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クルト・レヴィンの功績

クルト・レヴィンの功績

 「社会心理学の父」。そう呼ばれることもあるクルト・レヴィン(Kurt Lewin 1890―1947)。彼はドイツとアメリカを拠点に活躍した社会心理学者です。

 「よい理論ほど実際に役に立つものはない」

 そんな名言を残しています。

 レヴィンの研究は、「ベルリン大学」「アイオワ大学」「MIT(マサチューセッツ工科大学」の3つの時期に分けられます。「場の理論」、「グループ・ダイナミクス」(集団力学)、「アクション・リサーチ」(実践研究)、「Tグループ」など、レヴィンが編み出した理論やノウハウは、後世の人々に大きな影響を与えました。

 このコラムでは、レヴィンの業績を3つの時期にわけて整理し、彼の功績をふりかえっていきます。参考図書はこちらの3冊です。

 ✳️『クルト・レヴィン』(A. J. マロー 、 訳:望月衛 、宇津木保 誠信書房)
 ✳️『社会的葛藤の解決―グループ・ダイナミックス論文集 (1954年)』 (クルト・レヴィン 訳:末永現代社会科学叢書)
 ✳️『社会科学における場の理論』(クルト・レヴィン  訳:猪股 佐登留)

 それでは、クルト・レヴィンを探求する「知の旅」に出発です!


クルト・レヴィンの誕生

 クルト・レヴィン(Kurt Lewin)は、1890年9月9日生まれです。出身地はポーランド領であったプロシアのボーゼン県モギルという村。彼の父は雑貨店を営んでいました。レヴィンは4人兄弟の次男です。姉はヘルタで、弟はエゴンとフリッツでした。

 レヴィン一家は、富豪や貴族ではありませんでしたが、貧困に苦しむということのない中産階級の家庭でした。ただ、ユダヤ人でした。レヴィンが幼い頃にも、反ユダヤ主義の風潮があり、公然と差別を受けていました。この事実は、レヴィンが社会的問題を実際に解決する研究手法(アクション・リサーチ)に重点を置く動機づけになったと考えられます。

ドイツの首都ベルリンへ

 レヴィンの両親は教育熱心でした。レヴィンは小学生の時から親戚の家に下宿し、県の首都にある学校に通っています。15歳になった1905年には、親戚がベルリンに引っ越したため、ベルリンのアウグスタ皇后高等学校に進学します。

 ドイツの首都ベルリンで教育を受けたことは、レヴィンのキャリアに大きな影響を与えます。なんといっても当時のベルリンは、世界から注目される「学問の首都」だったのですから…。

 レヴィンは、1909年4月フライブルグ大学の医学部に在学します。ですが、解剖学の授業が嫌で、生物学に興味をもち、1909年10月ミュンヘン大学に移ります。さらに、1910年にはベルリン大学に移り博士号を取得。次から次へと大学を変わるのは、自分の興味をもてないことには早々と見切りをつける、可能性を常に探索する外向的な性格だったからでしょう。

クルト・レヴィン
クルト・レヴィン
(Kurt Lewin 1890―1947)

 ベルリン大学では哲学の科目をとり、科学理論に興味をもつようになります。博士号をとるためには論文を書かねばなりません。その時の担当教官(カール・シュトゥムプ)が「心理学についても当てはまるかどうか考えてみるといい」と示唆したことがきっかけで、心理学に傾倒していきます。

 当時の「心理学」は、「哲学」という巨大な知識体系に含まれる一分野にすぎませんでした。人間の心を探求するために「科学的に実験をする」という雰囲気ではなかったのです。

 ですが、担当教官のカール・シュトゥムプは、心理学の可能性を押し広げる考えの持ち主でした。シュトゥムプは「音響心理学」の創始者です。そんなフロンティア・スピリッツにあふれた先生の影響を受けたことは、レヴィンの「型破り」な発想の原点になったといえるでしょう。

従軍体験…そして結婚

 1914年、レヴィンは兵役に志願します。その直後、第一次世界大戦が勃発。彼は4年もの間、軍隊に所属し戦地にも赴いています。戦争を経験した人がよくそう言いますが、レヴィンも行軍の時には歩きながら眠ることができたそうです。

 彼は反軍国主義者でした。でも、戦争に対して後ろ向きにならず、戦地での経験を「戦場の風景」という論文にまとめ出版しています。それが1917年のことです。その年、レヴィンは最初の妻マリア・ランズベルグと結婚。1919年、長女アグネス、1922年には長男フリッツが生まれ、2人の子どもに恵まれます。

 4年間の従軍を終えたレヴィンは、ベルリン大学に復学。いよいよ、研究者としての独創性が花開くことになります。


ベルリン大学時代

 1920年代、ベルリン大学にいたレヴィンは幸運でした。なぜなら、心理学の新潮流「ゲシュタルト心理学」の創始者たちがいたからです。

 『心理学史』(大芦治 ナカニシヤ出版)によると、ゲシュタルト心理学の創始者は3人います。

ゲシュタルト心理学の創始者
❶ウェルトハイマー(Max Wertheheimer 1880-1943)
❷コフカ(Kurt Koffka 1886-1941)
❸ケーラー(Wolfgang Köhler 1887-1967)

