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上杉鷹山に学ぶ改革の精神

上杉鷹山に学ぶ改革の精神

上杉鷹山とは

なせばなる
なさねばならぬ何事も
ならぬは人のなさぬなりけり

 九代目米沢藩主「上杉鷹山」(うえすぎ ようざん)の言葉ですね。

 この上杉鷹山に関する有名なエピソードがあります。

ケネディ大統領と上杉鷹山

 第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディが、日本記者団に質問をされました。「最も尊敬する日本人は誰ですか?」と。

 するとケネディ大統領は「ウエスギヨウザン」と答えたのです。日本人記者団は「ウエスギヨウザン」のことを知らず、「誰だそれは?」と互いに聞きあったそうです。

第35代アメリカ大統領
ジョン・F・ケネディ

 ケネディ大統領は、上杉鷹山を尊敬していた。

 記者団の逸話は、都市伝説のように語り継がれてきました。これは事実だったのでしょうか。ケネディ大統領が鷹山を尊敬していたのは、本当でした。駐日大使だった娘のキャロライン・ケネディが証言しているのです。彼女は、2014年9月27日に山形県米沢を訪問し、こう語りました。

「私の父(ジョン・F・ケネディ)は、優れた統治、そして公的利益のためには身をいとわなかったことで知られる十八世紀の東北の大名上杉鷹山を称賛していました」

『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』
(童門冬二 いきいきネット株式会社)

 上杉鷹山は江戸時代に、財政危機に瀕していた米沢藩を、その手腕によって立て直した人物です。江戸時代の「藩」は今の「県」ですので、ひどい赤字に陥った「◯◯県」を、短期間で黒字に転換させた「県知事」といったところでしょう。

上杉鷹山は養子

 米沢には上杉博物館もあり、米沢といえば上杉鷹山です。ただ、鷹山は、現在の宮崎県にあった高鍋藩主「秋月種美」の次男として、宝暦元年(1751年)に江戸で生まれているのです。

 ではなぜ、九州の大名の子が東北の米沢藩主になったのでしょうか。

 鷹山の母が4代目米沢藩主「上杉綱憲」の孫娘だったのです。その縁で、 宝暦10年(1760年)に、8代目米沢藩主の養子となり、1767年、9代目藩主になりました。

 藩主になったのは鷹山が17歳の時です。今でいえば、高校生が県知事になったようなもものです。

 江戸中期の藩の財政はどこも逼迫していました。様々な改革がなされるもののうまくいきません。そんな状況で、藩の立て直しに成功しただけでも偉業です。それを10代の若者が、リーダーシップを発揮して成し遂げたところに、鷹山のすごさがあります。

 ケネディ大統領も尊敬するわけですね。

 ちなみに「鷹山」という名は、隠居後の52歳になってから名乗ったもので、養子となった当時は、「治憲」(はるのり)でした。


なぜ、上杉鷹山は米沢藩主になったのか?

 米沢藩が財政難となり鷹山が藩主になるわけですが、では、どれほど危機的状況だったのでしょうか。それがよくわかる歴史的事実は、米沢藩が「版籍奉還」を自ら江戸幕府に願い出ていることです。

 「版籍奉還」といえば、江戸幕府が倒され明治時代になってから、全国の藩が土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政策を思い出します。

まっつん
まっつん

 江戸中期に自ら「版籍奉還」を幕府に申請したとは、つまり、「私たちでは、もうこれ以上、藩を運営していくことはできません。幕府にお返ししますので、あとはもう、幕府のほうでやってください」と、投げ出そうとしたということです。

 自ら「版籍奉還」を願いでる藩は、江戸時代になって初めてのことでした。この申請が受理されていたら上杉鷹山は誕生していませんね。

 上杉家といえば、あの「上杉謙信」の子孫です。幕府としては、そんな名家を潰すわけにはいかず、新しい藩主を立てて改革しようとしました。

 そこで、鷹山に白羽の矢が立ったのです。

 その鷹山が初めて米沢藩に向う途中で、リーダーシップについて考えさせられる逸話があります。その逸話をご紹介したく、『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』(童門冬二 いきいきネット)を参考にしながら、話しを進めます。


鷹山の火種の逸話

『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』の表紙画像
『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』
(童門冬二 いきいきネット)

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 鷹山は江戸で育ちました。明和6年(1769年)、新たな藩主として江戸から米沢に向かいます。藩内に入ると、米沢の風景や人の表情が、疲弊しきっているのがわかりました。国(藩)が荒れると、農民が他藩へ逃げます。荒れた土地だけが残されるのです。

