中に基準、理想や理念

❻内向感情タイプ

「真の動機はほとんどの場合隠されたままとなる。外に対しては協調的な控え目な態度好ましい落ち着いた物腰共感的に相手に合わせる態度・を示し、他人にあれこれ命令や影響を与えたり、他人に働きかけて変えようとするところがまったくない。こうした外見が際立ってくると、無関心で冷たいという軽い疑いをかけられてしまい、さらにこの疑いはひととの幸不幸などどうでもよいと思っているのではというところまで増幅することもある」(ユング p419)

「あらゆる熱狂に対しても好意的中立の態度をとる。彼らは激情を卑しむ「静かな水」である。(中略)彼の感情は拡張的でなく集中的である。人知れず親切で親しみ深く、そのために目立たないままでいる。この型には個人的な献身を伴う善行者が含まれる。」(マイヤー p30)

「彼らには高度に分化した価値尺度があるが、それを表に出すことはない。自分の内部で影響を受けているのである。内向的感情タイプの活躍の場となるのは、表舞台ではないものの「これこそ本物だ」と、彼らの内向的感情が声を上げるような、意義深く重要な出来事が生じているところである。(中略)価値基準を定めることで一般にポジティブな影響を周囲に及ぼす」(フランツ p43)

「内向的感情型の人は「静かな水は深い」という言葉がいちばんぴったりであると、ユングはいう。外から見ると控え目で、不親切、無感動のように見られるひとが、深い同情や、細やかな感情をもっていることがわかり、ひとを驚かすときがある。 (中略)もし自分の感情を表現し、伝えられるグループがあると、そのなかでは暖かい親切なひととして、不変の友情を楽しむことができる」(河合 p53)

「「他人と対立することを恐れて、無感情を装っている」のが特徴で、近寄りがたく、不可解で、冷たいという印象を与えてしまうことも多い。表情をなるべく出さないようにしているから、あまり笑ったり怒ったりしない。まわりの人には「この人、何を考えているんだろう。何を感じて生きているんだろう」と思われることもあるが、深く付き合ってみると、すばらしい感情生活をもっていたり、深く感ずる能力をもっていたり、人の感情をよく理解していたりする。」(林)

【内向思考タイプのキーワード】
 協調的な控え目な態度、共感的に相手に合わせる態度、ポジティブな影響を周囲に及ぼす、「静かな水は深い」、外から見ると控え目で不親切無感動のよう、暖かい親切なひと、他人と対立することを恐れ、深く感ずる能力、人の感情をよく理解

❼内向感覚タイプ

「内向的感覚とは物質界の表面よりはむしろその背景を捉えるものである。これが決定的なものとして感じ取るのは客体の現実ではなく主観的要因の現実、すなわちその全体をもって鏡のように心を映し出してくれる根源的なイメージである」(ユング p392)

「内向的感覚タイプでは、外的対象に代わって主体的な感覚が関与する(主体要因)。こうして主体は、客体において自分自身を経験する。彼にとって、すべての力点がこの主体的反応におかれる。(中略)同じ対象をまったく違う芸術家、たとえば印象派、表現派、シュールレアリストに描かせれば、この事情をいっそう具合的に理解することができる」(マイヤー p43-44)

「内向的感覚タイプは、あたかも高感度の写真感光紙のようなものであるということだった。誰かが部屋に入るとすると、内向的感覚タイプは、入る様子や、髪型や顔の表情、服装や歩く所作に注意が行き届くのだ。こうした諸々は、内向的感覚タイプに正確無比に記銘される。どんな些細なことも取り入れられるのだ。印象は客体から主体に向かう。」(フランツ p52)

「皆が美しい花畑と見るものが、このひとには恐ろしい燃え上がる火に見え、小さい一つの目の中に、広い海の深淵をのぞいたりする。そして、これらのひとは、その見たものを適切に表現することがむずかしいので、そのままにしておいて、一般には他人に従って生きている場合が多い」(河合 p54)

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「内向的感覚型というのは、外から刺激を受けると、それを自分の中で勝手に作り替えるという特徴がある。たとえば背の高いビルがあれば、それを自分の中のイメージに合わせて作り替えて、「巨大な怪人が立っている」というふうに見てしまう。」(林)

【内向感覚タイプのキーワード】
 主観的要因の現実、主体的な感覚が関与、正確無比に記銘、些細なことも取り入れられる自分の中で勝手に作り替える

❼内向直観タイプ

「内向的な構えにおける直観は、無意識の諸要素と呼んでもよいような、内的客体に向けられている。すわなちこの内的客体は、たしかに物質的な現実ではなく心的な現実であるが、意識に対して外的客体とまったく同じような関係をもっているのである。内的客体は直観的知覚に対して事物の主観的イメージの形で現れるが、この主観的イメージは外的経験の中に見出されるものではなく、無意識の・結局は集合的無意識の・内容をなしている」(ユング p430)

「彼らは薄明の高みに住んで、将来の心像を予見している。その際彼らは、現実や伝統を容赦なく無視することができる。しばしば彼らは革命家、改革者、指導者である」(マイヤー p57)

「内向的直観タイプは、外向的直観タイプと同じく、未来を嗅ぎわけたり、まだ見ぬ未来の可能性をずばりと言い当てたり、虫の知らせを感じることができたりする。(中略)内向直観タイプは、集合的無意識でじわじわ進行している過程や、元型的に変化していることに気づきを得て、社会に伝達するとでも言えようか」(フランツ p61)

「自分の内界のなかに可能性を求めて、心像の世界を歩きまわっているひと」(河合 p54)

「内面のイメージがインスピレーションのように」(林)

「この種の人間は、豊かで活気に満ちた世界やそこからあふれ出て人をうっとりさせるような生気が、外界だけでなく内面にも存在するという事実の、生き証人である。(中略)こうした構えをもった人間はそれなりに文化の促進者であり、教育者である。彼らは自らの生き方を通して、口で語る以上のことを教えてくれる」(ユング p436)

【内向感覚タイプのキーワード】
 直観は、無意識の諸要素、心的な現実主観的イメージ将来の心像を予見現実や伝統を無視、未来の可能性虫の知らせ内界のなかに可能性を求めてインスピレーション口で語る以上のことを教えてくれる

最後に…。

 ユングは『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)の中で、8タイプの説明を終えた箇所で、「私は以上の説明によって、これらのタイプが《実際に》このままの純粋な形でしばしば姿を現すかのような印象を与えることがけっしてないようにと願っている」(p735)と書いています。また、説明してきた内容は「極端に際立たせて」(p735)ともいっています。

 つまり、「現実には、タイプの説明が当てはまることもあるかもしれなけれど、必ずしも、そうではない」ということです。それはそうですよね。 「一般的態度」(外向・内向)「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)を、私たちは全部もっていて、それらが複雑にからみいながら、人の性格タイプはつくりあげていくわけですから…。

 人の性格は、とても複雑で豊かなものです。

まっつん
まっつん

 タイプの説明が「正しい、間違っている」「あっている、あっていない」「当てはまる、当てはまらない」といった「診断」すための知識としてではなく、互いを理解し尊重するための「心の羅針盤」として活用していきたいものですね。

 ユングの論は、今から100年近く前のものです。性格タイプに関する研究も進んでいます。いろいろな観点がありますので、ここで述べたことをきっかけに、人間理解の視野を広げていきましょう。

よりよい人間関係のイメージ・イラスト

 それでは最後に『タイプ論』でユングが意図したことの書かれた箇所を紹介して、本稿を終えます。

「この基礎的な著書において著者(ユング)意図しているのは、心の構造や機能のあり方には一定の諸タイプがあることを明らかにし、それによって自分自身のためにも仲間のためにも人間理解を深めることである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p6
※(ユング)は加筆

