「自他一如」とは、「自分と他人とはそもそもひとつ」といった意味。2019年、現役を引退したイチロー選手。日本とアメリカで歴史に刻まれる記録を樹立し野球界のレジェンドとなった。インタビューや記者会見で繰り出すイチロー選手の言葉にふれると、彼の成長プロセスに「自他一如」の痕跡が見られる。イチロー選手の言葉とともに「自他一如」を考える。
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イチロー選手の名言は数多くありますが、メディアでよく目にするのが次の言葉です。
とんでもないところに行くただひとつの道
出典:『イチロー 262のメッセージ』(ぴあ)
2004年10月、イチロー選手は258本目のヒットを打ち、1920年にジョージ・シスラーが打ち立てた「大リーグシーズン最多安打記録」を塗り替えました。この時のインタビューで口にした言葉です。
イチロー選手は、マスコミの取材に対して非常に神経質で、メディアへの露出を控えていました。それは、マスコミの書き立てる言葉によって、自分の心が乱され、パフォーマンスの下がることを恐れていたからです。実際、プロスポーツの世界で、メディアから聞こえてくる評価に左右されて、スランプに陥ってしまう選手もいます。
イチロー選手は、2002年に、こんなことを言っています。
自分が幸せに感じられる、嬉しく感じられるとは思いません
出典:『イチロー 262のメッセージ』(ぴあ)
「自分は自分であり、他人は他人。他人によって自分の感情が影響を受けることはない」。上の言葉からは、そんな思いをくみ取れます。自分に対して極めてストイックなイチロー選手らしい考え方です。何を口にするかは、その時の心境に大きく左右されます。記者に詰め寄られて、本意ではない時もあります。
ただ、「自分以外の人たち」という言葉には、「自他一如」の精神は感じられず、「自分」と「他人」とは別ものであり、その2つを切り分けてようとする強い意志を感じます。
そのイチロー選手が、プライベートを含めて、自分の姿を初めてメディアにさらけ出したのが、2008年1月2日放送の「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」でした。
それまで謎につつまれていたイチロー選手のプライベート映像に多くのファンが驚きました。イチロー選手が、世間に私的な部分を含めて「素の自分」を見せたのは、心境に大きな変化があった証です。
自分を内に内にと閉じるのではなく、外へ外へと開き、自己を明け渡していく。それは「自分と他人とはそもそもひとつである」という「自他一如」の精神への目覚めともいえます。
時は流れ2013年、ヤンキースの一員になっていたイチロー選手は、8月21日のブルージェイズ戦で、日米通算4000本安打の記録を達成します。この時の記者会見でイチロー選手は、こう言っていました。
自分以外の人たちが特別な瞬間を作ってくれるものだというふうに強く思いました」
出典:【日米通算4000本安打達成のイチローが会見(全文掲載)/一問一答】『yahooニュース』
2002年、イチロー選手が29歳になる年、「自分以外の人たちが作る状況によって、自分が幸せに感じられる、嬉しく感じられるとは思いません」と発言していました。若き日のイチロー選手です。
2012年、長年プレーしたマリナーズを離れ、ヤンキースに移籍。その後、決して満足のいく結果を残せなかった辛いの日々を乗り越え、間もなく40という年齢になる年での、4000本安打。
出典:【日米通算4000本安打達成のイチローが会見(全文掲載)/一問一答】『yahooニュース』
2002年から10年の時が流れ、ここでも「自分以外の人」と言っています。イチロー選手にとって「自分」と「他人」との関係をどう作っていくかは、個人心理学の創設者アルフレッド・アドラーが言う「ライフ・タスク」(人生の課題)だったのかもしれません。
「他人の存在」「他人との関係性」が、自分の向き合うべき「ライフ・タスク」(人生の課題)だったからこそ、偉大な記録を樹立した時に強く感じた「自己成長の痕跡」として「自分以外の人たちが特別な瞬間を作ってくれるもの」という「自他一如」の精神を感じさせる言葉が生まれたのではないでしょうか。
それはイチロー選手が、「心の成長」を成しとげた大きな証拠でもあります。
ヤンキースに移籍した後のイチロー選手は、100%先発出場できたわけではありません。控えに回り、ベンチを温めることもありました。絶頂期のイチロー選手の姿はそこにありませんでした。
2008年「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」に登場したイチロー選手は、よく笑っていました。渡米して2001年以降、大リーグにおけるシーズン安打記録を次から次へと塗り替え最大級の賛辞を送られていた時期です。
ところが2012年に映し出されたイチロー選手は、まさに「苦悩する人」でした。インタビューに答える言葉は重く、険しい表情をして、自身のスランプについて語っていました。
イチロー選手にとってその時期は、心理学でいう「中年の危機」(ミッドライフ・クライシス)だったと言えます。「中年の危機」とは、中年期(30代〜50代)に多発する「心の危機」のことです。もちろん全て人が「心の危機」に陥るわけではありません。