 「ここまでひどいのか!」

 鷹山は、かごに揺られながら、後悔の念をいだきます。「これはとんでもないところに来てしまった」。そんな絶望に近い気持ちで手元をみると、かごの中に煙草盆をみつけます。その中に、灰皿がはいっており、灰皿には灰が入っています。鷹山は、その灰を見て「この灰は今の米沢領内のようじゃないか」と、ますます暗い気持ちになっていきます。

 キセルでその灰の中をいじっていると、小さな火を発見します。その瞬間、鷹山の目は輝きます。かごの中にあった炭箱から炭を取り出し、小さな「残り火」を炭にうつし、新たな火をおこし始めたのです。

 そして、かごを止めるように指示を出し、行列をしていた家来に語りかけました。

上杉鷹山
上杉鷹山

 私は甘かった。そこで、深い絶望感に襲われ、灰をしばらく見つめていた。やがて私は煙管(きせる)を取ってその灰の中をかきまわしてみた。すると、小さな火の残りが見つかった。その火の残りを見つめているうちに、私は、この残った火が火種になるだろうと思った。火種は新しい火をおこす。その新しい火はさらに新しい火をおこす。その繰り返しが、この国でも出来ないだろうか、そう思った。そして、その火種は誰であろう、お前たちだと気がついたのだ。(中略)

 まずお前たちが火種になってくれ。そしてお前たちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移してほしい。城に着いてからそれぞれが持ち場に散って行くであろう。その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸に火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を大きく燃え立たせるであろう。

『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』
(童門冬二 いきいきネット株式会社)

 鷹山の話しを聞きくと、「是非ともその火種を頂きたい」と声があがりました。鷹山は、家来たちがもつ炭に、残り火を移していったのです

 時は1769年、今から、約250年も前のこと。12月半ばの東北。寒さで凍える季節に、赤々とその火が燃え上がりました。

 上杉鷹山、19歳の出来事です。

 その後、鷹山は前藩主に使えていた保守派の人間に徹底的に抵抗されます。組織改革につきものの「抵抗勢力」の登場です。改革は、平坦な道ではありませんでした。しかし、藩士の心に火がつき、鷹山が主導した「大倹約令」などの施策が効を奏して、領内の人間は希望を取り戻し、米沢藩は蘇るのです。


上杉鷹山のリーダーシップ

 大海に朱色のインクを一滴落としても何も変わりません。ですが、火はどんなに小さくても燃え出せば、次から次へと移り勢いをましていきます。

まっつん
まっつん

 ここでお気づきの通り、鷹山は自分自身のもつ火を大きくしようとは考えていません。「私の火種を大きくしろ」と家臣に命令していません。「この火種が家来たちだ」と気づいています。そして火種を家来に移し、それを次から次へと移していってほしいと、お願いしています。

 これが鷹山の「改革の精神」です。それは組織改革にのぞむ際のリーダーのマインドセットといえます。

 自分がドラマの主役なろうとするのではなく、家来たちを主役にする。そう考えると上杉鷹山のリーダーシップ・スタイルは、サーバント・リーダーシップ(奉仕型・支援型リーダーシップ)に通じているといえます。

 『ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山』の著者である歴史小説家「童門冬二」さんは、鷹山の考え方が、ケネディ大統領の、あの有名な就任演説に影響を与えているのではないかと指摘しています。

 米国民の同胞の皆さん、あなたの国があなたのために何ができるかを問わないでほしい。 あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい。 
 同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるのかを考えようではありませんか。

 my fellow Americans: ask not what your country can do for you–ask what you can do for your country.
 My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

AMERICAN CENTER JAPAN(アメリカ大使館)より

 「国民が主役」という直接的な表現はありませんが、政府や大統領ではなく、「国民の皆さんが主役」といっている内容です。この演説が鷹山の影響なのかは、ケネディ大統領に聞くしかありませんが、鷹山の発想に似ていることは確かです。

 上杉鷹山は17歳で藩主になりました。ケネディ大統領は43歳でアメリカ大統領となりました。選挙で選ばれた大統領としては最年少でした。

 ふたりとも名リーダーとして後世に名を残しています。

 リーダーとは、自分がヒーローになろうとする人ではなく、誰かをヒーロにする人である。

 若さが効を奏したのか、上杉鷹山もケネディ大統領も、リーダーに求めらるこの原理原則を守ろうとしたリーダーでした。

(文:松山淳)


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