 上の3人のうち、ウェルトハイマーとケーラーがベルリン大学の教授として働き、「ゲシュタルト心理学」の興隆を支えていました。

ゲシュタルト心理学とは

 「ゲシュタルト心理学」については話し出すと長くなりますので、「それまでの心理学」との違いだけ簡単に…少しだけ寄り道をします。

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まっつん

 心には、心を構成する要素(部分)があり、その要素を組み合わせることで「心」ができあがる。これが「それまでの心理学」です。「部分」(要素)への分解を重視する心理学です。これに対して「ゲシュタルト心理学」は、「部分」ではなく「全体」に着目します。人は「部分」を寄木細工のように集めて現実を認識するのではなく、最初から「全体」をとらえていると考えるのが「ゲシュタルト心理学」です。

 ゲシュタルト(Gestalt)はドイツ語です。ドイツ語で「形態」を意味します。「形態」というと日本語では主に「形」を意味しますね。でも、ドイツ語で「ゲシュタルト」(形態)といった時には、「部分が相互に影響を及ぼしながら全体を創り上げている形態」といった複雑な意味が含まれるそうです。

 ですので、「ゲシュタルト」といった時の「全体」は、部分を単純に足したものではなく、「部分の要素を単純に足していった以上のもの」と考えるのです。「それまでの心理学」「たし算」的な思考であれば、「ゲシュタルト心理学」は「かけ算」的思考といえます。

 この事例は、音楽を考えるとわかりやすいですね。

人は「曲」という全体を聴く

 例えば、ロックバンドが演奏しています。ギターがいて、ベースがいて、ドラムがいて、キーボードがいます。それぞれの楽器を単独で弾いてもらい聞くと、それは「曲」(全体)にはなっていません。「曲」(全体)の部分(要素)ですね。それらの楽器が同時に奏でられると、音に調和(ハーモーニー)が生まれ「曲」(全体)となって私たちの耳に届きます。

 私たちは特別に意識しなければ、「曲」(全体)を聞くのであって、ギターだけ、ベースだけと、部分(要素)を聞くのではありません。

 ゲシュタルトにはドイツ語ならではの深い意味があるため、ゲシュタルト心理学が米国で紹介された時に、英語に訳されずドイツ語のまま「ゲシュタルト心理学」(Gestalt psychology)と呼ばれました。日本でも米国にならって「ゲシュタルト心理学」と訳され、今に至っています。

 さてさて、寄り道が長くなりました。「ゲシュタルト心理学」の話しはこれぐらいにして、「社会心理学者の父」レヴィンに話しを戻しましょう

トポロジー心理学と場の理論

ゲシュタルト心理学の創始者マックス・ウェルトハイマー(Max Wertheheimer)
ゲシュタルト心理学の創始者
マックス・ウェルトハイマー
(Max Wertheheimer)

 レヴィンは「ゲシュタルト心理学」に大きな影響を受けます。その創始者ウェルトハイマー教授が同じ大学にいたのですから無理もありません。しかもレヴィンとウェルトハイマーは同じ心理学研究室だったのです。日本の心理学の本を読むと、クルト・レヴィンを「ゲシュタルト心理学」の一派にポジショニングしている文献もあります。

 レヴィンが発明した心理学は「トポロジー心理学」です。これは彼独自の彼が発明した心理学です。ベルリン大学時代の最大の功績といえます。

 「トポロジー」とは「位相数学」「位相幾何学」のこと。レヴィンは、それまでの心理学に数学的思考を取り入れ、より科学的、力学的に「人間の心」を説明しようとしました。その表現の特徴は、図形や矢印を多用することです。人間と環境の関係性や心模様を図式化して説明するのが「トポロジー心理学」であり、彼の発明です。

 「トポロジー心理学」の根底には「場の理論」という考え方があります。「場の理論」は、「それまでの心理学」に対する「反抗精神」から生み出されたものであり、それは同時に、ゲシュタルト心理学の考えを取り入れたものです。

 当時の心理学には2つの大きな流れがありました。ひとつは個人の心を分析するフロイトの「精神分析学」です。もうひとつは、人間の感情ではなく行動にひたすら焦点あてる「行動主義心理学」です。これは実験室にこもってラット(ねずみ)や犬を対象にして研究することもあります。有名な条件反射の研究「パブロフの犬」は、「行動主義心理学」に組み込まれます。

 さてさて、レヴィンの主張はこうです。まず、フロイトの精神分析学に対して…。

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レヴィン

 「精神分析は心の中を分析している。それではダメだ。人は人間同士で互い影響しあっているし、その人がいる「場」という「環境」からも常に影響を受けている。だから人や環境との関係性にもっと目を向け、その人のが生きている「場」を考えていかなければならない」

 レヴィンは、人と環境が互いに関係しあい、依存しあっていると考えました。人間だけでなく「人間と環境」という「全体」に意識を向けるわけです。これが、「ゲシュタルト心理学」の影響です。

