ユング派の心理療法家に河合隼雄氏がいる。河合氏は心理学の専門書でも、一般の人が読みやすい本を多く残している。夢分析についても河合氏の解釈はわかりやすい。
夢を読み解くのは難しい面がある。しかし、河合氏の解釈を参考にすると、夢には何らかの意味があり、無意識から意識に対してメッセージを送ってきていることが、理解できる。
河合氏の本に掲載されている夢の事例を参考にしつつ、心理学の観点から夢の意味を読み解いていく。
❶警告夢:ブレーキがきかない
夢は無意識からのメッセージです。無意識は、普段の自分が気づけないことに気づいています。無意識が気づいていることを、無意識は夢を通して、人に伝えようとしているのです。
夢分析を重視したユングは、『ユング 夢分析』(みすず書房)の中で、こう書いています。
「こころとは自己調整を行うシステムであり、体という生がそうするのと同じようにしてバランスをとっています。行き過ぎた過程に対しては、それが何であれ直ちに、そして確実に補償が始まります。この補償抜きにしては、正常な新陳代謝も正常な心もありえません。」
『ユング夢分析』(みすず書房)p22
つまり、ユング心理学の論でいけば、人は、「こころのバランス」をとるために夢を見ている、といえます。
人には「いけないと、わかっているけど、やめられない」ことがあります。「こうすると体にいい」とわかっていながら、できないことがあります。
そう考えると、誰もが、何らかの形で少しはバランスが崩れていて、かたよっているものなのです。ただ、その「かたより」が、行き過ぎてしまうと、大きくバランスをくずすことになり、健康を害したり、人生がうまくいかなくなったりします。
こころのバランスがくずれていることは、最初の段階では、なかなか自分で気づけません。または、気づいているのに、改めようとしないというケースもありますね。そんな時、夢は、さまざまな形でメッセージを送ってくるのです。
例えば、とてもわかりやすい、夢の事例が、河合先生の著書『ユング心理学入門』(培風館)にあります。
私は自動車を運転していた。車は坂を下り出し、だんだんと速くなってきた。
途中で、私はその車にブレーキがないことに気づき真っ青になる。車のスピードは増すばかり。私はこうなったら逃れる道はただたひとつ、目を覚ますだけだと思って、頑張って目を覚ます。
いかがでしょうか。自動車でもバスでも自転車でも、何かの乗り物に乗って、自分が運転をしていて、「ブレーキが効かない」状態となってパニックになる。そんな夢を見たことがないでしょうか。
河合先生は、この夢について、次のように書いています。
「これは、あることに盲目的に夢中になりかかったひとに対する、判然とした警告夢である。まさにこの人にとって「目を覚ます」ことが必要だったわけである」『ユング心理学入門』(培風館)p167
どんなことに盲目的に夢中になりかかっていたのかは、書かれてありません。
警告夢の「警」という字には、「いましめ」「注意」「さとし」「まもる」「そなえる」「用心する」という意味があります。「いましめ」「注意」「そなえ」などを、人へ「告げる」のが「警告夢」です。
ブレーキの効かない乗り物を運転し続けたら、どうなるでしょう。多くのケースで「事故」が起きます。「事故」を人生に例えたら「失敗」です。
もし、盲目的に夢中に取り組んでいることがあって、周囲の人から「やめた方がいい」と言われているのに、「大丈夫」とか「これでいいんだ」と自己中心的な判断をして、他人の意見に耳を貸さずにいるような時、乗り物を運転していてブレーキがきかない夢を見たら、考え直してみましょう。
「いい加減、目を覚めせ!」という警告夢の可能性が大です。
❷ペルソナの夢:正しいからこそ
ユング心理学に「ペルソナ」という考え方があります。「ペルソナ」の語源は「仮面」です。
「ペルソナ」とは、外の世界に向けてつくる自分の「顔」といえます。「〜らしく」いようと「自分をつくる」時、そこに「ペルソナ」があります。
例えば、会社の課長Aさんを例にとってみましょう。
課長ですから、部下の前では「上司らしく」いようとします。課長ですので、部長や役員と会議すれば「部下らしく」の部下の「顔」となります。課長Aさんは結婚していて子どもがいます。家に帰れば、妻の前では「夫らしく」、子どもの前では「親らしく」ふるまおうとするでしょう。これが学生時代の友人と飲み会となれば、会社でも家庭でも見せない「子どもの顔」となって、昔に帰ってはしゃぐこともあるでしょう。