【参考文献】
『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)
『ユング心理学概説4 個性化の過程』(C.Aマイヤー 創元社)
『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(F.フランツ、J.ヒルマン 創元社)
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
『心のしくみを探る―ユング心理学入門〈2〉 』(林義道 PHP 電子書籍)

 

(文:松山 淳


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タイプ論 外向/内向 感覚/直観 思考/感情について(ユング心理学)https://www.earthship-c.com/jung-psychology/attitudes-mental-types/Mon, 04 Dec 2023 23:55:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15250

 ユングのタイプ論(心理学的類型論)は、2つの「一般的態度」(外向・内向)と4つの「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)から構成される。  ユングは4つの「心理機能」のうちのいずれかが、他に比べて優先的に使われる傾向があ ... ]]>

 ユングタイプ論(心理学的類型論)は、2つの「一般的態度」(外向・内向)と4つの「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)から構成される。

 ユングは4つの「心理機能」のうちのいずれかが、他に比べて優先的に使われる傾向があるとした。最も優先される機能を「優越機能」(主機能)という。ユングは20年にわたる臨床経験と研究からタイプ論を生み出した。

 1921年、スイスで刊行された『心理学的類型(Psychplogical Types)』に詳細が述べられている。日本での訳本は、『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)と『心理学的類型』(訳 高橋義孝/森川俊夫 人文書院)の2つがある。

 タイプ論がどんな経緯で生まれてきたのかは、『タイプ論の目的と経緯』で述べた。本稿では、ユングの考え出した「一般的態度」「心理機能」について「心のメカニズム」という観点を軸に解説していく。

 まず、タイプ論が「心のメカニズム」であることを述べ、次に「一般的態度」(外向↔︎内向)について解説し、「そもそもタイプとは何か」に関して考察を深め、最後に「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)について説明していく。

タイプ論は「心のメカニズム」のこと

 「性格タイプ」と聞くと、ついつい私たちは、「〇〇タイプはこんな人」「◯◯タイプでは、こうする」と、ある性格タイプから表に現れてくる「性格の特徴」に、とらわれがちです。

 ですが、ユングのタイプ論を理解しようとする時、「性格タイプの特徴」ではなく、「どんなパターンで心が働いているのか」という「心のメカニズム」の観点からから考えていくと理解が深まります。「心のメカニズム」という視点をキープして説明を進めていきます。

 ユングも「内向と外向はけっして性格ではなくメカニズムなのであり、そのメカニズムはいわば任意のスイッチを入れたり切ったりできるものである」と『タイプ論』(みすず書房p549)で書いています。

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 もちろん、ユングは『タイプ論』(みすず書房)の中で、「性格の特徴」を説明しています。その具体例もあげています。では「性格の特徴」にとらわれることの何がいけないでしょう。2つ理由があります。

 ひとつ目の理由は、タイプに関する「性格の特徴」を読んで分かったつもりになると、人間への理解が浅いままに終わってしまうからです。人の性格はとても複雑で奥深いものであり、1冊の本で説明しきれるようなものではありません。

 ふたつ目の理由は、性格タイプの知識で人を決めつけ、人の可能性を奪う危険があるからです。「あの人は◯◯タイプだから、できないんだよ」といった「決めつけ」は、人の心を傷つけ、未来の可能性を小さなものにしてしまいます。

 それでは、ひとつ目の理由から、もう少し詳しく説明していきます。

人の性格は言葉では説明しきれないほど複雑

 あるタイプの人がどんな態度をとり、どんな行動を実際にとるのかは、個人よってかなり差があります。

まっつん
まっつん

 例えば、同じ「◯◯タイプ」の人が、10人集まっている場面を想像してみてください。

 まず顔や体格が違うでしょう。声の高さ低さも、どんな風に話すかも、きっと違います。性格的に明るそうな人もいれば、暗そうな人もいるでしょう。「優しそうだな」と思える人もいれば、「この人、きつそうだな」と感じられる人もいるでしょう。よくしゃべる人も、あまりしゃべらない人も…。

 人の性格は複雑です。「〇〇タイプは、〜な特徴をもっている」という記述は、あくまでも「ある傾向」をいっている過ぎません。「必ずそうだ」というわけではないのです。

 ですので、「タイプの特徴」の説明は、あくまでその性格タイプの一側面を表しているだけに過ぎません。そのまま「そのタイプの人は誰もがそうだ」と断定的に受け取ってしまうと、複雑な人間の性格をあまりにも単純化してとらえてしうことになり、人間理解が浅いものになります。

まっつん
まっつん

タイプ論とは、その人の性格に関する「ある傾向」ことですので、「タイプの特徴」に関する説明には、過度にとらわれないようにしましょう。

タイプで人を決めつけない

 「あの人には無理よ、だって〇〇タイプだもん」

 そんな風に、「性格タイプの特徴」に関する知識が増えてくると、ついつい「決めつけ」をしがちです。能力と性格タイプを結びつけた「決めつけ」は、タイプ論の誤った理解のしかたです。「できないかもしれないし、できるかもしれない」。それが人というものです。

「このタイプの人は、確かによくこうするけど、いつでもそうするとは限らない」

 そんな「断定しない姿勢」が、タイプ論を理解する時には求められます。「決めつけない」ということです。「決めつけない」ことがタイプ論への理解を深めますし、人の可能性を尊重することになります。

 ユングも『タイプ論』(みすず書房)の「序論」で、性格の複雑さと難しさについて述べています。

ユング画像
心理学者C.Gユング
(Carl Gustav Jung)
ユングの言葉

「ある人がどのタイプに入っているのかを明らかにすることはしばしばきわめてむずかしく、それが自分自身のことになるととくにむずかしいのである」

「人間の心理反応はきわめて複雑であるから、私の説明能力をもってしては、それを見事に描ききることなどとうてい及びつかないことであろう。やむえず私は、観察されたたくさんの事例から抽出したいくつかの原理を説明するにとどめざるをえない」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p10-11

 タイプ論を作り上げたユングでも、「人の性格は複雑で、タイプを明らかにすることは難しい」といっています。この観点は、人間の性格タイプを理解していく時に、決して忘れたくないものですね。

ユングも性格特徴の記述に関して謙虚だった

 さて、上のユングの文章に「原理」とあります。「原理」「 事物・事象が依拠する根本法則。基本法則」(デジタル大辞泉小学館)のことです。

まっつん
まっつん

 ユングは「人の性格はあまりに複雑なので、その基本法則の説明にとどめて」いました。世界三大心理学者のひとりユングでも、「性格の特徴」に関する説明に、謙虚な姿勢を見せていたのです。

 それほど人の性格とは奥深く、なかなかわからないものです。このユングの謙虚さを知っておくことで、「性格タイプの特徴」に過度にとらわれず、「あの人には無理よ、だって〇〇タイプだもん」といった、性格タイプの知識で簡単に人を「決めつける過ち」から遠ざかることができます。

 さて、話を最初に戻しましょう。いいたかったことは、「性格タイプの特徴」ばかりに目を奪われることなく、「どんなパターンで心が働いているのか」という「心のメカニズム」の視点を忘れないでおくことでした。

 それでは、ユングの考えた「心のメカニズム」である、2つの「一般的態度」と4つの「心理機能」へと話を進めていきましょう。

ユングのタイプ論〈全体像〉

 まずユングのタイプ論でいわれる「一般的態度」「心の機能」と、その組み合わせから考え出された「8つのタイプ」について、全体像を把握しておきます。下の表がそれです。

一般的態度
外向内向
心理
機能
非合理
機能
知覚
機能
感覚外向
感覚
内向
感覚
直観外向
直観
内向
直観
合理
機能
判断
機能
思考外向
思考
内向
思考
感情外向
感情
内向
感情

 「一般的態度」として「外向↔︎内向」の2つがあります。
 「心理機能」として「感覚↔直観」「思考↔感情」の4つがあります。

 「感覚↔直観」知覚機能であり非合理機能となります。
 「思考↔感情」は、判断機能であり合理機能となります。

一般的態度〉内向↔外向
〈心理機能〉
 :感覚↔直観(知覚機能/非合理機能)
 :思考↔感情(判断機能/合理機能)

 それでは、まず「一般的態度」である「内向・外向」から説明してきます。

〈一般的態度〉外向↔︎内向について

一般的態度とは何か?