 次にスキナーの行動主義心理学に対して…。

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レヴィン

「行動主義の心理学者たちは実験室の結果を重視する。実験室は特別な空間であり、もっと普段の生活の場(生活空間)を研究しなければならない「生活空間」を研究することで、真の意味で、人の心が理解できるのだ。

  ここでいう「生活空間」とは、家のなか=「家庭」だけを意味するのではありません。働く人にとっては「職場」が「生活空間」です。人々が生きる「街」「地域」「社会」も「生活空間」であり、レヴィンの考える「場」です。「生活空間」という「場」を研究し理論化するので「場の理論」というわけです。

 「生活空間」とさらりと書いていますが、「生活空間」「トポロジー心理学」の重要ワードです。

 1920年代、レヴィンの初期の論文には、「科学的管理法の父」と呼ばれた経営学者テイラー(フレデリック・ウインスロウ・テイラー)に関するものがあります。テイラーといえば経営学の源流に位置する重要人物ですね。レヴィンは早くから、心理学を産業(ビジネス)の分野にも応用しようとしていたのです。

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まっつん

 詩人寺山修司に「青年よ、書を捨て街に出よ!」という名言があります。これをもじれば、「心理学者よ、実験室を捨て、街に出よ!」ですね。

 さて、「場の理論」を根底におく「トポロジー心理学」は、数学的思考や図形の独特な表現が本質になるのですが、その領域に入るととても難しくなり、文系の私は理解が不十分ですので、ここでは話しを避けます。

 ベルリン時代の功績として「トポロジー心理学」を確立したことと、「ゲシュタルト心理学」の影響を受けていた点をおさえておいてください。

 それから、レヴィンが実験室ではなく「生活空間」という「現場」を重視したこともですね…。

 この「現場志向」の研究姿勢が、「アクション・リサーチ」や「グループ・ダイナミクス」を生み出していくのです。

 それではベルリン大学を離れ、アメリカへ向かいましょう!


ナチスの台頭、そして米国へ。

 1921年、レヴィンはベルリン大学の講師に任命されます。彼は人の気持ちを上手に動かす講義をする教師でした。高い評価をされるようになり、何年間かにわたって心理学科の学生を指導しています。

 レヴィンは、外向的な性格の持ち主でした。とても明るく話し好きで、人をひきつける人間性をもっていました。学生に対しては、上から命令ばかりするような威厳的なリーダーシップ・スタイルではありませんでした。学生たちの考えを上手に引き出し、彼ら彼女らのアイディアを広げ、学生が主役になるように導く、今でいう「サーバント・リーダーシップ」を発揮していました。

 そんなレヴィンの指導のもと、学生たちは優れた論文を書くようなります。

レヴィンの弟子が「ツァイガルニク効果」を提唱

 特に有名なのは「ツァイガルニク効果」です。

 レヴィンの指導学生だったブルマ・ツァイガルニクが確立した理論ですね。ツァイガルニク効果」とは、成し遂げていない未完の課題のほうが、やり終えた課題よりも記憶に残りやすいというものです。

 実験は1924年から1926年にかけて行われました。「ツァイガルニク効果」は、心理学の歴史に残る概念です。

 1927年、レヴィンはベルリン大学で「員外教授」に任命されます。「員外教授」とは聞き慣れない言葉です。実は、この言葉にユダヤ人への差別があります。ユダヤ人が昇進できる最高のポジションが「員外教授」だったのです。

 大学内でのポジションは残念な事実ですが、「トポロジー心理学」だけでなく学生たちの仕事も充実していくことで、レヴィンの名声は高まっていきました。

 アメリカの心理学誌に紹介され、1929年、米国イエールで行われる国際心理学会の集会に招かれ講演をしています。この時、映画を上映しながら「トポロジー心理学」について解説しました。自分の子どもが大きな石に座る様子を収めた映像です。

 レヴィンの講演を聴いた著名な心理学者ゴードン・オールポートは、次のように高く評価しました。

「この巧みな映画はいく人かのアメリカの心理学者たちに対して、知的行動や学習の性質についての彼らの理論を修正させる決定的な力をもっていた」

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p83

ナチスの台頭とユダヤ人の危機

 1930年代、レヴィンの研究は充実していくものの、ユダヤ人にとってドイツ国内は、不穏な空気に包まれようになっていきます。

1938年、ナチス式敬礼でドイツ兵を歓迎するチェコスロバキア・ザーツにおけるドイツ系住民
1938年、ナチス式敬礼でドイツ兵を歓迎するチェコスロバキアザーツにおけるドイツ系住民
Author:Bundesarchiv, Bild 146-1970-005-28 / CC-BY-SA 3.0

 ナチスの台頭です。「ドイツよ目を覚ませ!ユダヤ人は出ていけ」と声をはりあげる集会が開かれ、人々が行進するようになったのです。レヴィンはユダヤ人です。1930年、大学で暴動が起き、ユダヤ人の学生が殺されています。

