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佐藤初女の言葉に学ぶ生きる力

佐藤初女の言葉に学ぶ生きる力

 「日本のマザーテレサ」と、呼ばれる佐藤初女さん(1921〜2016)。青森県にある岩木山のふもとに「森のイスキア」をつくり、心を病んだり、生きる苦しみを抱えていたりする人々を、心の温まる手料理でもてなし、癒していた人です。佐藤さんの活動は、多くの人に知られるようになり、龍村仁監督の映画『地球交響曲 第二番』でも紹介されました。

 数々の苦難を乗り越えてきた初女さんが遺した言葉は、今を生きる私たちを勇気づけてくれます。その生涯をふりかえり、「心の力」になる言葉をご紹介していきます。

数々の苦難を乗り越えた初女さんの人生

 悩める人を救い続ける「森のイスキア」の活動が続いたのは、佐藤初女さんのお人柄につきますが、真心を込めた手料理が多くの人を魅了しました。佐藤さんの「おにぎり」を食べて、自殺を思いとどまった人もいます。

辛い闘病体験で食べ物の力を知る

 初女さんが「食」に興味をもったきっかけは、闘病体験にあります。お父様は事業を営んでいましたが、やがて立ち行かなくなり、株にも手を出し失敗し、家が差し押さえられてしまうのです。

 1934年、13歳の時に、一家は青森から函館に引っ越します。こうした家庭環境にあって17歳(1938年)の時に「肺浸潤」(はいしんじゅん)におかされます。笑ったり咳をしたりしただけで、血管が切れる辛い病気です。

 ある時、大量の血を吐き動けなくなりました。初女さんは薬を飲むより、食べ物を口に入れることで、体に力がみなぎるのを感じました。この体験をきっかけに「食」に深く興味をもつようになるのです。

洗礼名を「テレジア」に。

 療養のため初女さんは青森に戻り、「青森技芸学院」(現・青森明の星高等学校)に入学します。その運営母体が修道会で、キリスト教と深く関わっていくことになります。

 「青森技芸学院」での学校生活でも、病に苦しめられます。登校しても授業に出られず、静養室で寝ていることもありました。ある日、静養室で休んでいるとシスターが『小さな花のテレジア』という本を置いていきました。

まっつん
まっつん

「テレジア」とは19世紀を生きたフランスの修道女「聖テレーゼ」(1873-1897)のことです。病を発症しながら厚い信仰心をつらぬき24歳で亡くなりました。マザー・テレサの「テレサ」は、「聖テレーゼ」からつけられたものです。

 病に苦しむ姿が自身と重なり、テレジアの生涯に深い感銘を受けます。初女さんは、1954年、33歳で洗礼を受けた時、洗礼名を「テレジア」としました。

人のために働けることが喜び。

 高校を卒業後、初女さんは18歳(1939年)で、小学校の先生になります。病は完治していませんでしたが、未来の旦那様となる佐藤又一校長との出会いを果たします。

 闘病生活は長くなり、佐藤さんが完全に病を克服したと感じたのは35歳(1956年)の時でした。長い病との闘いをくぐり抜け、健康に感謝した佐藤さんは、こんな言葉を残しています。

佐藤初女の言葉

よく「何で私だけがこんな辛い仕事をしなくてはいけないのか」と、不満をこぼす人がいます。ずっと健康に過ごしてきた人は、働けることの喜びになかなか気づかないようです。でも、本当は働けないことの方がずっと辛いのです。私は、多くの人に支えられて病気を克服するという体験の中から、生きる上で、人のために働けることにまさる喜びはないということを学びました。

『おむすびの祈り』(佐藤初女 集英社)p44

まっつん
まっつん

私もカウンセラーとして、心が疲れ果てて働けない状態になってしまった人のお話しをお聴きしています。その辛さ苦しさは、いろいろなことが複雑に絡まっているものですが、自分を責めてしまう原因のひとつに、「働けないことで、誰の役にも立てていない」という罪悪感は、とても大きなものです。ですから、「人のために働けること」は、人生に喜びをもたらすものです。


「森のイスキア」の原点

 1944年、初女さんは24歳になった年に、佐藤又一校長と結婚をします。又一さんはその時、50歳でした。26歳離れた「年の差婚」でした。

 ただ、簡単に結婚できたわけではありません。年の離れた結婚であったこもありますが、佐藤又一さんには前妻との間に、三人の子どもがいました。長男は初女さんと同い年です。

 初女さんの両親が大反対。ですが、又一校長の熱意が通じて、最後の最後まで反対して母親も、最後は父親が「許さざるを許し、耐えがたきを耐えて、娘の結婚を認めてやるのが母親としての務めではないか」と説得し、結婚することができました。