人はミドル期に、それまでの自分では「乗り越えられない」と痛感する辛く苦しい経験をすることがあります。
会社ではポジションがあがります。部下を持ちチームをまとめるリーダーとなります。責任が重く人間関係でのストレスも増えます。プライベートでは結婚し子どもが生まれ、家のことも考えなくてはなりません。親は老いていき、自分の体力も少しずつ落ちていきます。
それらの複雑な状況に遭遇して、時に「心の危機」に陥るわけですが、それはデメリットばかりではなく、その危機を乗り越えようと必死になっている時に、心を成長させるのだとされています。
ピンチがチャンスをつくり出すように、危機を通して人は成長をとげ、人間的資産をつくり上げていきます。フランスの精神科医エレンベルガーは、「中年の危機」での経験を「創造の病」(Creative illness)と表現します。
失うものがあれば、得るものがあります。壊れるものがあれば、創られるものがあります。それを逆から考えれば、「得るためには何かを失わなければならず、創るためには何かを壊さなければいけない」と言えます。
「自分は自分。他人は他人」と「自分」と「他者」との関係を両断する考えの持ち主であれば、その考え方が壊されて、「自分と他人はそもそもひとつ」という「自他一如」の思想へと導かれていくのです。
それは「死と再生」の連続的なプロセスであり、人生における「心の危機」は、大きな飛躍の時でもあると考えることが「自己成長」の秘訣です。
人は生涯、成長していく存在です。「成長衝動」があり、常に「成長しよう、成長しよう」と心は動いています。心には「顕在意識」と「無意識」の領域があります。「顕在意識」では、「別に成長しなくていいよ」と別のことを考えます。ですが「無意識」にある「成長衝動」は消えません。
「成人発達理論」の進展によって、大人になっても、死ぬまで「人の心」は成長していくものと考えられています。
2019年3月21日、イチロー選手は引退を発表しました。東京ドームで行われたアスレチックス戦の後のことでした。球団側が「引退決断のチャンスを与えたのではないか」と疑いたくなる日本での開幕シリーズでした。
イチロー選手は、現役プレイヤーとしてのフィジカル的、スキル的な成長は止まったかもしれませんが、人間としての成長は続きます。
2018年、古巣のマリナーズに戻ったイチロー選手は、現役のプレイヤーとして練習しながら、試合には出場できない「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」というポジションにつきました。なんとも微妙な立ち位置です。誰より「野球のプレー」を愛していたイチロー選手にとって、スランプとはまた違う苦しみがあったでしょう。
引退記者会見で「生きざまでファンの方に伝わっていたらうれしいことは」と尋ねられたイチロー選手はこう答えています。
出典:【イチロー節全開84分深夜の引退会見/全文一気読み】『日刊スポーツ』(2019年3月22日13時57分)
これがイチロー選手の「生き様」であり、イチロー流の自己成長の考え方と言えます。「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」をグランドで過ごした日々は「遠回りすることで、本当の自分に出会える」経験であったでしょう。これに近い言葉を若き日のイチロー選手は、矢沢永吉さんとの対談で口にしていました。
出典:『イチロー×矢沢永吉 英雄の哲学』(イチロー、矢沢永吉 ぴあ)p124
この本は、2006年3月民放BSで放送された特別番組を元に編集されて出版されました。2006年と言えば、イチロー選手はまだ32歳で、野球のW杯とも言えるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に出場し優勝した年です。この頃から、イチロー選手の「自己成長」の哲学は変わっていないのですね。
イチロー選手が引退会見で口にした言葉「後悔などあろうはずがありません」が話題となり2019年の流行語大賞の候補になりました。
この言葉には前段があります。「今日のあの、球場での出来事、あんなもの見せられたら後悔などあろうはずがありません。」
「球場での出来事」とは、引退を発表した試合の後、球場に残った大観衆からの鳴り止まないエールです。5万人近い人たちがイチロー選手の偉業を讃え歓声を送りました。その声に包まれたイチロー選手は「自分と他人との境目」がなくなるような「自他一如」の経験をしたのではないでしょうか。
イチロー選手の「心」にとって、最高の贈り物となったはずです。
人が成長していく道の途中には、遠回りのように思える厳しい試練が待ち受けています。ですが、少しずつ積み重ね地道に進むしかないのです。イチロー選手のこの言葉を思い出して…。
とんでもないところに行くただひとつの道
出典:『イチロー 262のメッセージ』(ぴあ)p
遠回りしてでも「ちいさないことをかさねて」、「本当の自分」に出会えたら、それが「後悔などあろうはずがありません」と胸に張って言える人生の最善の道なのです。
(文:松山 淳)