半年間、米国スタンフォード大学へ

 その頃、スタンフォード大学から客員教授(6ヶ月間)の話しがきます。ドイツにいては危険です。そこで1932年5月、レヴィンはアメリカに渡ります。

 この客員教授の期間が終わり、ドイツに戻る帰路で、日本に立ち寄っています。ベルリン大学では、レヴィンの研究室に日本人が留学していました。その時の学生だった佐久間氏に会ったのです。佐久間氏は、九州大学の教授になっていました。

 日本での滞在を終えた後、シベリアを横断してモスクワ経由でドイツに帰国する予定でした。モスクワで、ヒトラーが首相になったことを知ります。レヴィンはドイツで暮らすことを断念。米国の知人に仕事を紹介してもらうように頼みまました。

米国コーネル大へと渡米し「ユダヤ人救済」の日々

 そしてラッキーなことに「コーネル大学」から、教授団に加えるという報を受け取ります。そうして1933年の秋、ナチスの迫害から逃れるようにレヴィンは家族で米国で暮らすようになるのです。

 歴史に「もし」はありませんが、米国に行くことがなければ、レヴィンはナチスの強制収容所に入れられ、殺されていたかもしれません。レヴィンの母親は悲しいかな、そうした末路をたどりました。

 「コーネル大学」で児童に関する研究はするものの、この時期(1934年〜1935年)のレヴィンは、「ユダヤ人の救済」に意識が向いていました。ドイツではユダヤ人迫害の風潮が強まるばかりです。そこで、アメリカの財団に援助を求め、国際的な研究計画を提案するのに奔走していたのです。その計画は、ユダヤ人がナチスの迫害から逃れた後の生活苦を緩和するためのものでした。

 残念ながら、その計画が実現されることはありませんでした。ただ、この研究計画は、社会にある問題を分析し、その問題を現実的に解決していこうとする手法ですので、レヴィンの代名詞といえる「アクション・リサーチ」(実践研究)の原点となりました。

 そして、コーネル大学の任期(2年間)が終わろうとしている時、「ユダヤ人救済」の仕事で知り合った財団の人脈によって、「アイオワ大学」へ行くことが決まります。

 レヴィンの研究生活にとって黄金期と言える「アイオワ研究時代」の始まりです。


 

アイオワ大学時代。

 アイオワ大学にいたのは1935年〜1944年までの9年間です。

 レヴィンは学生に囲まれ、様々な研究成果をあげていきます。1940年頃までには、実験心理学者・理論心理学者としての名声を確立していました。

 では、アイオワ大学時代でどんな功績があったのでしょう。

 ここでは、アイオワ大学時代の成果として著名な2つの研究について、簡単にお話ししていきます。ひとつ目は、❶「民主的および独裁的リーダーシップ」です。ふたつ目は、❷「米国人の食習慣の研究」です。

レヴィンのアイオワ研究
 ❶「民主的および独裁的リーダーシップ」
 ❷「米国人の食習慣の研究」

 それでは、順番に説明していきます。まず最初に「民主的および独裁的リーダーシップ」についてです。

「民主的および独裁的リーダーシップ」

 これはリーダーシップの教科書によく出てくる研究ですね。

 少年たちが行うグループ課題に対して、その場にいる監督者がリーダーシップ・スタイルを「民主型」「専制(独裁)型」「放任型」の3種類に分けて発揮します。すると、課題の成果や少年たちはどうなるでしょう。これが研究内容です。

 この研究はレヴィンではなく、学生であるロナルド・リピット(Ronald Lippitt)が考え出したものです。リピットは、当時のことを、こう話しています。

私は彼(レヴィン)に自分が今まで観察して来て特に関心を深めたリーダーシップこのことや、さまざまな集団作業状況について話し、またいろいろな種類のリーダーシップの影響について研究する際の私の着想について話しました。彼はほとんど即座にこれに乗り気になり、私たちは間もなく独裁制と民主制のふたつをとりあげようというこになりました。彼(レヴィン)は私に子どもの集団について独裁的なリーダーと、民主的なリーダーとを比較する試案を書いてみるようにすすめました。

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p214
※(レヴィン)は本コラム執筆者「松山」が追記

 ここに書かれている通り、最初の実験計画は「民主型」「専制(独裁)型」だけでした。のこの研究計画をリピットがまとめた後、ラルフ・ホワイト(Ralph K. White)がアイオワ大学に特別研究員としてやってきました。

 リピットのリーダーシップ研究はホワイトが望んでいた研究に近いものでした。ホワイトは、リーダーシップ・スタイルの幅を広げる提案をします。そうして「民主型」「専制(独裁)型」「放任型」の3タイプとなっていくのです。

 実は「放任型」が生まれたのは偶然の産物でした。それは、集められた11歳の少年たちに対してミーティングを行っている時のことです。研究員ホワイトが「民主型」でふるまっていたのものの、彼はうまく「民主型」を演じられなかったのです。それを見ていたレヴィンが子どもたちの反応を見て違いに気づき、「放任型」を考え出したのです。

