目次
1949年(昭和24年)、日本で初めてノーベル賞を受賞した人物は「中間子」理論を提唱した湯川秀樹(ゆかわ ひでき)です。それから70年の時が流れ、2019年、リチウムイオン電池の発明で受賞したのが旭化成の吉野彰(よしの あきら)です。1949年から2019年の70年間で、日本人のノーベル賞受賞者は28人になっています(2020年現在)。
日本人初ですので物理学者湯川秀樹の名は有名です。ちなみに2番目の受賞者も物理学者で、東京文理科大学(現:筑波大学)の教授だった朝永辰一郎(ともなが しんいちろう)です。受賞は1965年のこと。
3番目の受賞者は国語の授業で習っていて聞き覚えがあります。受賞は1968年(昭和43年)で、文学賞を受賞した川端康成(かわばた やすなり)です。
では4番目は誰でしょう。このコラムの主人公江崎玲於奈(えさき れおな)です。長らく筑波大学の学長を務めた人物ですね。
江崎玲於奈は、1925年(大正14年)、大阪府中河内郡高井田村(現在の東大阪市)で生を受けます。1930年に、親が子どもの教育環境を考え「京都」に引越します。江崎博士の育ちは「京都」です。
大正時代に「玲於奈」(れおな)とは、個性的です。現代でいう「キラキラネーム」の部類に入るでしょう。大正時代は、西洋の影響を色濃く受け「大正ロマン」の文化が花開いた時代です。本当は、カタカナで「レオ」になるはずでした。レオとはラテン語で「獅子」のことですね。ところが、役所が難色を示し、漢字で「玲於奈」となったそうです。
1937年(昭和12年)、現在の洛北高校(京都府立第一中学校)に進学するつもりでしたが、不合格となります。確実に合格すると考えていた江崎博士にとって、「人生、初の挫折」となりました。
1年間、高等小学校に通い、翌年、同志社中学に合格します。中学ではアメリカ人の先生が英語を教えていました。多感な時期に異文化にふれた経験が、グローバルな視野で物事を考える下地となります。
同志社中学から京都の旧制第三高等学校に入学(1942年)し、そして現在の「東京大学」である「東京帝国大学」へと進学します(1944年)。
慣れ親しんだ地元の「京都帝国大学」(現:京都大学)の進学も考えましたが、あえて新天地となる東京を選びました。この冒険的キャリアの選択に、江崎教授の根っこにある「あくなきチャレンジ精神」を感じます。
大学の同級生には、森鴎外の孫にあたる森玲於(もり れお)がいました。「玲於奈」に「玲於」とは、さぞ同級生たちも驚いたことでしょう。
1944年といえば、日本は「太平洋戦争」の真っ只中です。大学に入学した翌年、1945年には、推定10万人もの人が亡くなった東京大空襲がありました。江崎博士は、東京大学の近くに住んでいました。大空襲に遭遇し、焼け出されてしまいます。しばらく大学の宿直室で寝泊りせざるを得ませんでした。
東京帝国大学では理学部物理科に入学しています。戦争が終わり、やっと落ち着いて学問に打ち込めるようになります。当時、物理科には日本で2番目にノーベル物理学賞を受賞する朝永辰一郎が講師として働いていました。朝永教授も湯川秀樹と同じく「量子論」の研究者です。
江崎博士は、将来、ノーベル賞を受賞することになる「量子」の世界に魅了されていきます。
「量子」とはどんなものでしょう。
江崎博士の著書『オプションを活かそう』(中央公論新社)には、量子について「もうこれ以上割れないエネルギーの小粒を量子と呼びました」と書かれてあります。「電子」「中性子」「陽子」などが「量子」の代表選手です。「量子論」は極小の世界です。「ナノメートル」という単位があります。これは1mの10億分の1です。
一般人にとって「量子の世界」は、イメージすることが難しい、あまりにも小さな世界です。江崎博士とっては情熱をかき立てられる研究対象でした。博士は学生時代をふりかえって、こう書いています。
「サプライズは偶然と必然の交差の産物です。人間の創造性のすばらしさに感動した私は、いつかは自分でも学界に衝撃を与えるような仕事をしたいと考えました。そのためには他人の後塵を拝していてはだめ。どんな小さなことでもよい、人がやらないことを研究しようと心に決めました」
