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日本だけなく世界に多くのファンをもつ漫画に『ドラえもん』(藤子・F・不二雄 小学館)があります。連載開始は1969年。当時、小学生だった読者の中には、現在、60代の人もいます。今も「ドラえもん」人気は衰えません。世代を越えた共通言語になる漫画ですね。
「ドラえもん」は四次元ポケットから「もしもボックス」「暗記パン」「ガリバートンネル」など秘密道具を出して、ドジでのろまな「のび太」を助けます。明るく楽しい物語が中心ですが、子ども心に怖くなった話があります。
『ドラえもん』(第1巻)にある『かげがり』です。
のび太はお父さんに頼まれた草むしりをしたくないからと、ドラえもんの秘密道具で影を切ってもらいます。30分であれば、影は言われたことをします。しかし、30分を経過すると意思を持ち始め、ほぼ2時間でのび太と入れ替わってしまうのです。
のび太は便利な影に様々な雑用を頼み、外へお使いに出します。時間が過ぎ、影は自分の意思で動き始め、のび太の体が暗くなっていきます。影はのび太とは正反対で、すばしっこく狡猾です。暗い屋根裏に隠れ姿を消します。知恵が回るのです。
最後は、のび太のママの影を切り、のび太の影をつかまえてもらい一件落着となります。
幼い私は、「今の自分」が「他の存在」に入れ替わってしまうことに「死」を連想したのだと思います。自分の意識が消えるとどうなってしまうんだろう。そんな疑問と「死」が結びついて怖くなったのだと思います。
「影」の存在を怖がるとは、子どもの妄想として一笑に伏せる話ですが、深夜、薄暗い道を独りで歩いている時、街灯に浮かび上がる「自分の影」を薄み気味悪く感じたことは、大人でも一度か二度はあるものです。
「影」を深層心理学の知識で解釈すると、『ドラえもん』の『かげがり』の話しは、ミドルにおける自己成長のテーマとして大いに学ぶべきものがあります。
「私は、今、私であり、1時間後も明日も明後日も私である」。
当たり前の話しですが、「私」という意識は統一されて連続性があります。「意識できる私」が主体性のある「私」であり、行為の主人です。
起きてご飯を食べている時、食べている行為は、「私がご飯を食べている」と意識することができます。ご飯を食べ終えて、電車に乗って、職場に着き、そして仕事をしている時も、「仕事しているのは『私』だ」と、「仕事という行為の主体は『私』である」と理解することができます。
「当たり前のことを、ぐだぐだ書ているな〜」と首を傾げているかもしれませんが、この「行為の主体が自分である」という感覚が危うくなることが、人にはありますね。
「つい、〜してしまった」が、それです。
「つい、カッとなってしまった」
「つい、手が出てしまった」
「つい〜をしてしまった」のは確かに「私」だけど、「つい」という言葉が付け加えられると、本来であればすべきでない行為をしたのは「本当の私ではない私」なので、責任や罪の度合いは「ちょっと軽減されるようにご検討ください」といった、そんな意味合いが出てきます。
日常場面で「つい〜」は、「すいません、つい〜だったので」「つい〜してしまったので、許してください」と、そんな風に謝罪の文脈で使われがちです。
旦那さんが奥さんの悪口を「つい口走ってしまった」時や、上司が部下に対して「つい、カッとなってしまった」時など、「つい〜しまったので、ごめん」と謝るパターンが、きっと多いでしょう。
「本当の私ではない私」が、つい〜をしてしまう。これは行為の主体が別に存在するということです。
「もうひとりの私」が存在するのです。
「意識」と「無意識」の二層構造を知れば、つい〜してしまう「本当の私ではない私」「もうひとりの私」は説明可能です。
心には意識できない広大な領域=「無意識」があり、「私(意識)」は、「無意識」から常に影響を受けています。
参考 フロイト「意識」「無意識」こころのおはなしつまり、こう答えることができます。
本来の「私」であれば「しない行為」をついしてしまうのは、無意識から働きかけてくる「もうひとりの私」がいるためです。
「つい〜してしまった」ことが、笑い話に終わればいいのですが、言うべきでないことを「つい口走ってしまった」がために、友人を失ったり、左遷されたり、離婚されたりすることがあります。実際に起きることです。
無意識に「つい〜してしまう」ことは、人生を大きく左右するのです。
そう考えると、無意識の働きは、私たちが普段考えている以上に大きな意義とインパクトがあり、よりよい仕事・キャリアを積み重ねていくためにも、もっと意識すべき「心の働き」なのです。
私は人に冷たい人間である。
私は苦しんでいる人を見ると助けたくなる人間だ。
私は感情に流されず合理的に判断する人間だ。