 「外向・内向」の考え方は、「一般的態度」という言葉でくくられています。この「一般的態度」について、ユングは次のように書いています。『心理学的類型Ⅱ』(人文書院)の翻訳がわかりやすいので、そちらから引用します。

『心理学的類型Ⅱ』(人文書院)
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ユングの論

「私は関心の方向、すなわちリビドー運動の方向によって区別される前者を一般的態度類型と呼び、後者をそれに対して機能類型と呼びたい。」

『心理学的類型Ⅱ』(人文書院)p72

 上の文にある通り、ユングのいう「一般的態度」とは、「関心の方向」であり「リビドー運動の方向」を意味します。「リビドー」とは、「心のエネルギー」のことです。

 「機能類型」とは、4つの心理機能(感覚↔直観、思考↔感情)のことです。

 つまり「一般的態度」とは「関心の方向」「心のエネルギーの方向」についての考え方となります。

「外向・内向」とは

 例えば、あなたが仕事(勉強)をしていて、机の上にあるスマホに、ふと「関心が向いた」とします。あなたのリビドー(心のエネルギー)は、スマホに向けられたのです。スマホは、自分の「外の世界」にありますので、その時あなたは「外向」したことになります。

 スマホを手にしたあなたは、アルバムのアプリを開き、写真をながめ始めました。ある1枚の写真を目にした瞬間に、昔のことが鮮明に思い出されてきました。目を閉じ、思い出にひたります。あなたは思い出の世界で、昔の仲間と語りあい楽しく笑っています。次から次に、昔の様々な場面が思い出されてきました。

まっつん
まっつん

 あなたの「関心」は、「思い出」という自分の「内の世界」に向いています。次から次に思い出が展開されるのは、「心のエネルギー」が「思い出の世界」に向けて流れ続けるからです。この時「関心」「内の世界」に向いているので、これが「内向」です。

 ユングは『タイプ論』(みすず書房)のなかで、タイプ論に関連する概念を「定義」する章を設けて、多くのページを割いています。その「定義」の章にある「外向↔︎内向」の説明を引用します。

ユングの論

【外向】
外向とはリビドーが外へ向かうことを意味する。私はこの概念によって主体が公然と客体に関係していること・すなわち主体の関心が積極的に客体に向けられている状態・を表す」(p461)

【内向】
内向とはリビドーが内へ向かうことである。これは主体が客体に対して消極的な関係を持っていること表わしている。関心が客体に向かわずに、客体から主体に引き戻されるのである」(p475)

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)

 「主体」「客体」というと、なんだかわかりにくくなりますね。「主体」とは、私(自分)のことです。「客体」とは、自分の「外の世界」にあるヒト・モノ・コト(他人・物・出来事など)と考えてみてください。

 先ほどの例でいえば、スマホが「客体」です。ふとスマホ(客体)に関心が向いたのですから、リビドー(心のエネルギー )が「外へ向かう」ことになったので、これが「外向」です。

内向と外向のイメージ写真

 そして、スマホの「写真」(客体)を見て、「思い出」という「内の世界」にひたり始めました。「客体」(写真)から「主体」(私/自分)に引き戻されて、リビドー(心のエネルギー)が「内へ向かう」ことになったので、これが「内向」です。

「外向・内向」のイメージ図

 ユングと30年以上、共に研究を重ねた女性にマリー=ルイズ・フォン・フランツ(Marie-Louise von Franz 1915-1998)がいます。フランツはユングのタイプ論に関する論を発表していて、日本では『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(創元社)で読むことができます。

『ユングのタイプ論』(著者 フォンフランツ 創元社)
『ユングのタイプ論』(創元社)
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 この著でフランツは図を使い、「外向↔︎内向」の態度の違いを次のように表現しています。

外向内向のイメージ図
『ユングのタイプ論』(創元社)p11掲載図1を参考に作成
(主体)(客体)は追記

 上の図の矢印が、ユングのいう「関心」「リビドー」(心のエネルギー)の方向です。外向タイプは、主体よりも外の世界に存在する「客体」に関心が向く傾向があります。反対に、内向タイプは、客体より主体(自我=私)に関心が向く傾向があります。

 「内向↔︎外向」とは、「関心」「リビドー」(心のエネルギー)の方向性の違いであることを、ここでおさえておきましょう。

そもそも「タイプ」とは何か?

 さて、「内向タイプ」「外向タイプ」という「タイプの違い」が出てきました。ここで「4機能」(感覚・直観・思考・感情」の説明に入る前に、ちょっと寄り道をして、「そもそもタイプとは何なのか?」について考えていきます。

 まず、「内向↔︎外向」に関して、前段であげたユングの言葉に文章を追加して紹介します。

ユングの論

「内向と外向はけっして性格ではなくメカニズムなのであり、そのメカニズムはいわば任意のスイッチを入れたり切ったりできるものである。このメカニズムが習慣的に支配することによってのみ、それに対応した性格が発達する。たしかに偏りはある種の先天的素質に基づいているが、その素質はいつも絶対に決定的なものとは限らないのである。」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房p308

 ユングのタイプ論を理解しようとする時、「素質はいつも絶対に決定的なものとは限らない」のですから、なおさら「心のメカニズム」という視点が大切になりますね。

タイプとは「心の習慣」のこと

 さて、上の文章で大切なのは、「メカニズムが習慣的に支配することによってのみ、それに対応した性格が発達する」です。ここでいう「習慣的に支配され発達している性格」が、ユングのいう「心理学的タイプ(類型)」を意味します。

 「習慣」とは、「長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと」(デジタル大辞泉 小学館)ですね。

 ですので、ユングのいう「心理学的タイプ(類型)」とは、「内向↔︎外向 / 感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情」の対となる「心のメカニズム」のうち、どちらかを優先して繰り返し使っていて「そうするのがきまりのようになっている心のパターン」のことです。

 そこで、「外向タイプ」「内向タイプ」の説明を次のようにできます。

 「内向」よりも「外向」を「きまりのように」(習慣的に)使っている人は、「外向タイプ」
 「外向」よりも「内向」を「きまりのように」(習慣的に)使っている人は、「内向タイプ」

 「心理学的タイプ(類型)」とは、その人の慣れている「心のパターン」のことであり、「心の習慣」といういい方もできますね。

人は外向もすれば内向もする

 ここで忘れてならないのは、「内向↔︎外向」という対になっている「心の態度」を、人は両方とも使っているという点です。

まっつん
まっつん

 浅い理解になってしまうと、外向タイプの人は「いつでも外向」していて、内向タイプの人は「いつでも内向」していると、誤ってとらえてしまうことがあります。

 そんなことはありませんね。外向タイプの人も「内向」することはありますし、反対に、内向タイプの人も「外向」することはあります。ユングは、「対となる心のメカニズムを人は両方とも使う」ことついて、こう述べています。

ユングの論

「自然のなりゆきとして、一方のメカニズムが優位に立つことになる。そして何らかの事情でこの状態が慢性化すると、そこからタイプが、すなわち習慣となった構え(態度)が生まれるのである。そうなると一方のメカニズムが持続的に支配することになるが、そうかといって他方のメカニズム完全に押さえつけることはできない。(中略)あるタイプの構え(態度)とはつねに一方のメカニズムの相対的な優位を意味しているにすぎない

