私の処女作『名もなき人の生きるかたち』(文芸社)を出版したのは2005年です。「はじめに」で、私は、こんなことを書いています。
偉人ばかりが歴史をつくるのではない、名もなき人もまた、その創造主である。
「成功者」「著名人」と世で騒がれている人たちだけが、誰かに影響を与え、進むべき正しい道を示してくれるわけではありません。
生みの親、育ての親、祖父、祖母、近所のおじさん、おばさん、小学校の先生、高校の恩師、部活の先輩、会社の上司・・・・。
私たちは、日々、すぐそばにいる「名もなき人」たちから、人生に必要な多くのことを学び、成長を遂げています。
『名もなき人の生きるかたち』(松山 淳 文芸社)
今になって読み返してみると、「はじめに」で、よくもこれほど正面きってストレートに自分の想いを書いたもんだと、なんだか恥ずかしくなります。でも、まあ、それでよいのでしょう。なぜなら、初心を思い出せてくれるからです。
私が30代の頃、大きな影響を受けた本『自助論』(サミュエル・スマイルズ 三笠書房)に、こんな一節があります。
「たとえば、歴史上の大きな戦役で名を残すのは将軍だけだ。
しかし、実際には、無数の一兵卒の勇気あふれた英雄的な行動なしに勝利は勝ち取れなかったはずだ。
人生もまた戦いにほかならない。
そこでも無名の兵士が実に偉大な働きをしてきた。
伝記に名を残した幸運な偉人と同じように、歴史から忘れ去られた多くの人物が文明と社会の進歩に多大な影響を与えている。」
『自助論』(著 S・スイマルズ 三笠書房)
今も、名もなき人々が歴史の進歩に大きな影響を与えています。
小さな商店街で働く人たち
満員電車に揺られ家族のためにと懸命に働く企業戦士たち
零細企業で不況に耐えながらがんばる経営者たち
北国で極寒の海に出て漁をする人たち
南国で病を抱えながら野菜を育てる人たち
名もなき人々の「尊い働き」があって、この日本の社会は成立しているのです。
1990年代後半頃から、ネット社会の進展とともに「成功ブーム」と呼ばれる現象が起きました。
「とにかく成功しなければ人生に意味がない」
「年収が1千万以上にならなければ幸せになれない」
「有名になれば、人生に幸運な出来事がなだれようにやってくる」
そんな風に思わせる、錯覚させる、情報や理論が若者たちの内面に忍び込み「心」を犯し続けていました。
非常に高額なセミナーが開催されたり、50万円以上もする商材を買わされたりして、汗水流して働き得た大切なお金が、吸いあげられていました。多くの大学生も巻き込まれ、しばしばニュースにもなりました。この実態は、今も変わりません。
「いったいあれは何だったんでしょう。あんなお金払って、結局、何にもなりませんでした」
百万円近い金額投資して、寂しげに首をうなだれ、そうつぶやく若者に会ったことがあります。
心理学の知識を応用して、心の操作を意図して書かれた文章、コピーを読めば、人生経験の浅い若者であれば「人生、これで成功できる!」と、錯覚してしまうのは、無理もないことです。
首をうなだれた彼も、セミナーに通う間は、自分の成功を疑っていなかったといいます。
ある高額自己啓発セミナーを主催するスタッフとして長い間、働いていた人と話しをしたことがあります。その方は、こう言っていました。
「その組織のリーダーの魅力にひかれ、最初はよかれと思ってやっていたのです。最初は、情熱があって、素晴らしい人だと思ってついていったのですが、段階的に高額の代金をしぼりとるシステムを考えたら、疑問がわいてきて、自分のしていることの愚かさに気づき、嫌になってやめました」
自分の過去に罪を感じているのか、とても苦しそうな顔をして話しをしていました。
米国のオバマ元大統領は、就任演説の時、こう言っていました。
「我々が立ち向かう挑戦は新しい。それに立ち向かう手段も新しい。
しかし、我々の成功のカギを握る価値観は古い。
それは労働、勇気、公正さ、寛容さ、好奇心、忠誠心、愛国心などだ。
これらは我々の歴史を通じて前進の静かな原動力となってきた」
Our challenges may be new. The instruments with which we meet them may be new. But those values upon which our success depends – hard work and honesty, courage and fair play, tolerance and curiosity, loyalty and patriotism – these things are old. These things are true. They have been the quiet force of progress throughout our history.
『日本経済新聞』(08.1.22付け朝刊 )より
人生に成功するためには、「労働」「公正さ」「寛容さ」「好奇心」「忠誠心」が必要である。
オバマ大統領がどれだけ有名であっても、そう日本の若者に言ったら、「古っ!」と、冷笑され一蹴されてしまうかもしれません。
でも、温故知新という言葉があります。考え方が「古い」というだけで、その考えに何も「価値がない」と判断するのは、その考え方自体が「古い」といえます。
「古い価値観が歴史を動かす原動力」となってきたことは、確かです。多くの「名もなき人の古い価値観」もまた、歴史を前進させてきました。
私が商売の師と密かに思っている人が近所にいました。町にある小さな八百屋さんの店主です。背が小さく短髪で白髪まじりのずんぐりむっくりしたおじさんです。いつも明るく大きな声を出していて、でも、ちょっと口が悪い。いや、かなり毒舌。口は悪いですが、ここの野菜・果物は抜群においしい。
近所の子どもお年寄りたちがお店の前を通ると、声をかけ、いつも何かを話しています。八百屋のおじさんは、人に声をかけ、食を通して多くの人に影響を与え続けていました。
私が八百屋の店主を師と仰ぐように、名もなき人から影響を受けて、人は成長していきます。
親の教え、先輩の教え、上司の教え、年長者の教え、ご先祖さまの教え…。
多くの「名もなき人々」の「教え」によって、多くの人の人生が、かたちづくられているのです。
名もなき人々の声に耳をすませば、人生おける大切な教えは、手に入るものです。名もなき人々の尊い教えに耳を傾けたいものです。
(文:松山 淳)(イラスト:kip)