そんな風に、人は「自分がどういった人間なのか」を大まかには把握して生きています。優しい人なのか、厳しい人なのか。外向的なのか、内向的なのか。人それぞれ性格は違っていて、セルフイメージも人それぞれです。
ここでポイントとなるのは次のことです。
つまり「生きられなかった私」が存在している。
例えば、「優しい人」は、その反対となる「厳しい人」として、「情に厚い人」は「情に薄い人」として、生きていないといえます。
今の性格とは、反対の性格タイプが「生きられなかった私」です。
深層心理学者ユングは、この「生きられなかった私」が「無意識」に息づいていると考えました。本来の私とは正反対の性格をもつ私が、無意識のなかで「もうひとりの私」として生きているのです。
参考 ユングについてこころのおはなしこの「もうひとりの私」をユングは「影(シャドー)」と名付けました。
のび太は「ドジでのろまで弱虫」なキャラクターです。
『かげがり』の「影」は正反対でした。すばしっこくて知恵が回り、狡猾です。まさにのび太が「生きられなかった性格」です。ユング心理学で解釈すれば、のび太の無意識に息づく「もうひとりの私」が『かげがり』に出てきた、「影(シャドー)」です。
「影(シャドー)」は正反対ですので、本来の「私」にとって受け入れがたい要素です。それにはネガティブな印象を持ちがちです。
実際に、自分の「影(シャドー)」の性格をもつ人を前にすると、無性に腹がたったり、イライラしたりします。逆に、頭があがらなく、必要以上にへつらってしまうこともあります。そして後になってから、「どうしてあんな奴に、あんな態度を、ついとってしまったのだろう」と、嫌な思いがこみ上げてくるのです。
コントロールがきかず、「つい」そうしてしまう。
それが「影(シャドー)」の働きです。その時、意識すべきことは、次のことです。
そんな風に、「影(シャドー)」を否定せず、切り捨てせず、肯定的かつ受容的な心の姿勢をもって考えることで、「影(シャドー)」は、自己成長に生かしていくことができます。
ユングは中年期の「心の発達」を研究した学者として有名です。
ミドル期(35歳〜50歳)を人生の転換点と位置づけ「人生の正午」と呼びました。結婚して家庭を築き、会社では管理職となり部下を持ち、親は年老いていく。背負うべき責任は増え、様々な出来事が次から次へと波のように押し寄せてきます。
「人生の正午」では、「これまで生きてきた私」ではとても対応しきれないような感覚に襲われます。まさに「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」です。実際、様々な組織でミドル層のメンタル不調者は数多く存在します。
ユングは、「人生の正午」に訪れる様々な「心の危機」を通して、「今の私」に「もうひとりの私」、つまり無意識に息づく「影(シャドー)」が統合されていくことによって、ひと回りもふた回りも大きな人間へと成長していくと考えました。
「影」(シャドー)の存在は、夢に出てくることがあります。ユングの夢分析では、シャドーは自分と同じ性の他の存在と考えます。男性であれば男性の誰かで、女性であれば女性の誰かです。
例えば、あなたが男性で、性格的に自分とは正反対の男の人が夢に出てきて、その男を前にして、やけに卑屈になっていたり、言い合いをしていたり、逃げ回っていたりしたら、その存在は「影」(シャドー)の可能性が高いわけです。
自分とは異なる資質を持った存在ですので、夢に出てくると、感情的に乱されることが多く、否定したくなります。
ですが、これまで否定してきた「影(シャドー)」を味方として自分に受け入れることが中年期の課題なのです。
「影(シャドー)」の統合を拒否し、心の発達をとめてしまう人は、心の半面だけで生きることになります。すると考え方が偏り、他人を受容できず、「自分が正しい」と自己の価値観に過剰なまでに固執するという偏屈な性格的特徴を見せます。
こうした柔軟性を失ったミドル・マネジャー(管理職)が増加すれば、「影(シャドー)」が野放しになり、組織の硬直化という病も進行していくことになります。
国際的性格検査MBTI®など、何らかのアセスメントを活用すれば、個人の強みと同時に、「影(シャドー)」を明らかにすることができます。
私もMBTI®を活用した個人セッションや研修を行っていますので、ご興味ある方は、リンクのページをのぞいてみてください。かの世界的組織心理学者ロバート・キーガンが認める世界で活用されているMBTI®です。
スキルを習得することが主流の時代ですが、「人格的な成長」を促すためには、「生きられなかったもうひとりの私」を発見することも大切です。
「成人発達理論」の観点からも、「人格的な成長」を重視する潮流が大きくなっています。
のび太のママの如く、勇敢な「かげがり」が、自分にも組織にも好影響を及ぼします。
(文:松山淳)
参考文献:『ドラえもん』第1巻(藤子・F・不二雄 小学館)