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p13
※上の文で構え(態度)としています。『タイプ論』(みすず書房)では「一般的態度」の「態度」の部分の訳が「構え」となっています。本稿では「態度」の訳を選んでいるので、(態度)を追記しています。

 「外向」が他方のメカニズムである「内向」を押さえつけて、100%外向するだけのタイプ(人)になることはありません。「内向」が「外向」のメカニズムを完全に押さえつけることもありえません。

あるタイプの構え(態度)とはつねに一方のメカニズムの相対的な優位を意味しているにすぎない」。

 上の文は、この後の「心理機能」(感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情)の説明にも当てはまってきます。「相対的に優位」とは、2つを比較した時に、どちらかが優位になっているということです。

 「内向↔︎外向 / 感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情」の対になっている「態度/機能」のどちらかを、人はより優位に使っています。優位になることが「心の習慣」になっていて、それが、その人の「性格」をつくりあげていきます。

 そこで、自分のタイプはどれなんだろうと考えていく時には、「対」となっている「態度/機能」の「いつも、どちらを優位に使っているかな?」「日常生活の中で、どちらを習慣のように優先的に使っているだろう?」と、自問自答してみるとよいでしょう。

 ユングの共同研究者であるフランツ博士は、さらにわかりやすく、こうアドバイスしてくれています。

『ユングのタイプ論』(著者 フォンフランツ 創元社)
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 自分のタイプが何かを知りたければ、何が最も重大であるかと考えるよりもむしろ、「私がいつも当たり前のようにしているのはどのようなことだろうか」と自分に問うてみることである。

『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(フォン・フランツ、J・ヒルマン 創元社)p34

 「当たり前のようにしている」とは、その「心のメカニズム」(態度/機能)が、相対的に優位に働き、習慣的になっていることです。

 外向と内向で、どっちが今の自分にとって「重大か?」「必要か?」と考えるのではなくて、日頃から「当たり前のようにしている」のが「内向なのか?」「外向なのか?」と考えてみるのです。

 フランツの言葉をかりれば、「当たり前のようにしている」ことの中に、その人の「タイプが現れている」といえます。つまり、そもそもユングのいう「心理学的タイプ」とは、あなたが「当たり前のようにしている心のメカニズム」ともいえますね。

 それでは、「そもそもタイプとは何か?」の寄り道を終えまして、本線に戻り、次から、ユングの考えた「心理機能」(感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情)について述べていきます。

〈心理機能〉 感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情について

4つの心理機能

 4つの心理機能(感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情)の説明を始めるにあたって、まず、ユングが、4つの心理機能をコンパクトに述べている文が『タイプ論』(みすず書房)にあるので、ご紹介します。わかりやすくするため、部分的に箇条書きのかたちをとります。

ユングの論

基本機能として、感覚・思考・感情・直観を挙げることができる。私は

感覚という概念の中に感覚器官にするすべての知覚を含めたい。また、
思考は知的認識と論理的推論の機能、
感情は主観的な価値判断の機能、
直観は無意識的過程の知覚ないし無意識内容の知覚を指すもの

と理解する。

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p551

 以上が「心理機能」についてのユングの説明です。

〈心理機能〉
 :感覚↔︎直観(知覚機能/非合理機能)
 :思考↔︎感情(判断機能/合理機能)

 さて、ユングは上にある通り、感覚↔︎直観「知覚機能」かつ「非合理機能」としました。思考↔︎感情「判断機能」でかつ「合理機能」としました。ところで、この「知覚」「判断」「合理」「非合理」とは何を意味しているのでしょう。

「知覚機能ー非合理機能」「判断機能ー合理機能」とは

 「知覚機能」とは、「知覚する心の機能」ですから、「情報を取り入れる心の働き」です。人は五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)を使ったり、ある可能性がふとひらめいたり・イメージが浮かんだりして、情報を取り入れることができます。

 五感による情報を取り入れは「感覚機能」の主な働きです。ある可能性に関しての「ひらめき・イメージ」による情報の取り入れは「直観機能」の役割です。

 この知覚機能をユングは「非合理機能」としました。では、ユングは何をもってして「非合理」と「合理」とを分けているのでしょかうか。

 その答えは「理性」です。合理的か非合理的かの判断基準を、ユングは「理性」を軸にしています。

 『心理学的類型Ⅱ』(人文書院)にて、ユングはこう述べています。

ユングの論

合理的なものとは理性的なものであり、理性にかなっているものである」(p220)
理性の法則とは、平均的で「正しい」態度、適応した態度を特徴づけるとともにこれを規制する法則である。これらの法則と合致するすべては合理的であり、これらの法則と一致しないすべては非合理的である」(p221)

『心理学的類型Ⅱ』(人文書院)

合理的か非合理的かは理性が基準

 判断機能とは、まさに漢字の通りで、知覚機能を使って取り入れた情報をもとにして「判断する心の働き」です。この判断は、その人の「理性の法則」に基づいて行われて、その人にとっての「平均的で正しい、ふさわしい態度」をもたらします。

 感情機能は、自分の価値に基づく主観的な判断であり、思考機能は、論理的で客観的な判断です。「思考↔︎感情」機能を使って何かを判断する際に、人は「熟慮」することがあるので、ユングは「思考↔︎感情」を「合理機能」だとします。

まっつん
まっつん

「熟慮」とは、よく考えをめぐらせることですね。「よく考えること」は理性的な行いです。理性的とは合理的なのことです。ゆえにユングは「思考↔︎感情」機能を「合理機能」とするのです。

 これに対して、情報を取り入れる「感覚↔︎直観」機能に「理性」は求められません。

 目で何かを見たり(感覚)、何かがパッと突然ひらめたり(直観)するのに、「よく考える」必要はありません。「五感」「ひらめき」による情報の取り入れは、「理性の法則」という枠組みの外側で行われる心の働き(機能)です。そこでユングは、「感覚↔︎直観」を「非合理機能」としたわけです。

心理機能は、「理性」を基準にして、合理機能と非合理機能にわけられます。

ユングの心理機能の説明

 さて、最初にあげた心理機能に関する説明は、やや言葉がかたくて、わかりにくさがあります。もう少し、やさしく説明しているのが、次の2つの文です。

ユングの論

感覚は現実に存在するものを確認する。
思考は存在するものが意味することを認識できるようにしてくれるし、
感情はそれがいかなる価値をもっているかを、そして最後に
直観は今そこに存在するものに潜んでいる、どこから来て今後どなるのかという可能性を示してくれる(p576)


感覚活動は基本的に何かが存在することを、
思考はそれが何を意味するか、
感情はそれにいかなる価値があるかを確認し、そして、
直観はそれがどこから来てどこへ行くのかを予想し予感する。(p588)

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)

 いかがでしょう。4つの心理機能について3つのユングの文章を紹介しました。

 次に、4つの心理機能をひとつひとつ整理していきます。具体例があるとわかりやすいので、具体例をあげて説明していきます。

感覚↔︎直観 / 思考↔︎感情の具体例

ユングは弟子たちに4つの心理機能をこう説明した

 ユングの側近と呼ばれ、ユングがとても信頼していた存在にC.Aマイヤー(Carl Alfred Meier 1905 – 1995)がいます。マイヤーの著『ユング心理学概説-3 意識』(創元社)に、心理機能の具体例をみつけました。

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 マイヤーいわく、4つの心理機能について「ユングはこれを、時折とても楽しんで、次のように説明していた」(p139)そうです。

