トヨタ自動車の第5代目社長「豊田英二」(とよだえいじ)氏。
昭和という激動の時代にトップに就任し、トヨタ自動車(以下、トヨタ)を大きく発展させた立役者です。「トヨタ中興の祖」と呼ばれます。
豊田英二氏が日経新聞「私の履歴書」に寄稿した内容は、『決断 私の履歴書』(豊田英二 日本経済新聞 )にまとまっています。
この本の「解説」を読むと、豊田英二氏の人柄がうかがえます。
『英二は「寡黙の人」といわれた。無口は元来の性格である。彼はマスコミを嫌い、財界活動にはあまり出しゃばらない。
『決断 私の履歴書』(豊田英二 日本経済新聞 )
「むやみやたらに会社の内情を外に漏らすな」と叱責する口癖もあった。
この経営スタイルは「雑談に益なし」という佐吉の経営哲学を引き継いだものと思われる』
上の文にある「佐吉」とは、トヨタ自動車の源流「豊田自動織機」をつくった「豊田佐吉」のことです。「日本のエジソン」と呼ばれた人物ですね。
余談ですが、豊田の「田」は、「トヨタ」ではなく「トヨダ」と濁音が入ります。創業時「トヨタ自動車」は「トヨダ自動車」だったそうです。
豊田佐吉が創業した「豊田自動織機」には、自動車を開発する部署がありました。この部署が独立して会社になったのが、現在の「トヨタ」です。創業者は、「豊田喜一郎」で、豊田佐吉の息子です。
「喜一郎」の息子が「章一郎」(6代目社長)で、そのまた息子が「章男」で、現在のの社長(11代目)になります。
では、豊田英二氏の父は誰かというと、佐吉の弟「平吉」です。
ですので、英二氏は、佐吉の甥にあたり、トヨタ創業者「喜一郎」とは従兄弟の関係です。英二氏にとって喜一郎は、よき兄貴分といった感じだったようです。
トヨタは、今や世界に名をはせる日本企業として、不動の地位を確立しています。トヨタといえば「カイゼン」(継続的な業務改善)ですね。「カイゼン」は世界共通言語となり、英語でも「Kaizen」と表記します。
「かんばん方式」は、トヨタを象徴する生産方式です。創業者豊田喜一郎は、戦前には、「ジャスト・イン・タイム方式」を提唱し取り入れていました。ですが、太平洋戦争によって、大きな影響を受けつまづくことになります。
終戦が近づいた日本の敗戦が濃厚になった時期に、豊田喜一郎は、瀬戸物屋をやろとしたり、北海道の稚内で竹輪(ちくわ)をつくろうとしたりしました。ドジョウを養殖するアイデアまであったそうです。
今の世界企業トヨタからは、想像もつきませんね。
さらに戦後、倒産の危機に見舞われます。激しいインフレが起きて、現金の回収ができなくなり、資金繰りに行き詰まってしまうのです。
倒産は時間の問題となりました。
この時、日本銀行名古屋支店の高梨壮夫氏が、金融機関を集めて「トヨタを何とかしてやって欲しい」と頼んでくれたことで、資金面のめどがつきます。
ただし、人員整理と販売部門の分離という条件がつきました。豊田英二氏は、「高梨さんの努力がなければ、間違いなく潰れたであろう」と書いています。
そして、1950(昭和25)年、労働組合に申し入れ、人員整理を行います。あのトヨタがリストラをしているのです。この時、次の言葉を涙ながらに語り、創業者豊田喜一郎氏は会社を去ります。
「わしは不本意だが、人員を整理しない限り、会社は生き残れない。わしも責任をとって辞める」
『決断 私の履歴書』(豊田英二 日本経済新聞 )
豊田英二氏は、この時、技術部門のトップでした。創業家のひとりですから、労働組合の標的になり、組合員2千人からつるしあげられます。英二氏は訴えました。
「いまのトヨタは壊れかかった船みたいなものだから、誰かに海に飛び込んでもらわない限り、沈んでしまう。だから人員整理を認めて欲しい」
同じ会社で同じ仲間のはずですが、組織には利害関係があり対立があります。ポジションが高いからといって、社員がそのリーダーの言うことを簡単にきくわけではありません。労働組合が強い力を持っていた時代でもありました。