 実験は1938年に行われます。結果はご想像の通りです。

  • 「専制(独裁)型」のリーダーがいる時には、少年たちは不満をもち、攻撃的になったり無関心で冷淡になりました。
  • 「民主型」リーダーに率いられる時には、少年たちは互いに協力し楽しい雰囲気でで課題に取り組んでいました。
  • 「放任型」リーダーに統率されたグループは、大きな不満を示すことはありませんでしたが、課題の成果は平均的なものにとどまりました。

 実験を観察していたレヴィンは、自身の論文のなかで、こう述べています。

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レヴィン

 「全体として、専制、民主、および放任の状況における行動の差異は個人差の結果ではないということを示す証拠は充分にあると思う。専制のはじまった最初の日に児童たちの顔面の表情が変わってゆくのを目撃したときほど私が強い印象を受けた経験は今まであまりなかったと思う」

『社会的葛藤の解決―グループ・ダイナミックス論文集 (1954年)』 (クルト・レヴィン訳:末永現代社会科学叢書)p108

 この研究によって、リーダーシップ・スタイルの違いがフォロワー(人間)の感情や成果の良し悪しに影響を与えると、わかりました。

 また、リーダー役は訓練を受けて「演技」をしていたわけであり、リーダーシップ・スタイルは「学びとることができる」という結論も導くことができます。同じひとりの人物が「専制(独裁)型」をやったり「民主型」をやったりしていたのです。リーダーシップ・スタイルは、個人で使い分けることが可能だといえます。

 では、続いて「集団の意思決定」に大きな影響を及ぼした「米国人の食習慣の研究」についてです。

米国人の食習慣の研究」

 「米国人の食習慣の研究」は、第2次世界大戦の勃発によって考案されたものです。人類学者マーガレット・ミードとレヴィンとの共同研究です。

 ミードは研究内容についてこう述べています。

「私たちの委員の任務はどうしたら国民の食習慣や食物の嗜好が変えられるか、またどうしたら彼らが新しい栄養科学の知見を取り入れるようになるかを研究し、政府機関に助言することであり、また、戦時下の急迫した状況のもとで、食物は不足し、やむを得ず食物の種類が変わらなければならない時にどうやってアメリカ国民の健康を維持するかを研究し政府機関に助言することでした。

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p39

 アメリカ人が「どのような食習慣であるのか」。

 その実態調査だけであれば、人類学者ミードだけで事足りたでしょう。心理学者レヴィンの出番となったのは、「人の食習慣をどうのように変えることができるか」という「意識の変化」を促すための有効な方法を発見するためでした。そのために、心理学者の知識が必要だったのです。

人々(集団)を変化させる方法

 レヴィンは社会的習慣をもつ人々(集団)を変化させることについて、『社会科学における場の理論』(訳:猪股 佐登留 誠信書房)で、こう述べています。

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レヴィン

 「リーダーシップの訓練や食習慣の変化における経験、仕事の生産性、犯罪、アルコール中毒、偏見などはすべて、諸個人を別々に変化するよりも、ひとつの集団を形成している諸個人を一括して変化する方が、通常容易であるということを示すように思われる。

 集団的価値が不変である限り、個人は集団的標準から遠く離れて行かなければならぬ程愈愈(いよいよ)強く変化に抵抗するであろう。集団標準がそれ自体変化すれば、個人と集団標準との間の関係によって生じていた抵抗は除去される」

『社会科学における場の理論』(クルト・レヴィン 訳:猪股 佐登留 誠信書房)p223 ※(いよいよ)と太字は本コラム執筆者「松山」が追記

 「集団標準」という言葉がわかりにくですね。「集団標準」とは、その集団(グループ)がもっている「価値観」「信条」「常識」のことです。すると、上の言葉でレヴィンが主張しているのは、次の3点だといえます。

人々(集団)を変化させる方法
  1. 「個人に」ではなく集団(グループ)にアプローチする
  2. 集団(グループ)に根づいている「常識」を変える
  3. 集団(グループ)の「常識」が変われば「個人」が変わる

 レヴィンの主張を簡単に言ってしまえば、こうです。

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レヴィン

「みんなが当たり前」と思っていることを変えないと、みんなは変わらないよ。だから、「みんなが当たり前」と思っていることを変えるんだ。そうすれば、ひとりひとりの個人は変わるよ!