このように、人は、いろいろな「顔」を持って、その時々、「自分の顔をつくり」、外に世界に無意識に、時に意識的に対応し、人生をうまくやっていこうとしているのです。
でも、このペルソナが「どうもうまくいってませんよ」となると、夢がメッセージを送ってきます。「ペルソナ」に関する夢は、「服」「靴」など、身につけるもので表現されることが多いとされます。
次の夢は、典型的なペルソナに関する夢です。河合先生の著書『ユング心理学入門』(培風館)からです。
私は数人の男と戦っていた。私は坐(すわ)って、彼らを次々と、こうもり傘や棒きれでなぐりつけ、彼らはのびて順番に川に落ちてゆく。さて、最後の最後の一人になって「降参しろ」といったが聞き入れない。そこで、私は今日でも明日でもいつでも相手になってやると立ち上がった。
そのとたん、私は自分がまったく何も着ていないことに気づいて、恥ずかしさでとまどってしまう。私は坐りこんで、ともかく水着を着ることにしようといった。…われわれは、戦うために海水浴場に行ったようである。
河合先生いわく、この夢を見た人は「能力のある女性であるが、職場では対人関係がうまくゆかず困っていたひと」(p199)です。
職場では、「いわなくてもよい本当のことを思わずいってしまって、上役からにらまれたり、仕事をやりすぎて同僚から嫌がられたり」(p199)しています。
職場で彼女はうまくいっていないわけで、外に向けて「つくる顔」を「つくり直す」必要があります。そのことを夢は、「自分がまったく何も着ていない」=「裸」という状態を示すことで、伝えようとしています。
夢のメッセージをシンプルにいえば、こうです。
「あなたはまるで会社で裸でいるかのように、恥ずかしいことをしている」
正直に、いうべきこをいう。必要なことです。ですが、言い方があります。どれだけ正しいことであっても、言い方によって、人を不快にしたり傷つけたりすることがあります。
伝えるべき正しいことを、オブラートに包めば彼女はうまくいきます。それだけのことです。それを「私は正しいことをいっているのだから、間違っていない。自分を変えるつもりはない」と、職場にふさわしい「ぺルソナ」を拒否したら、この女性は、同じような夢をくりかえし見続けることになるでしょう。
裸で職場にいたらおかしいです。恥ずかしい思いをします。それと同じように、「オブラートに包まない、あなたの言葉はおかしい」と、夢はこの女性を諭そうとしているのです。ですので、この夢も警告夢のひとつです。
結婚式のスピーチでよく読み上げられる詩人「吉野弘」氏の「祝婚歌」に、こんな言葉があります。
正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい。
正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい。
「祝婚歌」(吉野弘)
この言葉を彼女が受け入れていき、態度を変えていったら、「多くの人の前で裸でいる」ような夢は見なくなるでしょう。
❷自己の夢:ありがたい話より雑巾がけ
河合先生の著書に『ユング心理学と仏教』 (岩波現代文庫)あります。この本に、ある老婦人の事例が書かれてあります。
河合先生のもとに老婦人が相談に来ました。「長男の嫁の性格が悪いために困っている」(p78)と訴えます。いわゆる「嫁と姑」の問題ですね。
この嫁は、老婦人が自分の子どもに「ふわさわしい人だ」と、わざわざ探し出してきた人です。自分で「この女性だったら間違いない」と見つけてきて、息子と結婚させたのに、ふたを開けてみたら「違った」というお話しです。
老婦人は、「嫁は姑に従うもの」という価値観の持ち主でした。詳しく書かれてありませんが、老婦人が悩むわけですから、嫁は簡単には「従わない」人だったのでしょう。
河合先生は、老婦人の話を聞き「牛にひかれて善光寺参り」の説話を思い出します。
ある不信強欲の老婆が、晒しておいて布を隣家の牛が角にかけて走ったのを追いかけ、知らぬうちに善光寺に駆けこみ、そこが霊場であるのを知り、後生を願うに至った、という話で、欲にかられて行った行為から知らぬうちに信心が生まれてきたという話です。
『ユング心理学と仏教』 (河合隼雄 岩波現代文庫)旧版p78