まっつん
まっつん

 結婚は人生における華やかな出来事ですが、世は、戦争一色です。佐藤さんが居を構えていた青森市も空襲があり、焼け野原となってしまいます。そこで、結婚を機に、ふたりとも小学校を辞め、恩人の勧めもあって青森市から弘前市へ引っ越すことになります。

 又一さんは弘前に移るとバス会社に務めます。1947年、初女さんが26歳になる年、子どもを授かり、翌年、出産します。そして、1953年、32歳になる年に、女学生時代からの念願だった「ろうつけ染め」を習うことになるのです。

「森のイスキア」の原点。

 「ろうつけ染め」とは、日本の伝統的な染物技法のひとつです。「ろうつけ」の「ろう」とは「ろうそく」の「ろう」です。初女さんは幼い頃、デパートに飾られる高価な「ろうつけ染め」に心ひかれていました。女学生だった時、「ろうつけ染め」の授業がありました。「これで習える」と喜んだものの、病のために願いが叶わなかったのです。

 長年の念願が叶い「ろうつけ染め」の技術を習得すると、1957年の36歳の時には、初女さんの作品が全国の百貨店に出品されます。これを機に、各地に赴き「ろうつけ染め」の指導をするようになります。

 やがて自宅で「ろうつけ染め」を教えるようになりました。すると、初女さんの家には、たくさんの人が訪れるようになったのです。自然と世間話となり、悩みも聞くようになります。

 これが「森のイスキア」の原点です。

 こう考えると、映画にもなった初女さんの活動は、「ろうつけ染め」を学んだことによって切り開かれていったといえますね。

天からの啓示!?

 この活動は、初女さんの力強い信仰心にも支えられていました。弘前に移り住んでからは教会に通うようになっていました。前段に書いた通り、1954年、弘前カトリック教会で洗礼を受けています。洗礼名は「テレジア」でした。

 弘前カトリック教会のヴァレー神父は、初女さんが敬愛した恩師です。ある日のミサで、神父が「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない」と語りました。

 帰り道に、「自分には何ができるのだろう」と、この言葉を繰り返し考えていると、初女さん突然、ひらめきます。このひらめきについて、こう書いています。

佐藤初女の言葉

 それは「心」でした。心は水が湧き出るように無尽蔵に絶えることがない。心を与えることは私にもできる。こう考えついたとき、周囲の風景が突然明るくなったような気がして、私は本当に豊かな気持ちで満たされました。
 これをきっかけとして、私は「他人を生かすことによって自分も生かされる」ということを実感として受けとめられるようになりました。

 「天からの啓示」でしょうか。心理学でいう「至高体験」ともいえます。「至高体験」をした多くの人が「周りが明るく見えた」と報告しています。この体験から、初女さんは本格的に奉仕活動に身を捧げたいと願い始めます。

 又一さんは、定年の60歳までバス会社で働き、その後、校長だった経験を生かし、弘前市堀越の教育長として活躍しました。ですが、1973年、79歳で病に倒れ、初女さんにみとられこの世を旅立ちます。初女さんが52歳の時でした。

鈴木教授の助けで「弘前イスキア」が完成。

 夫を失った体験も、初女さんの背中をさらに強く押しました。1979年、自宅を改築して「ろうつけ染め」教室を開き、悩める人を泊め奉仕の精神を発揮していました。ただ、もっと多くの人を受け入れたいと考えるようになっていたのです。

まっつん
まっつん

 この時、助け船を出してくれたのが、聖心女子大学教授で文学博士の鈴木秀子さんです。鈴木教授といえば、修道院生活の時に臨死体験があって、人を癒す不思議な力をもつようになった人物です。性格理論の「エニアグラム」を日本に紹介した人物としても有名ですね。

 初女さんは講演を依頼して鈴木教授を弘前に招いたことがありました。それから、初女さんと鈴木教授は深い絆で結ばれていました。

 佐藤さんの思いを知った教授は、寄付金を集めるために方々へ声をかけてくれたのです。そして、1983年、自宅の2階が増改築されて「森のイスキア」の前身となる「弘前イスキア」が誕生します。

「弘前イスキア」の運営が始まり、迷いがあったものの、その頃の心境を初女さんは力強く、こう語っています。

佐藤初女の言葉

 今ある現実に心を通わせ、真実に関わることによって道が示されるということには、確信を持っていました。自分にできるのはほんの小さなことだけれど、自分を捨てて捧げたときには、神様は自分の力を超えた偉大な力を与えてくださるのです。