 では、実際にそれは、どんな研究だったのでしょうか。

「米国人の食習慣の研究」の結果

 レヴィンたちが調査をすると「家庭で何を食べるのか」の決定権の多くは、主婦(母親)にありました。であれば、食習慣を変えるためには、主婦たちを説得することが効果的です。

 どうすれば主婦の意識を変え、行動を変化させることができるのでしょう。

 このテーマは「集団心理学」に関するものであると同時に、集団力学(グループ・ダイナミクス)と密接に関係する「集団意思決定」に関する実験ですね。

 食習慣の変化は、「新鮮なミルクを多く飲むようになる」です。

 レヴィンたちは中部西海岸寄りの「ある都市」に住む主婦を2つのグループにわけました。ひとつ目のグループでは、新鮮なミルクを飲むことの価値について「講義」だけが行われました。主婦たちは話を聞いただけです。

 ふたつ目のグループでは、主婦たちが互いに話し合い(グループ・ディスカッションをして)、「新鮮なミルクを飲むことはよいことだ」という結論に近づいていきました。集団的決定をしたわけですね。みんなで決めたので、みんなの価値観、信条が変わりました。これが「集団標準の変化」です。

 さてさて、その結果が、次のグラフです。

「集団決定と講義後にミルク消費増大を報告した母親のパーセンテージ」
『社会科学における場の理論』(クルト・レヴィン 訳:猪股 佐登留 誠信書房)p224掲載図(第34図)を元に作成

 文献に正確なパーセンテージが記されていないのですが、「集団的決定」と「講義」との間に、大きな差があることはわかります。「集団的決定」した主婦たちはミルクをよく消費するようになり、その変化が2週間後、そして4週間後も続いていたのです。

 これであれば食習慣が変化したといえますね。みんなで決めても、時間がたってミルクの消費量が下がったら、変化は一時期的であり、「食習慣の変化」とはいえませんからね…。

 練乳やオレンジジュースなど、他の「食習慣の変化を促す」研究でも同様の結果がえられました。集団決定したほうが変化が持続する。これがレヴィンの発見です。

 ちなみにレヴィンは、企業の生産性をあげる研究にも取り組んでいます。経営陣のトップダウンではなく、社員たちに集団決定させることで、生産性を高めることに成功しています。

組織変革の3段階モデル(プランド・チェンジ)

 レヴィンは集団(グループ)の変化を計画的に引き起こす研究によって、3つの段階があることを示しています。

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レヴィン

 計画的社会変動溶解、水準変化及び新水準の凍結から成っていると考えられるであろう。これら3点のすべてについて、集団決定は集団的手続きのもつ一般的特徴を具備している。

 もしも個人的手続きをしようするならば、価値標準に対する個人の依存関係に相応する力の場が、変化に対する抵抗としての作用する。しかしながら集団標準の変化に成功するならば、この同じ力の場が個人の変化を容易ならしめ、個人の行為を新しい集団の水準に安定させる傾向をもつであろう。

『社会科学における場の理論』(クルト・レヴィン 訳:猪股 佐登留 誠信書房)p225

 『組織開発の探究 理論に学び、実践に活かす』(中原 淳  中村 和彦 ダイヤモンド社)では、レヴィンが「計画的社会変動溶解、水準変化及び新水準の凍結」と書いた3段階を「組織変革の3段階モデル」としています。

 3段階は「❶解凍→❷変化→❸再凍結」となっています。

『組織開発の探究 理論に学び、実践に活かす』(中原 淳  中村 和彦 ダイヤモンド社)
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 そして、3段階のプロセスを「プランド・チェンジ」(Planned Change)と記しています。レヴィンの記述だと「計画的社会変動」にあたりますね。「プランド・チェンジ」(Planned Change)ですから、「計画的変化」「計画的変革」なんていえるでしょう。

 「組織変革の3段階モデル」は、レヴィンの文献から次のようにまとめられます。

組織変革の3段階モデル
  1. 解凍
    組織(集団)における常識・価値観が変化し始める段階
  2. 変化
    古い常識・価値観から新しい常識・価値観へと移行していく段階
  3. 再凍結
    新しい常識・価値観が組織(集団)に根付き行動に影響を与えるものになる段階

 この3段階を、先ほどお話しした「食習慣の変化」でいえば、こんな感じですね。

 ❶「解凍」=「ミルクを飲むと体にいいのね」と理解し始める。
   ⏬
 ❷「変化」=「ミルクを飲むと体にいんだって、みんなで飲みましょうよ」「そうなの、だったら私も飲もうかしら」「じゃあ、私も…」と、集団で「常識・価値観」が変化、共有されていく。
   ⏬
 ❸「再凍結」=【1年後】「ミルクを飲むと体にいいから今日も、ミルクを買って飲むわよ」と、新しい「常識・価値観」が個人に根づきに、その変化が維持されている。

「組織変革の3段階モデル」もレヴィンの業績のひとつです。

 いかがだったでしょうか。アイオワ大学時代の功績として「民主的および独裁的リーダーシップ」「米国人の食習慣の研究」の2つについて説明してきました。ビジネスリーダーの方ですと、リーダーシップに関する研究は、どこかで読んだり聞いたことがあるでしょう。

 それでは、アイオワ大学の9年間に別れを告げて、MIT(マサチューセッツ工科大学)時代へと移行していきましょう。


アイオワ大学時代。

 アメリカで名声を高めたレヴィンは、多忙を極めました。大学だけでなく、企業や国の機関と連携し仕事をするようになっていました。

 社会にある問題を解決するための研究「アクション・リサーチ」(実践研究)を標榜するレヴィンとしては、大学の「外」と関わることでより充実した研究に取り組めます。そうなると大学の「中の仕事」が億劫になってきます。