現前の対象について、
感覚は、たとえば次ようなデータを伝える。それは赤い、輝いている、キラキラ光る、匂う、決まった形がある。
思考は、この対象を、赤ワインを満たしたグラスだ、と認識させる
感情は、この組み合わせを喜ばしいものとし、あるいは禁酒家の場合は嫌まわしい「毒」とする。
直観は、それに、それが1967年物のポンマールで主人役の友人XYのクリスマスプレゼントかもしれぬ、と思わせる。

『ユング心理学概説3 意識』(創元社)p139

赤いワインのイメージ写真

 ここから4つの心理機能にについて、ユングとマイヤーの言葉を参考にしながら、まとめていきます。

 読み進むにあたって、ここから書いてあることは、「ユングが説明したことの『全て』ではなく、あくまで『一部』を取り上げているに過ぎない」という点を、ぜひ、心にとめておいてください。

 それでは、マイヤーの具体例にそって感覚→思考→感情→直観の順番で説明していきます。

感覚機能(それがどんなぐあいか)

 ユングは感覚機能について「感覚とは何よりもまず五感による感覚、すなわち感覚器官や「身体感覚」(運動感覚や脈拍感覚など)による知覚である」(『タイプ論』創元社 p458)と書いています。

 グラスに赤ワインが注がれていて「赤い、輝いている、キラキラ光る」は目で見た視覚情報であり、赤ワインのかぐわしい「匂い」がしたら嗅覚情報です。この赤ワインを実際に飲んでみて、どんな味かを感じるのは味覚ですね。

まっつん
まっつん

 どっしりとした重めのワインか、さらっとしたライトな味わないなのか、舌でワインを味わい、その時、「どんな味か?」に関する情報をえたら、これが五感による感覚機能の働きです。

 感覚機能とは、五感や身体感覚を使って情報を取り入れる心の働き(機能)です。

 さて、つづいて思考機能です。

思考機能(それが何であるか)

 ユングは思考を「知的認識と論理的推論の機能」(p551)とし「存在するものが意味することを認識できるようにしてくれる」(p576)と書いていました。

「意味」は、「沈黙は賛成を意味する」のように、「表現・行為が、ある内容を示すこと」(デジタル大辞泉 小学館)となり、「内容」を表す言葉にもなります。つまり、「それがどんな内容なのか」「それがそもそも何であるか」の問いに、知的・論理的な推論を通して筋道の通った判断をもたらすのが思考機能です。

 赤ワインの満たされたグラスを見て、その人のもっている知識を基準にして、確かに「赤ワインを満たしたグラスだ」と認識をしたら、「それがそもそも何であるか」を分析し、論理的に正しい結論を出したことになります。

 

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『心のしくみを探る』(PHP)
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 『タイプ論』(みすず書房)を翻訳した、林義道は『心のしくみを探るユング心理学入門II』(PHP)の中で、思考機能をシンプルに、こう定義しています。

「このことは論理的に見て正しいか正しくないか」という判断をする機能である。合理的に見て首尾一貫しているかどうかということを判断する」

『心のしくみを探るユング心理学入門II』(PHP)

 この説明はわかりすいですね。では、つづいて感情機能です。

感情機能(それは私にとってどうであるか)

 ユングは感情機能を「その内容に対して受け容れるか拒むか(「快」か「不快」か)という意味で、一定の価値を付与する活動である。」(『タイプ論』創元社 p462)と書いています。

まっつん
まっつん

 「感情機能」は、その人に価値を与える心の活動(働き)であり、「それにいかなる価値があるか」「それは私にとってどうであるか」を判断する心の働きです。

 よく誤解されているのが、「感情的に判断することが、ユングのタイプ論でいう感情機能だ」という見方です。これは違います。

 感情機能とは、喜怒哀楽などの「情緒」を使って感情的になって判断する「心の働き」ではありません。

 ですので「感情タイプは、すぐ感情的になる人」でもありませんので、注意していきましょう。

 受け入れるのか、受け入れないのか。「快」か「不快」か。人の価値観・思いに基づいて判断する「心のメカニズム」を、ユングは「感情機能」としたのです。

 「酒は百薬の長である」「酒は人生を華やかにする」と、お酒を肯定的に「受け入れる」価値観を持っている人であれば、ワインは「喜ばしいもの」として「受け入れる」判断になるでしょう。

 しかし、「酒は人生を狂わす」「酒は百害あって一利なし」と、お酒を頭から否定し、まったく「受け入れない」価値観の禁酒家であれば、グラスに注がれた赤ワインは「嫌まわしい毒」と判断されてしまうでしょう。

 価値観に基づく判断は、本人にとって「理性」の枠組みで行われるので、ユングは感情機能を合理機能としたのです。

『ユングのタイプ論』(著者 フォンフランツ 創元社)
『ユングのタイプ論』(創元社)
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 ユング研究所で主任を務めたこともあるユング派J・ヒルマン(James Hillman 1926-2011)は、『ユングのタイプ論』(創元社)の中で、感情機能について、次のように書いています。

 原始的な水準の感情機能は、主にイエスとノー、好きか嫌いか、受容か拒否かの反応をする。(中略)こうした価値体系とそれによる判断は、論理的ではないが、合理的ではある。

『ユングのタイプ論―フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』(フォン・フランツ、J・ヒルマン 創元社)p155

 感情機能が合理機能と呼ばれることに、どうしても違和感がある場合、ヒルマンの「論理的ではないが、合理的ではある」の言葉で、腹落ちするかもしれません。

 思考機能は、論理的な「心のメカニズム」です。感情機能は、価値・思いに基づく「判断」の「心のメカニズム」です。喜怒哀楽に任せて感情的に判断する機能ではないので、その点を誤解しないようにしましょう。

 それでは最後に、直観機能です。

直観機能(それはどうありうるか)

 ユングは「直観は主として無意識的な過程である」(『タイプ論』p394)とし「直観はより大きな可能性を捉えようとする、なぜなら予感が最もうまく働くのは、まさに可能性の直覚によるからである」(p395)と書いています。

 直感機能は、知覚機能です。情報を取り入れる心の働きです。

まっつん
まっつん

「それはどうありうるか」「それはどうなりうるのか」。さまざまな可能性を洞察して、情報を取りれてくるのが、直感機能の働きのひとつです。

 ここでポイントとなるのが、「直観」という漢字です。「直感」(inspiration)ではなく「直観」(intuition)です。

 「直感」(inspiration)は、いわゆる「ひらめき」「勘」と呼ばれるもので、感覚的に瞬時に結論に至ることです。
 「直観」(intuition)は、考える過程をはぶいて、ものごとの本質を見抜いたり、見通したりすることです。「洞察」が類似語です。

 つまり、ユングの定義する「直観機能」は、「単なる直感(inspiration)だけではない」と…、それがここで言いたいことです。

直観機能のイメージ・イラスト

 ただ、「直観」が働き、何かを見抜いたり見通したりして「わかったー!」と答えが出る時の感じ、あるいは、「きっとこうなるに違いない」と、未来の可能性を「予感」する時の感じは、私たちが一般的にいう「ひらめき」「勘」と重なるものがあります。

 ですので、ユングの「直観機能」は、「直感」を含めての「心のメカニズム」だと理解するとわかりやすいでしょう。

 マイヤーズの「直観」の例では、「それが1967年物のポンマールで主人役の友人XYのクリスマスプレゼントかもしれぬ、と思わせる」と、ありました。

 本に「ポンマール」と確かに書かれてあるのですが、これは「ポマール」のことでしょう。「ポマール」は、フランスにあるワインの産地として有名な地域です。

赤ワインのイメージ写真

 赤ワインの注がれたグラスを見て、これは「1967年物のポマール」「友人XYのクリスマスプレゼントかもしれぬ」と「思わせる」のが直観機能の働きです。

まっつん
まっつん

 でもよく考えたら、実際には「ポマール産のワイン」でも「クリスマスプレゼント」ではないかもしれません。他の人は、「1970年物のボルドーで、誕生日プレゼント」と、思いつくかもするかもしれません。

