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クルト・レヴィンの功績

クルト・レヴィンの功績

 「社会心理学の父」。そう呼ばれることもあるクルト・レヴィン(Kurt Lewin 1890―1947)。彼はドイツとアメリカを拠点に活躍した社会心理学者です。

 「よい理論ほど実際に役に立つものはない」

 そんな名言を残しています。

 レヴィンの研究は、「ベルリン大学」「アイオワ大学」「MIT(マサチューセッツ工科大学」の3つの時期に分けられます。「場の理論」、「グループ・ダイナミクス」(集団力学)、「アクション・リサーチ」(実践研究)、「Tグループ」など、レヴィンが編み出した理論やノウハウは、後世の人々に大きな影響を与えました。

 このコラムでは、レヴィンの業績を3つの時期にわけて整理し、彼の功績をふりかえっていきます。参考図書はこちらの3冊です。

 ✳️『クルト・レヴィン』(A. J. マロー 、 訳:望月衛 、宇津木保 誠信書房)
 ✳️『社会的葛藤の解決―グループ・ダイナミックス論文集 (1954年)』 (クルト・レヴィン 訳:末永現代社会科学叢書)
 ✳️『社会科学における場の理論』(クルト・レヴィン  訳:猪股 佐登留 誠信書房)

 それでは、クルト・レヴィンを探求する「知の旅」に出発です!


クルト・レヴィンの誕生

 クルト・レヴィン(Kurt Lewin)は、1890年9月9日生まれです。出身地はポーランド領であったプロシアのボーゼン県モギルという村。彼の父は雑貨店を営んでいました。レヴィンは4人兄弟の次男です。姉はヘルタで、弟はエゴンとフリッツでした。

 レヴィン一家は、富豪や貴族ではありませんでしたが、貧困に苦しむということのない中産階級の家庭でした。ただ、ユダヤ人でした。レヴィンが幼い頃にも、反ユダヤ主義の風潮があり、公然と差別を受けていました。この事実は、レヴィンが社会的問題を実際に解決する研究手法(アクション・リサーチ)に重点を置く動機づけになったと考えられます。

ドイツの首都ベルリンへ

 レヴィンの両親は教育熱心でした。レヴィンは小学生の時から親戚の家に下宿し、県の首都にある学校に通っています。15歳になった1905年には、親戚がベルリンに引っ越したため、ベルリンのアウグスタ皇后高等学校に進学します。

 ドイツの首都ベルリンで教育を受けたことは、レヴィンのキャリアに大きな影響を与えます。なんといっても当時のベルリンは、世界から注目される「学問の首都」だったのですから…。

 レヴィンは、1909年4月フライブルグ大学の医学部に在学します。ですが、解剖学の授業が嫌で、生物学に興味をもち、1909年10月ミュンヘン大学に移ります。さらに、1910年にはベルリン大学に移り博士号を取得。次から次へと大学を変わるのは、自分の興味をもてないことには早々と見切りをつける、可能性を常に探索する外向的な性格だったからでしょう。

クルト・レヴィン
クルト・レヴィン
(Kurt Lewin 1890―1947)

 ベルリン大学では哲学の科目をとり、科学理論に興味をもつようになります。博士号をとるためには論文を書かねばなりません。その時の担当教官(カール・シュトゥムプ)が「心理学についても当てはまるかどうか考えてみるといい」と示唆したことがきっかけで、心理学に傾倒していきます。

 当時の「心理学」は、「哲学」という巨大な知識体系に含まれる一分野にすぎませんでした。人間の心を探求するために「科学的に実験をする」という雰囲気ではなかったのです。

 ですが、担当教官のカール・シュトゥムプは、心理学の可能性を押し広げる考えの持ち主でした。シュトゥムプは「音響心理学」の創始者です。そんなフロンティア・スピリッツにあふれた先生の影響を受けたことは、レヴィンの「型破り」な発想の原点になったといえるでしょう。

従軍体験…そして結婚

 1914年、レヴィンは兵役に志願します。その直後、第一次世界大戦が勃発。彼は4年もの間、軍隊に所属し戦地にも赴いています。戦争を経験した人がよくそう言いますが、レヴィンも行軍の時には歩きながら眠ることができたそうです。

 彼は反軍国主義者でした。でも、戦争に対して後ろ向きにならず、戦地での経験を「戦場の風景」という論文にまとめ出版しています。それが1917年のことです。その年、レヴィンは最初の妻マリア・ランズベルグと結婚。1919年、長女アグネス、1922年には長男フリッツが生まれ、2人の子どもに恵まれます。

 4年間の従軍を終えたレヴィンは、ベルリン大学に復学。いよいよ、研究者としての独創性が花開くことになります。

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