 レヴィンは研究に専念できる「研究所」の設立を考えるようになります。そして行動家の彼ですから、設立に向けて実際に動き出すのです。資金を提供してくれる財団をあたり、他の大学に打診をしました。そうした動きはアイオア大学側にも知られてしまい、レヴィンの大学内での立場は段々と難しいものになっていきます。

 するとMIT(マサチューセッツ工科大学)のダグラス・マグレガー教授が学長を説得してくれて、「MIT集団力学研究センター」の創設が決定するのです。ダグラス・マグレガーは、モチベーション理論「X理論・Y理論」を提唱した、あのマグレガーです。

 1944年9月、レヴィンはアイオア市を去ります。4ヶ月ほど国の戦略事務局の仕事もあってワシントンで過ごし、1945年、家族でマサチューセッツに移り住みました。

 この時期のレヴィンについて『クルト・レヴィン』の著者A.J.マローは、こう書いています。ちなみにA.J.マローは、共に研究をしたレヴィンの弟子といえる存在です。

 彼(レヴィン)のエネルギーは、むしろ、集団過程に向けられていた。そして、彼の考えでは今までの知識を一つにまとめて、あらゆる集団(家族、労働集団、宗教団体、地域社会)に適用される一般理論を構成することが可能であると信じていた。彼はリーダーの選択、集団的雰囲気の形成、集団の意思決定、メンバー相互のコミュニケーション、集団基準の成立などの研究をもくろんで、いろいろな領域に関する資料収集たのめの実験を計画した。

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p292

レヴィンの初期の研究対象は、「個人」に焦点が絞られていましたが、時が経つにつれて「集団」へと移っていったのです。

グループ・ダイナミクス」とは

 「MIT集団力学研究センター」の名前に「集団力学」とあります。これが「グループ・ダイナミクス」ですね。

 参考文献『クルト・レヴィン』に集団力学(グループ・ダイナミクス)に関する説明があります。

集団力学(グループ・ダイナミクス)とは
「集団力学とは何かというと、それは「力学」(ダイナミックス)という言葉が示しているように、人間集団のなかに働くプラスおよびマイナスの力を扱う学問(中略)集団としての行動の原理がよく理解されれば、社会が望ましいと思う方向に集団を役立てる方法も明らかになるだろう」
『クルト・レヴィン』(誠信書房)p295

 「集団(グループ)を徹底的に研究し、社会に役立てよう」。これがレヴィンの志です。レヴィンは「MIT集団力学研究センター」設立にあたり、こう書いています。

集団力学センターは二つの必要性から生まれた。一つは科学的な必要であり、もう一つは実用的な必要である。社会的経営管理学の領域で必要とされる知識は、個人や社会的集団が提供してくれる毎日の経験や伝統や記憶以上のものでなけれならないということに、私たちは今やっと気がつきはじめた。私たちが必要なのは科学的な理解である。……行政や農業や工業や教育や地域社会生活の代表的実践家は、『良い理論ほど実用的なものはない』という言葉が、社会的経営管理の領域にも妥当するという事実に、ようやく気がつき始めた兆候がますますはっきりしてきた」

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p302

 「MIT集団力学研究センター」には、アイオワ大学時代の弟子たちも集まり、レヴィンにとって最高の環境が整いました。

 この時期の業績として、私たちがよく聞くのは、「感受性訓練」「Tグループ」(トレーニング・グループ:Training Group)です。そこで、MIT時代の功績として、「感受性訓練」「Tグループ」についてお話しします。

「感受性訓練」と「Tグループ」

 1946年、コネティカット州人種関係委員会からレヴィンに援助を求める連絡が来ます。人種差別や宗教的偏見に対処するための「効果的手段」や「指導者の訓練」(リーダーシップ・トレーニング)について助言を求めてきたのです。

 レヴィンはその要請に応じて「新しい指導者訓練」の計画を立てることにします。この計画では41人の研修者に2週間の訓練を行う予定でした。

 募集をすると訓練を受ける研修生の約半数が、黒人とユダヤ人となりました。職業は教育者や社会事業機関で働く人たち。個人面接をすると、「他人を扱う技術」「人々の態度を変える信頼性のある方法」を知りたいという声が聞かれました。

 この指導者訓練の特徴は「研修会が研究会でもある」という点です。研修で実施した内容やその効果について、レヴィンらスタッフがデータを集めて検討し話し合うわけです。

 2週間の訓練期間中、日中に行われる研修が終わると、研修生の多くは家に帰えります。でも、残る人もいます。残る人は何もすることがないので、ある晩、レヴィンらスタッフが行う日中の研修内容を検討するミーティング(フィードバック・ミーティング)に参加することになりました。

 研修生は、自分たちがどんな風に検討・評価されているのか直接、聞くことになります。「それはあまりよくないのでは」という声もありましたが、オープンなレヴィンが許可したのです。