「サプライズは偶然と必然の交差の産物です」
江崎博士の名言として後世に残していきたいものですね。
若き江崎博士は、「学界に衝撃を与える」「人がやらないことを研究しよう」と、強い「使命感」をもち、「量子論」の研究者としてキャリアを歩み始めました。
大学で「量子論」について知識を深めた江崎博士は、卒業後、1947年から「川西機械製作所」(後に神戸工業)で働き始めます。「真空管」を研究することになり、初任給は2,000円だったそうです。
ですが、「真空管」は「半導体」の技術進化によってやがて時代遅れとなっていきます。「自分の成長を望めない」と感じた江崎博士は、新天地を求めます。「ソニー」の前身「東京通信工業」へと転職するのです。これが1956年(昭和31年)のことです。
「ソニー」といえば今や日本を代表するグローバル企業ですが、当時は、まだ社員数400人ほどのベンチャー企業でした。江崎博士は「東京通信工業」で量子論を応用した技術開発に取り組みます。
この「東京通信工業」で1957年、「エサキダイオードの発明」という世界初の偉業を成し遂げます。江崎博士いわく、「ダイオード〔diode〕とは、電流を一定方向にしか流さない電子素子のこと」だそうです。
「電子」は「量子論」の世界です。博士は、この「電子」にまつわる、ある「ふるまい」を世界で初めて実証して見せたのです。ある「ふるまい」とは「トンネル効果」です。極小の世界に壁を作り、その壁に電子をぶつけると、通常、電子は跳ね返ってきます。ですが、ある条件にすると、電子が壁をするりと通り抜けたのです。理論として「トンネル効果」は提唱されていましたが、理論の正しさを実験で証明したのは世界で初めてのことでした。この「トンネル効果」を特徴とするため「エサキダイオード」は「トンネルダイオード」とも呼ばれます。
「ダイオード」は「半導体」に使われます。江崎博士の発見は、コンピュータや家庭用電気機器の技術革新を後押しすることになるのです。
博士は「エサキダイオード 」に関する論文を発表し、国際会議の場で講演をするようになります。世界的に知名度が高まっていきます。すると、諸外国の研究所から「うちで働かないか」と誘われるようになりました。
江崎博士は、多くの誘いの中からIBMの「T・J・ワトソン中央研究所」(ニューヨーク)を選びました。1960年、渡米し翌年からIBMの正式の研究員となりました。
ですので、1973年(昭和48年)、朝8時頃にノーベル賞受賞の知らせを受けたのは、日本ではなく、ニューヨークの自宅でした。電話は、ニューヨーク市のラジオ局からで、本人より先にマスコミが知っていました。ラジオをつけると、受賞のニュースが流れたそうです。
現在は、ノーベル賞を運営する「スウェーデン王立科学アカデミー」から電話で直接、受賞者本人へ連絡がきます。当時は電話ではなく、電報でした。朝6時にくるはずの電報が、午後3時になって届いたのです。
前日の仕事が遅くなり、朝8時、江崎博士はまだ寝ていました。そのため、まさに「寝耳に水」の朗報となったのです。出社すると電話と電報が殺到しています。世界のノーベル賞ですから、記者会見をしないわけにはいきません。江崎博士は、会見の場で、こう語りました。
「エサキダイオードはこの立派な研究所で生まれたと言いたいのですが、実は57年に日本の北品川にあるみすぼらしい研究室で誕生しました。しかし、その応用がほとんどこの地でなされたということは、アメリカの研究開発力のすばらしさを物語ります」
「北品川にあるみすぼらしい研究室」とは、「東京通信工業」(現ソニー)のことですね。学生時代に「いつかは自分でも学界に衝撃を与えるような仕事をしたい」と考えた人が、その夢を果たし、学界どころか世界に衝撃を与えることになったのです。
世界的偉業を成し遂げた江崎博士です。2007年には、日経新聞の人気コーナー「私の履歴書」で筆をとっていました。この時、「ノベール賞をとるために、してはいけない5か条」として、次のように書いていました。