 直感機能は、このワインは「どうありうるか」という「可能性」を知覚していきます。ユングは、「直観はつねに外的生活からの出口と新しい可能性を追い求めている」(『タイプ論』p396)と書いています。 

 さまざまな可能性をとらえていこうとするのがユングのいう「直観」という「心のメカニズム」です。

 また、直観機能の働きについて、ユングはこうもいいます。

「直観は主として無意識的な過程であるため、その本質を意識的に理解することはきわめてむずかしい」(『タイプ論』p394)

 「そうか!これは、そういうことだったのか!」

 そんな風に、何かを見抜いた時、何かがわかった時…、「どうしてそう思うの?」と質問されて、「だって、そう思うから、そう思うんだよ」と、言葉を返したことがないでしょうか。「そう思うから、そう思うんだよ」としか答えようがない…。これが非合理的ということです。

 知覚機能は非合理機能でしたね。非合理的な直観による知覚プロセスを、意識的に理解することは、とてもむずかしいのです。直観の働きは、「なぜそうひらめくのか」について説明しようがありません。説明しようとすると、無理に後から言葉を付け加えている感じがします。

 「なぜか、わからないんだけど、わかった!」

 空から降ってくるかのように、内なる世界から湧き出てくるかのように、非合理的に情報の取り入れられてくるのが、「直観機能」というものです。

心理機能の河合隼雄の例

ユングの論

基本機能として、感覚・思考・感情・直観を挙げることができる。私は

感覚という概念の中に感覚器官にするすべての知覚を含めたい。また、
思考は知的認識と論理的推論の機能、
感情は主観的な価値判断の機能、
直観は無意識的過程の知覚ないし無意識内容の知覚を指すもの

と理解する。

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p551

 さて、4つの心理機能について説明してきました。説明に入る前に書いた通り、以上は、ユングの説明の「一部」であることを忘れないでくださいね。

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 では、最後に、ユング派河合隼雄の4つの心理機能の例がありますので、そちらを紹介して本稿を終えます。

ひとつの灰皿を見ても、
これが瀬戸物という部類に属すること、そして、その属性のわれやすさなどについて考える思考機能
その灰皿が感じがいいとか悪いとかを決める感情機能
その灰皿の形や色などを適確に把握する感覚機能
あるいは灰皿を見たとたん、幾何の縁に関する問題の解答を思いつくような、そのものの属性を超えた可能性をもたらす直観機能

これらはおのおの独立の機能であって、ある個人が、これらのうちのどれかに頼ることが多い場合、それぞれ、思考型とか感情型とかであると考える。

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)p47-48

最後に…。

 本稿では、2つの「一般的態度」(外向・内向)と4つの「心理機能」(感覚・直観・思考・感情)について説明してきました。「◯◯タイプの人の特徴」に関することは控えて、「心のメカニズム」に焦点をあわせて書いてきました。これら「心のメカニズム」から生まれる「8つのタイプ」については、次のコラムで述べています。

 ユング心理学の基本的な知識なしに、原書『タイプ論』(みすず書房)をいきなり読むと、挫折する可能性が高いです。専門家でなければ、『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)にある知識で十分だと思います。

 河合先生は、とてもわかりやすい文章を書く人として有名です。日本人の読者を前提に書いていますので、原書に比べたら、圧倒的にわかりやすいです。

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 ユングが書いた『心理学的類型(Psychplogical Types)』は抽象度が高く、具体例が少なく理解するのに、とても骨が折れます。また、ユングは医師(精神科医)として「病」と関連させながら論を進めていくので、「性格タイプ」の話題ではありますが、やはり専門家向けです。

まっつん
まっつん

 最後に…、「あの人は◯◯タイプだから、無理だよ」といった、タイプの知識を使っての「決めつけ」は、くれぐれもしないようにしましょう。人の可能性はとても豊かなものなのですから…。

 

(文:松山 淳


【ユングのタイプ論 関連記事】


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タイプ論の目的と経緯(ユング心理学)https://www.earthship-c.com/jung-psychology/psychological-types-purpose-background/Tue, 28 Nov 2023 23:38:00 +0000https://www.earthship-c.com/?p=15132

 ユングは20年にわたる臨床経験と研究からタイプ論を生み出した。1921年、スイスで刊行された『心理学的類型(Psychplogical Type)』に詳細が述べられている。  ユングがタイプ論を生み出した目的は、「自己 ... ]]>

 ユングは20年にわたる臨床経験と研究からタイプ論を生み出した。1921年、スイスで刊行された『心理学的類型(Psychplogical Type)』に詳細が述べられている。

 ユングがタイプ論を生み出した目的は、「自己理解・他者理解・人間理解」を深め「よりよい人間関係」を育んでいくためである。また、そのための「心の羅針盤」(Compass)となる知識を、一般の人に提供することである。人をタイプに分類することが、タイプ論の目的ではない。

 『心理学的類型(Psychological Type)』は、日本において2つの訳本がある。『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)と『心理学的類型』(訳 高橋義孝/森川俊夫 人文書院)である。

 現在、ユングのタイプ論をもとにしたアセスメントツールが開発され、それに多くの人がふれている。ただ、ユングが、どういった経緯で、どんな目的で、タイプ論を生み出したのかは、あまり知られていない。そこで、タイプ論の「目的」とその「経緯」について、本稿では解説していく。

ユングのタイプ論は性格タイプを分類するために生まれたのではない

 『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)に、ユングの「まえがき」があります。ユングは「専門医師たちの経験を狭い専門分野から広い世界を持ち出して、教養ある素人が専門分野の経験を利用できるようにしたい」(p5)と書いています。

『タイプ論』(みすず書房)
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 ユングの願いは、一般の人々でもタイプ論の知識を活用できるようになることでした。「編者序言」のページでは、「タイプ論」の意図が明確に述べられています。

「この基礎的な著書において著者(ユング)意図しているのは、心の構造や機能のあり方には一定の諸タイプがあることを明らかにし、それによって自分自身のためにも仲間のためにも人間理解を深めることである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p6
※(ユング)は加筆

タイプ論の知識は「心の羅針盤」

「自分自身のためにも仲間のためにも人間理解を深めること

まっつん
まっつん

これが、ユングの意図といっていますね。「意図」とは、「おもわく、めざすこと」です。ですので、タイプの知識を通して、自分を理解し、他者のことも理解し、人間理解を深めることが「ユングのめざしたこと」です。

 ところが、どうでしょう。タイプ論と聞くと、「じゃあ私は◯◯タイプ」「あの人は◯◯タイプじゃない?」と、タイプを「決める」ことに意識が向きがちです。

Aさん
Aさん

「私は◯◯タイプで、あなたは〇〇タイプね、あの人は〇〇タイプじゃない?」

 この考え方だと、タイプの「決定」が目的になっています。ユングが意図したことは、そうではありません。タイプを「決める」ことは「目的」ではなく、人間理解を深める「手段」に過ぎないのです。

 タイプ論のゴールとは、「自己理解・他者理解・人間理解」を深め「よりよい人間関係」を育んでいくことです。そのゴールにたどりつくための「心の羅針盤」(Compass)となるものが、タイプ論の知識です。

 ユングは、論文『心理学的タイプ論』(『南ドイツ月報』1936年2月号に初出)で、タイプ論の目的を、こう書いています。

ユング画像
心理学者C.Gユング
(Carl Gustav Jung)
ユングの論

「心理的タイプ論は、人間をいくつかの範疇に分けるという、それ自体としてたいして意味のないことを目的とするものではなく、むしろ心的経験素材を方法論をもって研究し整理できるようにしてくれる批判的な心理学を意味する」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p590
※(ユング)は加筆