 研修生で参加したのは3人でした。するとスタッフが検討している内容について、研修生は鋭く反応します。スタッフ側が「この人の行動の理由はこうではないか」と客観的にとらえようとしても、その行動理由について、一番知っているのは本人ですね。スタッフ側と研修生側との認識のズレについて話しは深まっていきました。

 この議論は、活発かつ充実した時間となりました。研修生がスタッフ側の裏舞台に参加することは、それまで行われていなかったので、とても斬新なミーティング手法となりました。

 レヴィンは研修生のリクエストに答えて翌晩も、研修生の参加を許します。すると、50人〜60人の参加者の半数が「フィードバック・ミーティング」に参加してきたのです。

 こうして、日中、「Tグループ」を主体として研修が行われ、夜になると、スタッフと研修生が一緒になって、自分たちの研修内容をふりかえり、お互いにフィードバックをするようになりました。

 まさに「研修会」であると同時に「研究会」となったわけです。

「Tグループ」と「感受性訓練」って何のこと?

 今、さらりと「Tグループ」と書きましたが、「Tグループ」とは、主として研修中に行われるグループ・ワークのことでした。「Tグループ」では、予め決めらたテーマがあるわけではなく、集まった人たちが話すことを自分たちで決め、その決めたことを実行に移していきます。

 誰がリーダーになるのか、誰がフォロワーになるか、その時その場で関係性がつくられていきますので、人間関係を構築するためのトレーニングになります。これがレヴィンから始まったいわれる「Tグループ」です。

 コネティカットで行われた、この「リーダーシップ訓練研究集会」は研修生に強いインパクトを与え、行動変容を引き起こしました。大成功に終わったのです。

 その証拠に、この成果を受けてNTL(National Training Laboratories for Group Development:国民訓練研究所)創設の話しが浮上し、実現されることになります。

 アメリカ東海岸で生まれた「Tグループ」NTLを中心に、レヴィンの弟子たちが実践を深め、広めていきます。やがて西海岸に「Tグループ」を実践する団体が設立されます。WTL(Western Training Laboratories)です。このWTLで生み出されたのが「感受性訓練」(ST:センシティビティ・トレーニング:Sensitivity training)です。

 「Tグループ」は、より「グループ」に焦点をあてますが、「感受性訓練」(センシティビティ・トレーニング)では、より「個人」にスポットライトを当てます。ただ、日本にこれらの概念が入ってきた時には、厳密に区別せず、ほぼ同じものと捉えられたようです。

 さて、レヴィンの功績で創設されたNTL(国民訓練研究所)は、1947年に第1回の集会が開かれました。多くの人が参加しました。


 ただ、残念なことに、その場にレヴィンはいませんでした。多忙を極めていたレヴィンは、1947年2月10日に心臓発作で急死してしまうのです。

 享年56歳。研究者としては、まだまだ「これから」という時でした。

 1947年、アメリカ心理学会の総会の中で、クルト・レヴィンの追悼記念講演が行われました。講演を行ったエドワード・C・トールマンは、こう述べました。

「臨床家のフロイト、実験家のレヴィン──このふたりは今日の心理学時代を築いた歴史の中で、他の誰よりも特にその名の残るふたりの人物である」

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p2

 日本では、レヴィンの名を知る人は少なく、フロイトのほうが圧倒的に有名です。フロイトとレヴィンの名前が並べられると、ちょっとした違和感を覚えます。

 ですが、名前は知られていなくても、彼の功績によって、心理学が社会に開かれ、大きく飛躍したことは確かです。ですので「社会心理学の父」といわれるわけです。

 今回、文献を読んでとても印象に残った一文があります。レヴィンの「仕事の哲学」ともいえる詩的な一文です。それを記して、本コラムを終えます。

 心理学者は不馴れないろいろなできごとに満ち充ちた広大な土地の中にいる。

 そこには自殺しようとしているひとびとがいるし、遊んでいる子もいる。はじめて言葉を言おうと唇の形をつくっている子もいる。恋に落ち、不幸な目に遭いながらそこから抜け出る道を求めようともせず、またそれのできないでいる人物もいる。催眠と呼ばれる神秘的な状態があって意志が他人に支配されてしまっているように見えることもある。より高い、よりむずかしい目標に向かって手を伸べているものもいる。

 集団に忠実なもの、夢みるもの、計画を立てるもの、世界を探検するもの等等、果たしない。それは広い大陸で、魅力に満ち、力を蓄え、誰も足を載せたことのない土地である。

 心理学はどこに財宝が隠されているかを探し出し、危険な知識を調べ、その莫大な力を支配し、そのエネルギーを利用しようとこの未知の大陸にいどむのである。

『クルト・レヴィン』(A.J.マロー 誠信書房)p2
クルト・レヴィン
クルト・レヴィン
(Kurt Lewin 1890―1947)
クルト・レヴィン 豆知識
「上司が部下にフィードバックをする」なんて、日常的に使っていると思います。この「フィードバック」という言葉は本来「電子工学」の専門用語でした。これを心理学の分野で初めて使ったのがクルト・レヴィンです。フィードバックは、人材研修の場で使われるようになり、それがビジネス用語として一般化していったのです。