豊田英二氏は、トヨタを存続させるという大きな目的のために、矢面に立って自らが「悪人」の役を引き受けたわけです。
その後、トヨタ自動車は、豊田自動織機から「石田退三」氏を社長として迎え、再生を図ります。石田氏の後は、三井銀行からきていた中川不器男氏が社長になりますが、中川氏が急逝してしまいます。
1967年(昭和42年)豊田英二氏が、満を持してトップの座に就任。そして、1982年(昭和57年)まで社長を務めるのです。
約15年間もの在任期間は、トヨタ自動車の歴史で唯一です。
トヨタ生産方式の「カイゼン」といえば、大野耐一氏が「生みの親」といわれています。
「カイゼン」を組織に導入する当初は、抵抗勢力があらわれ社内で反対にあい、大野氏はたいへんな苦労をします。この時、大野氏を守り、細かいことには決して口を出さずに、その大きな人柄によって、好きなようにやらさせてくれたのが、豊田英二社長でした。
この小さなエピソードからも、豊田英二氏のリーダーシップ・スタイルが想像できます。自分が主役になろうとして前面に出るのではなく、部下の可能性を信じて、マイクロマネジメントをせずに、静かに任せる切るタイプですね。
その証拠に、豊田英二氏は、こんな言葉を残しています。
「目上の人だけでなく私の場合部下の人々からも影響を受けたと思う」
部下からも影響を受けているとは、つまり、部下から学び、自分自身が成長できたと考えていることです。リーダーとしての謙虚さがにじみ出る言葉ですね。
寡黙で出しゃばることを嫌う豊田英二氏が社長だったからこそ、「カイゼン」は、大きく前に進むことができたと言われています。
『決断 私の履歴書』では、トヨタ生産方式のひとつ「ジャストインタイム」を考え出した豊田喜一郎について、こう書いています。
「大切なことは、そんな理想的なことができるか、できないかを考えずに、一般的にはできないと思われたことをやろうとしたことである。
やればできるという確信というか、自信はあったのだろうが、単に考えるだけでなく、実行に移すことは大切だと思う」
冒頭、英二氏を評して『この経営スタイルは「雑談に益なし」という佐吉の経営哲学を引き継いだものと思われる』とありました。
「雑談に益なし」とは、「実行に移すこと」つまり、英二氏もまたリーダーとして「実行・実践」を重視していたことの表れといえます。
英二氏は、社長になっても、工場の回りをよく散歩し観察していたそうです。現場を何よりも愛したリーダーでした。
大企業のトップになっても現場を観察する。
そうした日々の地道な行いができるのは、技術者として車や現場を愛していたことが考えられるでしょう。それに加えて、かつて深刻な経営危機を体験し、「人員整理」という十字架を自らに背負いつづけていたことが、心理的に影響していたと考えられます。
「自分は創業家の人間だから解雇されることはない。でも、社員の首を切ったのは創業家の私である」
豊田英二氏の寡黙な人間性を想像するに、そんな罪の意識をもち続けていたのではないかと想像してしまいます。
アメリカに自動車業界の優れた功績を称える「自動車殿堂」があります。「ヘンリ・フォード」「トーマス・エジソン」「フェルナンド・ポルシェ」など世界的な偉人が「殿堂入り」しています。
これに日本で最初に「殿堂入り」したのは、ホンダの創業者「本田宗一郎」氏です。2番目に「殿堂入り」したのが、豊田英二氏なのです。
倒産の危機を乗り越え、トヨタ生産方式を確立し、自動車メーカーとして「トヨタ自動車」を世界第3位に育てあげた功績が認められました。
2013年9月17日に永眠。享年100歳でした。
「寡黙な人」でもリーダーシップは可能だと、確かに証明してくれた偉大なリーダーでした。
(文:松山 淳)