河合先生は、「お宅のお嫁さんは善光寺の牛です」といい、「お嫁さんに腹を立て、追いかけまわしているうちに、善光寺参りをすることになるのです」とつけ加えました。
老婦人は、河合先生に相談するのを何度もあきらめかけます。ですが、「善光寺参り」の説話を思い出し、通い続けました。そうしている内に、実際に、宗教的なことにも関心をもつようになり、講和を聞きに行くようになっていました。そんな折に見た夢が次のものです。
近所に徳の高い僧が来られ講和をされる。それを知って私は大急ぎで講演会場に行ったが、すでに講和は終わっていた。私は非常にがっかりして帰ろうとすると、その高僧が現れ、あなたには特別に大切なことを教えてあげますと言う。大喜びでいると、一枚の雑巾を手渡され、あっけにとられているうちに目が覚める。
『ユング心理学と仏教』(岩波現代文庫)旧版p192
老婦人は、この夢をきっかけに「雑巾がけ」を始めます。本に、家には「使用人がいて」と書かれてありますので、おそらく、裕福な家庭で育った人なのです。雑巾がけなど、家ではやったことがない人でしょう。
ここに価値観の大きな転換があります。
「嫁は姑に従うもの」と、自分の立ち位置を常に「高い」ところに置こうとしていた人が、逆に、立場を「低い」ところにもっていくような「雑巾がけ」をするわけです。
河合先生との話し合いで、老婦人は「有難い話を聴くよりも、雑巾がけをすることが私にとっては大切である」(p192)と気づきます。
老婦人とありますので、「人生の終わり」=「死」を思うこともあったでしょう。晩年になって宗教的なことにも関心を持ち始め、価値観が変化していきました。これは「個性化の過程」の事例でもあります。
「個性化」(individuation)とは、ユング心理学の概念です。その人が「本来そうなるであろう究極の自分」になっていくことです。個性化を成そうとする人生における道のりを「個性化の過程」(individuation process)と、ユングは呼びました。
ユングは「個性化」について、こう書いています。
個性化とは、まさに人間の集合的な使命を、よりよく、より完全に満たすことなのである。というのは、個人の特性に十分な顧慮が払われれば、それが軽視されたり抑圧されたりしたときよりも、より大きな社会的功績を期待できるからである。
『自我と無意識』(C.G.ユング 松代洋一・渡辺学訳 第三文明社)P94
彼女が見た夢には、「徳の高い僧」が登場しています。これはユング心理学でいう「老賢者」(wise old man)の可能性があります。
「老賢者」はこころ全体の中心である「自己」(セルフ)が、夢の中で人格化されたものです。
ユングはこころと「意識」と「無意識」の領域にわけて考えました。そして、意識の中心点を「自我」(エゴ)とし、こころ全体の中心を自己(self)と呼びました。
ですので、自己(self)に関わる夢は、その人の人生においていつも以上に重要であることが多いのです。夢で「老賢者」は、神様や仏様など宗教的な存在として現れてることがあります。
そう考えると、この老婦人はこころの奥深くにある「自己」(セルフ)からメッセージを受けとったといえます。若い頃の彼女に、「あなたは晩年に雑巾がけをすることになります」といったら、きっと怒り出していたのではないでしょうか。
老婦人は、自ら「雑巾がけをすることが私にとっては大切である」といいます。
ふりかえってみると、この「高い境地」に達することができたのも、お嫁さんの問題で悩んだからです。悩んだから河合先生のもとを訪れもしました。「善光寺参り」の説話も聞き、宗教的なことにも興味をもつようになります。
もし、嫁が自分の価値観どおりの「言うことに何でも従う嫁」だったら、老婦人は、いつまでも自分の価値観に人を従わせようとする「低い境地」のままの人間だったでしょう。
人生はわからないものなのです。わからないものですが、人が変わるのは確かですね。
老婦人が見た夢のように、夢には自分と人生をよりよく変える「導き手」としての重要な役割があるのです。
(文:松山 淳)
アイキャッチ画像肖像画:出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) File:Hayao Kawai.jpg 文化庁長官 河合 隼雄(かわい はやお)原典:日本政府