 ユングは、「タイプに人を分類することは、たいして意味のないことだよ」と言っています。

 タイプ論の目的は「タイプ分類ではない」

 ユングは「彼らが求めている真理は、彼らの視野を狭くするものではなく広くするような真理、暗くするのではなく明るくするような真理です」(『黄金の華の秘密』人文書院)と書いています。人のタイプを「ただ分類」したり「ただ決める」ことは、人の視野を狭め、暗くする考え方です。

 この視点はとても大切なことで、日本の心理臨床家たちも強調しています。

タイプを決めることがタイプ論のゴールではない

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)の表紙画像
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)
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 ユング派の河合隼雄は、『ユング心理学入門』(培風館)の中で、こう書いています。

タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱を設定するものではないことを強調したい」

『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)p38

 また、「中公クラシックス」シリーズとして出版された『ユング 心理学的類型』(訳吉村博次 中央公論新社)では、心理療法家の河合俊雄が「解説」で、こう述べています。

『ユング 心理学的類型』(中央公論新社)
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「ユングの『心理学的類型』は決して人間を様々なタイプに分類することを目指したものではなくて、こころの中の様々な対立するものを示し、意識的に生きてこなかった側面が統合されていく可能性を描いたものなのである」

『ユング 心理学的類型』(訳吉村博次 中央公論新社)

 よく考えてみれば、いくつかのタイプで人を分類するなんて、そもそも無理がありますね。

 ちなみに、『ユング 心理学的類型』(訳吉村博次 中央公論新社)は、ユングの 『心理学的類型(Psychological Type)』の全訳ではなく、部分的に翻訳されたものとなります。 『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)が600ページを越えるのに対して、『ユング 心理学的類型』(訳吉村博次 中央公論新社)は、200ページほどです。

タイプを「できない理由」にしない

 さて、タイプ論の目的は、タイプの決定ではないことを、確認しました。とはいっても、人は「このタイプだから、こうなんだよね」と、自分や他人を「決めつける」ことが、よくあります。この「決めつけ」の生まれてくることが、タイプ論のデメリットであり、ユングがあやぶんでいたことです。

 性格タイプとは、あくまでも「性格の型」であり、ある「傾向」や「可能性」を示しているに過ぎません。ですから、「〇〇タイプの人は、必ずこう行動する」とか「私は〇〇タイプだから、絶対、これができないんだよね」といった、性格タイプで人を100%断定するようなとらえ方は、「ユングが望んだことではない」と、いい切れるのです。

 「〇〇タイプだから、これができない、ぜったい無理!」

 そんな風に、タイプの知識で、「できない理由」を作り上げてしまうのは、人の可能性を奪う考え方です。「タイプ」と「できない理由」を組み合わせると、論理的に正しく聞こえてきます。

 「私は〜ができません。なぜならば、〇〇タイプだからです」。

 こうした人に「正しさ」を感じさるロジックは、心に「癖」をつくり出します。この「心の癖」は、つまり「逃げ癖」ですね。少し辛かったり、苦しかったりすると、「無理だよ、だって〇〇タイプだもん」などと、タイプを理由にして言い訳が始まります。

 これは、人の可能性を閉ざしてしまう、とても寂しくて悲しいタイプ論の活用法です。

まっつん
まっつん

「できないかもしれない。でも、できるかもしれない」。それが人であり、人生です。本来、人の性格は、タイプで、その全てを説明できるほど、単純ではありませんし、浅いものではありません。人の性格はとても複雑ですし、人の可能性はもっと深く、豊かなものです。

 1921年『心理学的類型(Psychological Type)』を発表した後、ユングはタイプ論について、それ以上、論を深めようとしませんでした。集合的無意識や錬金術など、その他の分野に興味がうつっていったからだと、よく指摘されます。

 ただもしかすると、将来的に、「人をタイプで決めつける」という危うい事態になることを、ユングはある程度、見通していたのかもしれません。「私は◯◯タイプで、あなたは〇〇タイプね」といった風に、まるで手軽な「占い」のようになってしまうことを…。

 すると、タイプ論について語れば語るほど、ますます本来の目的からずれていく可能性が高まってしまいます。だから、それ以上、語ることをやめてしまったのではないでしょうか。

 タイプ論でユングが何を目指したのか。その意図を、まずはしっかりと理解しておくことが大切ですね。

「この基礎的な著書において著者(ユング)意図しているのは、心の構造や機能のあり方には一定の諸タイプがあることを明らかにし、それによって自分自身のためにも仲間のためにも人間理解を深めることである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p6
※(ユング)は加筆

 前段で紹介した上の文章の続きは、こうです。

 「タイプ間の対立は、宗教上の争いや学問・文化・世界観の角逐において、また人間関係の中で、いかなる場合にも必ず重要な役割を演じている」(p6)。

タイプ論は争いをおさめる知恵袋

 「角逐」とは「争うこと」です。ユングは軍に従事していたこともあります。ユングが生きた時代(1875〜1961)は、日本の年号でというと「明治」「大正」「昭和」です。ユングは、2度の世界大戦を体験した世代です。人間同士の「争い」に、心理学者として、強い関心を抱いていました。

 第一次世界大戦が1914年〜1918年です。著書『心理学的類型(Psychological Type)』の発表が、1921年です。時間を巻き戻して、最初に、ユングが性格タイプに関する論を発表したのは、1913年(ミュンヘンの精神分析学会での講演)とされています。この講演内容は、補論として『タイプ論』(みすず書房)に収録されています。

 タイプ論の考えを発展させ、深めていった時期は、第一次世界大戦と重なっているのです。

 「争い」と「性格タイプ」の知識を結びつけた文章が、『タイプ論』(みすず書房)にあります。

ユングの論

「人間は自分とは異なる立場を理解したり認めたりすることがほとんどできないものだということは、私が臨床の場で何度もいやというほど、思い知らされている事実である。(中略)たしかに争いはつねに人間の悲喜劇につきまとうものであるが、(中略)見解の相違を調停するための基盤になりうるのは、私の確信するところによれば、さまざまなタイプの構えを認めること、それも単にさまざまなタイプが存在するというだけでなく、誰もが自らのタイプにある程度囚われているため他人の立場を十分に理解することができなことを認めることである」

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p524

 上の文章から「争い」をおさめるための2つの教訓を導き出せます。

さまざまな性格タイプがあり、その違いを、互いに認めあおう。(みんな違って、みんないい。)
❷自分自身も、相手と同じように、あるタイプとして生きていることを自覚しよう。

 この言葉は、争いをおさめるための教訓であり、よい人間関係を築くための知恵であり、そして、「何のためにタイプ論を生み出したのか?」、その問いに対する答えにもなるものです。

 もう1度、確認しておきましょう。

 タイプ論の目的は、「自己理解・他者理解・人間理解」を深め「よりよい人間関係」を育んでいくことです。そのゴールにたどりつくための「心の羅針盤」(Compass)となるものが、タイプ論の知識です。

まっつん
まっつん

タイプ論の目的に関するユングの考えは、他にもあります。ここでは基本的なところだけおさえて…、では次に、「そもそも、どんな考えからタイプ論が生み出されてきたのか?」、タイプ論が生まれた経緯について、述べていきます。

どうやってタイプ論は生まれたのか?