第一に、今までの行き掛りにとらわれてはいけません。
しがらみという呪縛を解かない限り、思いきった創造性の発揮など望めません。
第二に、教えはいくら受けて結構ですが、大先生にのめり込んではいけません。
のめり込みますと権威の呪縛は避けられず、自由奔放な若さを失い、自分の創造力も萎縮します。
第三に、無用ながらくた情報に惑わされてはいけません。
約二十ワットで動作するわれわれの限定された頭脳の能力を配慮し、
選択された必須の情報だけを処理します。
第四に、自分の主張をつらぬくためには戦うことを避けてはいけません。
第五に、子どものようなあくなき好奇心と初々しい感性を失っていけません。
日本経済新聞(2007.1/1付朝刊)「私の履歴書」より
この「5ヶ条」を読むと、博士のチャレンジ精神、というより強い「反骨精神」を感じ取ります。
「反骨精神」とは「世の中の不正や、因習などに、果敢に立ち向かって行こうとする気概や心持のこと」(実用日本語表現辞典)です。
この「反骨精神」は、持って生まれた性格が大きく影響しているでしょう。また、この「反骨精神」を持続させた力として「使命感」(sense of mission)の存在を忘れることはできません。
博士の「使命感」が、京都から東京へ、神戸工業から東京通信工業(現ソニー)へ、そして日本からアメリカへと、江崎博士のキャリアを導いてきたと考えられます。
1974年、江崎博士は歴史小説家「司馬遼太郎」と対談をしています。1974年といえば、ノーベル賞を受賞した翌年のことですね。
「人生というのはやっぱり一つのチャレンジだと思うんです。日本の大学のオーソリティーになるには自分はあまり向かない。
こう悟ったからこそ東京大学を飛び出してすぐ民間の会社へ入った。いろいろな会社を渡り歩きましたけれども、(中略)けっしてけんかをしてやめたわけではありません。
人生は一つのコミットメントなんです。日本語で言うと自分自身への約束、いわば使命感というかな。人生というのは人類のための使命感も含めたうえで、自分自身へのコミットメントをはっきりと確立するということですね」
『日本人の顔』(朝日文庫)
「人生というのは人類のための使命感も含めたうえで、自分自身へのコミットメントをはっきりと確立するということ」
これも江崎博士の名言といえる、イイ言葉です。
ちなみに「使命感」とは「自分に課せられた任務を果たそうとする気概」(出典:デジタル大辞泉 小学館)のことです。
「使命感」というと、大げさな感じがします。世界的偉業を達成したノーベル賞受賞者の言葉ですし「人類のための使命感」などと言われると、何か「大きなコト」「立派なこと」を言葉にしないと「使命」とは言えないような気がします。
ですが、私たちがしている仕事とは、それが反社会的なものなければ、「人類のため」「世のため人のため」になっているわけです。ですから、「今、与えられている仕事」を「使命」ととらえることが、よりよいキャリアを築いていくための「自分への約束」(コミットメント)となります。
博士は自分の創造性を高めようと、会社を変え国を変え、「働く場」として新天地を求めていきました。「昭和」という時代です。その「キャリアの選択」は異色といえるものでした。でも、キャリア選択の自由度が高まった今となっては、それは普通のことであり、日本人の働き方においても、博士は先駆者だったといえます。
「ノベール賞をとるために、してはいけない5か条」には、日本人のキャリアに対する意識を変えていった「先駆者」としての強い気概を感じます。
江崎博士に学び「使命感」と「好奇心」と「初々しい感性」を、いつまでも持っていたいものです。それでは、最後に、江崎博士の名言を記し、本コラムを終えます。
私が考える創造力開花の三条件とは、
①伝統から抜け出し、境界や限界を無視する大胆さが漲る知的自由な雰囲気、
②創造の触媒となる他者との活発な知的交流、
③先入観にとらわれず虚心坦懐で正当な評価が受けられる競争的環境です。
(文 松山淳)