清洲城修繕で、なぜ、秀吉は信長を呼んだのか?

清洲城修繕で、なぜ、秀吉は信長を呼んだのか?

 織田信長が天下取りの重要拠点にしていた城といえば清洲城(愛知県)です。ある日、暴風雨によって清洲城城の塀が壊れてしまいます。信長は清洲城を居城にしていました。居城とは殿様が住む城です。世は戦国時代ですから、敵がいつ攻めてくるかわかりません。城は命の砦。修築は火急の任です。

 信長は普請奉行の山淵右近に修繕するように命じます。普請奉行とは、城の工事を担当する現場監督ですね。ところが20日経っても修繕は完了しません。

 ここで豊臣秀吉の登場です。この話は秀吉が羽柴と名乗る前ですから「木下藤吉郎」時代のことです。普請奉行の山淵右近とは位に大きな開きがあります。藤吉郎が係長なら山淵右近は取締役クラスです。

 小説家吉川英治『新書太閤記』(講談社)では、秀吉は工事の遅さを右近に指摘し右近を怒らせています。右近は信長に秀吉の無礼を報告。信長は秀吉に「右近に謝れ」と命じます。

「三日普請」成功のポイント

 その時、秀吉は「20日もかかって工事が完成していのだから、自分のほうが正しい」とごねます。信長が「じゃあ、お前なら何日でできるのだ?」と尋ねると、「私なら三日で終わらせてみせます」と秀吉は大言を吐きます。「じゃあやってみろ」ということで、秀吉は修繕の現場監督を命じられるのです。

 「三日普請」と言われる秀吉の逸話ですね。「3日で仕上げた」という文献もあれば、「1日で仕上げた」という記述も見たことがあります。『写真で見る豊臣秀吉の生涯』(著:石田多加幸 新人物往来者)に、こう書かれています。

「人夫たちは我先に石垣を築きあげてわずか一日で完成させた。と江戸初期の『甫庵太閤記』には記し、同中期に著した『絵本太閤記』では三日間で完成させた、とある。

『写真で見る豊臣秀吉の生涯』(著:石田多加幸 新人物往来者)p22

 なるほど出典が違うのですね。後世に書かれた人物伝は、話を面白くしようとして創作部分が入っていますので、実際どうだったかはわかりません。ちなみに、吉川英治『新書太閤記』(講談社)は「三日説」を選択しています。

 1日だったか3日だったか、この清洲城修繕の逸話そのものが真実だったかは別にして、秀吉が名采配をふるった話は、今を生きるリーダーにとって参考になります。ポイントは、次の通りです。

「三日普請」成功のポイント
  1. 塀の修理箇所を10等分にする
  2. 作業員も10組にわける
  3. 1組が1箇所を担当する
  4. 誰と誰が組むかは作業員に決めさせた
  5. どこを担当するかはクジ引き
  6. 作業を最初に終えた組には、信長様より“報奨金”が出ると競争させた

 秀吉は「工事区分を分割」し「報奨金が出るといって競争させた」ました。さらに秀吉は工事の進捗を確認してもらうため、「信長を現場に呼んだ」という文献を読んだことがあります。

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まっつん

 秀吉の采配によって右近奉行の時には、まるで進まなかった工事が3日で完成してしまいます。信長公が賞金を出すという確約は、実は、とれていなかったそうです。

 ただ、「約束の期日を守ったら、賞金を下さい」というお願いはしてありました。秀吉にとって、報奨金は“賭け”でしたが、結果は大成功。秀吉は一目を置かれる存在になっていきます。

清洲会議

 さて、ちょっと余談ですが、「3日普請」を成し遂げた清洲城は秀吉が天下人への出発点ともいえる「運命の城」です。

 「3日普請」から時は流れに流れ、「本能寺の変」が起きます。信長は世を去りました。その報を聞き、秀吉は「山崎の合戦」で明智光秀を討伐。その後、信長の重臣が集まり、織田家の後継者と領の配分を決める会議が開かれます。

 秀吉は、後継者問題で「柴田勝家」と対立します。柴田勝家が専務取締役なら、秀吉は「平の取締役」といったところでしょうか。羽柴秀吉の「柴」は、柴田勝家からもらっています。大恩人です。

 柴田勝家を後継者にするのが自然ですが、この時参加した、重臣「丹波長秀」と「池田恒興」が最終的に秀吉を支持し、勝家案は却下されます。この時、秀吉の天下人への下地が完成されたと言われています。それほど、重大な会議でした。その会議が開かれた場所。それが「清洲城」です。世に言う「清洲会議」とはこの事。

 運命とは、なんとも不思議ですね。

秀吉の名采配

 目標をシンプルにし、達成に向けて競争させる。成績優秀者には何らかの報奨がある。これは「成果主義」のことであり、今もビジネスの現場で行われていることです。秀吉の時代から「人のモチベーションを高める原理原則」は変化していないともいえます。
    
 そして、史実として確かかは別として、秀吉がもし信長を呼んだのだとしたら、その点こそ「名采配」です。

 「信長様がわざわざ来てくださった」

 その思いは信長様への「畏敬の念」ですが、同時に「今、自分のしている仕事は、とても価値あることだ」という感覚を工事人たちに抱かせます。

 心理学でいう「自己重要感」ですね。

 「自己重要感」とは「自分の存在に価値があると思えている感覚」のことです。「自己重要感」は人のモチベーションを左右します。

自己重要感が人のやる気を引き出す

 例えば、「この会社に自分は必要な存在だ」と思えている時と、「いても、いなくても変わらない」と否定的になっている時では、どちらが「やる気」は高まるでしょうか。もちろん後者ですね。

 社員が数万人、数十万人という会社が日本にはあります。そんな大企業で働く人に話しを聞くと、「社長を直接に見たのは入社式の時だけ」「テレビやネット上で見るけど話したことなど一度もない」と口にします。これは決して珍しくない話しです。

洲城「The castle of Kiyosu in Kiyosu, Aichi, Japan」
清洲城
「The castle of Kiyosu in Kiyosu, Aichi, Japan」
Autor:Oliver Mayer

 「3日普請」の時に、信長が来たことを現代風に例えれば、そんな大企業で、現場仕事をしていたら、突然、代表取締役社長がやって来て「この仕事は、辛いだろうけど、とても大切なことだから、がんばってくれ」と励ましてくれたようなものでしょう。

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まっつん

 今という時代では「社長が来ても別に何とも思わない」という人もいるでしょうけど、戦国時代と今とでは感覚が違います。「信長様がわざわざ来てくださった」という感慨は、工事人たちの「自己重要感」を一気に高めたことでしょう。

 「人たらし」と言われた秀吉です。自分自身が、信長に目をかけてもらい低い身分から「やる気」を引き出され立身出世を果たしています。「どうすれば、人はやる気を出すのか」。自分の胸を手を当てればわかったのかもしれません。

 「自分は価値ある仕事をしている価値ある人間だ」

 リーダーとして、部下にそう思わせることができたら、部下はモチベーションを高めるでしょうし、そのリーダーは効果的なリーダーシップを発揮していることになります。

(文:松山 淳)


【参考文献】
『写真で見る豊臣秀吉の生涯』(著:石田多加幸 新人物往来者)
『新書太閤記』(吉川英治 講談社)
『新編 絵本太閤記』(歴史絵本研究会 主婦と生活社)
『現代視点 戦国・幕末の群像 豊臣秀吉』(水上勉 城山三郎ほか 旺文社)