 ユングがタイプ論を生み出していった経緯には、大きく3つあるとされています。1つ目は「言語連想検査」の結果です。2つ目は、「なぜ、フロイトとアドラーの理論が違うのか」を考えたことです。そして3つ目は、ユングが設立した「心理クラブ」での交流です。

  1. 「言語連想検査」の結果
  2. 「なぜ、フロイトとアドラーの理論が違うのか」を考えて
  3. 「心理クラブ」での交流

それでは、1つ目から順番に説明していきます。

❶「言語連想検査」の結果から

 ユングの初期の研究として有名なのが「言語連想実験」です。この実験に関する著作は1906年に発表されています。ユングが31 歳になる年です。「言語連想実験」で、ユングは、今でいう「コンプレックス」の研究に取りくみました。

「言語連想実験」とは、ある言葉をクライアントに投げかけて、思いつく言葉を返してもらうものです。 例えば、「頭」と聞いて、パッとどんな言葉が思い浮かびますか。連想して答えてみてください。「緑」では、どうでしょう。次に「水」では…。こんな調子で、クライアントに100個の言葉に対して、連想する言葉を答えてもらいます。以下は、その一部です。

1. 頭11. 机21. インキ
2. 緑12.尋ねる22. 怒り
3. 水13. 村23. 針
4. 歌う14. 冷たい24. 泳ぐ
5. 死15. 茎25. 旅行
6. 長い16. 踊る26. 青い
7. 船17. 海27.ランプ
8.支払う18.病気28. 犯す
9. 窓19. 誇り29. パン
10. 親切な20. 炊く30. 金持ち
ユング連想検査の刺激語
『ユング心理学入門』(河合隼雄 培風館)p66の表を元に作成

 ユングが「言語連想実験」をした時、反応はクラアントによって様々でした。ある言葉では、すぐに言葉が返ってきますが、ある言葉になると、必要以上に長く説明したり、あるいは、連想する言葉が全く出てこなかったりしました。実験は、2回行います。すると1回目と2回目で、連想する言葉が違うこともありました。

まっつん
まっつん

連想するだけです。とても簡単なことに思えます。ですが、言葉がつまってしまったり、出てこなかったりします。なぜ、そうなるのか、本人はわかりません。簡単に思えることが、訳もわからず難しくなってしまうなら、心のどこかに、真犯人がいそうです。

 この真犯人は、普段の自分では意識することのできない「無意識」の領域にいて、「意識」に働きかけてくるのだとユングは考えました。その働きかけてくる真犯人を、ユングは「感情によって色づけられた複合体(feeling-toned-complex)」としました。これが私たちが今でいう「コンプレックス」のことです。

 この実験を繰り返していく中で、ユングは、連想される言葉に、あるパターンがあることに気づいていきました。『ユングのタイプ論に関する研究』(佐藤淳一 創元社)には、「言語連想実験」からの着想について、こう書かれています。

『ユングのタイプ論に関する研究』
(佐藤淳一 創元社)
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「この言語連想の実験を通して、正常者において内的な連想をする人たちと外的な連想をする人たちがいることが分かった。前者は感情を伴った主観的な反応をするタイプで、後者は非個人的なトーンで客観的な反応をするタイプであった」

『ユングのタイプ論に関する研究』(佐藤淳一 創元社)p13

 さらに、この実験を「早発性痴呆」(統合失調症)と「ヒステリー」の患者に対して行っていくと、連想言語に違いが見られました。早発性痴呆(統合失調症)の患者は「内向」に、ヒステリー患者は「外向」に分類できる反応を示したのです。

 この実験は、「タイプ論」の「原点」といえるユングの臨床体験です。

❷「なぜ、フロイトとアドラーの理論が違うのか」を考えて

「言語連想検査」で成果をあげたユングは、フロイトの理論を知り「無意識」について興味を深めていきます。1907年、フロイトとユングが初めて会った時、13時間も話し続けたといわれています。ふたりは絆を深め、ユングはフロイトが設立した「国際精神分析学会」の初代会長にまでなっています。

 ところが、フロイトの心理学理論に違和感を覚えた始めたユングは、フロイトと距離をとるようになっていきます。ユングは1913年に発表した『リビドーの変容と象徴』で、「無意識」に関してフロイトとは異なる見解を示しました。ふたりの決別は決定的なものになりました。

 その後ユングは、本人が「方向性喪失の状態」と呼ぶ、精神的な危機を迎えます。時に、幻覚が見えるようになり、この状態が1912 年〜1917頃まで続いたといっています。第一次世界大戦の勃発を予知するような「海が血に染まるビジョン」が見えたこともあります。

まっつん
まっつん

先ほど、タイプ論の考えを深めた時期が、第一次世界大戦(1914年〜1918年)に重なると書きましたが、ユングの「精神的危機」の時期とも重なっています。

 ユングは「方向性喪失の状態」で、フロイトともアドラーとも違う、独自の心理学を確立する必要に迫られていました。そんな背景があり、ユングはフロイトとアドラーの心理学が、「なぜ、対立するのか?」について考えていったのです。

 フロイトの共同研究者ともいえるアルフレッド・アドラーも、理論の違いからフロイトとの関係が悪化します。最終的に、フロイトはアドラーを協会から追い出してしまいます。なぜ、フロイトとアドラーは対立したのか。その理論の対立を、「タイプの違い」としてユングはとらえました。

 ユングにいわせると、フロイトの心理学は「外向型」で、アドラーの心理学は「内向型」となります。

ユングの論

 フロイトの心理学が共鳴している基調は客体において快楽を求める遠心的衝動だが、これに対してアドラーの心理学の基調は主体に向かう、すなわち主体が力をもち生の抑圧的な暴力から解放される「優越状態」に向かう、求心的な衝動である。

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p541

フロイトとアドラーの違い

フロイトは、催眠や対話によって「トラウマとなった出来事」を意識化することで、クライアントを治癒しようとします。この「外との世界」との関係を重視している点が、「外向」ということです。

 アドラーは「内の世界」(心の中)を重視します。人は誰もが幼い頃に「劣等感」をもちます。劣等である自分を克服することを目的に「権力への意志」が育まれていきます。この「劣等感」「権力への意志」を重視するのがアドラーで、「劣等感」「意志」とは「内の世界」(心の中)のことです。ですので、アドラーの心理学は「内向型」と、ユングは分類します。

 ふたりの対立について、ユングは「外向 VS. 内向」という「タイプの対立」と考え、性格タイプに関する考えを深めていきました。

❸「心理クラブ」での交流

 ユングは1912 年に「心理学クラブ」を設立しました。「心理学クラブ」は、ユングの分析を受けた一般の人と、心理の専門家からなる集まりの場でした。ポイントは、健康な人たちが集まっていたことです。

まっつん
まっつん

 ユングは、この健康な人たちとの交流を通して、タイプ論に関する考えを深めていきました。ユングが「外向・内向」に、4つの「心の機能」(思考・感情・感覚・直観)を加えていったのは、「心理学クラブ」での人間観察が大きな役割を果たしたとされています。

 特に「直感」機能のヒントは、心理学クラブに参加していたマリア・モルツァーからのものであることを、ユングは明言しています。

  1. 「言語連想検査」の結果
  2. 「なぜ、フロイトとアドラーの理論が違うのか」を考えて
  3. 「心理クラブ」での交流

 以上、3つの観点から、タイプ論が生み出された経緯について説明してきました。いずれにしても、長い臨床経験と人生経験があって、タイプ論が生まれたことは確かなことです。ユングは「はじめに」で、こう述べています。

ユングの論

 本書は臨床心理学の分野における、ほぼ20年にわたる研究の成果である。このアイディアは、一方で精神科および神経科における臨床やあらゆる階層の人々とのつき合いによって得られた無数の印象や経験から、他方では友人や反対者との私の個人的な討論から、そして最後に私自身の心理的特質の批判から、しだいに生まれてきたものである。

『タイプ論』(訳 林義道 みすず書房)p541

 タイプ論は、決して、ユングの単なる「思いつき」で生まれたものではありません。20年にわたる臨床経験から生み出されたアカデミックな観点が保証された理論です。

(文:松山 淳



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