『おむすびの祈り』(佐藤初女 集英社)p155


人との出会いによって生まれた「森のイスキア」

イスキアとは。

 さて、「弘前イスキア」「森のイスキア」と聞いて、「イスキアって何?」と疑問を持たれたことでしょう。「イスキア」は、イタリアにある火山島の名前です。「イスキア島」まつわる物語があるのです。

イタリア イスキア島
Views of Ischia from Procida – photo by Romina and it:utente:Retaggio

【イスキア島の物語】
 ナポリの大富豪の子息が、ある女性と恋に落ちました。その美しい女性に想いが通じた瞬間に、青年はどうにもならない「虚しさ」に襲われます。「虚しさ」にとらわれ、生きる気力を失った青年は、少年時代に訪れた「イスキア島」を思い出します。「イスキア島」を訪れた青年は、廃墟になっていた教会に住み、豊かな自然にふれることで「生きる気力」を取り戻します。

 この物語から佐藤さんは、人々を癒す自分の活動拠点に「イスキア」という名前をつけたのです。

悩める人に対峙する初女さんの信念。

 心の病を負った人も含めて、多くの悩める人を受け入れてきた初女さんです。では、どんな信念をもって苦悩する人たちに対峙していたのでしょう。初女さんはこういっています。

佐藤初女の言葉

 悩みを抱える人の多くは、本当はどうすればいいのか、自分でわかっています。ですから、ああしなさい、こうしなさいと、指図するのでなく、そばにいて共感し、その人が自分なりの解決の方法を見つけるのをお手伝いするのが、私の役目なのです。

『おむすびの祈り』(佐藤初女 集英社)

まっつん
まっつん

 この言葉は、まさに「カウンセラー」が強く心がけることですね。聴くこと、共感することには、疲れた人の心を癒す不思議な力があります。初女さんは、難しいカウンセリング理論など知らずとも、数多くの人と接してきた体験から、自分なりの悩める人の「支え方」「救い方」を体得されていたのでしょう。

 「弘前イスキア」の活動は広く知られるようになり、苦しみを抱える人たちが、次から次に佐藤さんのもとを訪れるようになりました。10年が経過し、活動の幅が広がれば広がるほど、自宅では対応しきれない限界を感じるようになりました。

 初女さんは「森に囲まれた自然の中にみんなが集い、安らげる場があれば」と、新た場を求めるようになっていたのです。

 すると、弘前イスキアの活動に深く理解してくださった方のご両親が、金銭面で支援してくれるといいます。その後、多くの人たちからの寄付もあり、岩木山のふもとに土地を購入して、1992年10月18日、「森のイスキア」が完成します。温泉がひかれ収容人員は30名ほどの施設となりました。

 後になって判明するのですが、「森のイスキア」は、イタリアの「イスキア島」と同じ緯度にあったのです。

 数々の出会いによって人生を切り開いてきて、初女さんに、こんな言葉があります。

佐藤初女の言葉

 人と人との出会い、人と物との出会い、この出会いなくして、今日のわたしはありません。出会いの中から気づき、気づきということがないと、次に進むことはできません。

 ただ漠然と出会っているのなら、そこに何も出てきませんけれど、出会う時に気持ちを通わせて、真実を持ってお会いしていると、何かが次につながっていけるように思います。

『いまを生きる言葉 「森のイスキア」より』(佐藤初女 講談社)p88


世界へ広がった初女さんの想い

 1992年、「森のイスキア」が完成したのは、初女さんが71歳になる年のことです。そして、1995年(74歳)に、龍村仁監督のドキュメンタリー映画『地球交響曲第二番』が公開されます。

 この映画に登場した人物は、次の通りです。

・佐藤初女(森のイスキア主宰)
・ジャック・マイヨール(海洋冒険家)
・フランク・ドレイク(天文学者)
・14世ダライ・ラマ法王(チベット仏教最高指導者)

 いずれも世界に名を知られた人物であり、このリストに並んでいる事実を考えただけで、初女さんの偉大さが伝わってきます。

 この映画がきっかけとなり、初女さんは世界各地で講演をするようになります。2013年(91歳)には、ダライ・ラマにも会い「おむすび」をふるまっています。米国では「おむすび」の講習会も開催したことがあり、初女さんの活動を世界の人々が賞賛しました。

 享年、94歳。まさに「日本のマザーテレサ」でした。

 71歳で夢を実現し、その年齢からさらに、世界へと飛翔した初女さんの人生には、ただただ頭が下がります。

 深い信仰心が初女さんを支えつつ、ひとつひとつの経験によって得た「気づき」が「生きる力」となり、さらに初女さんを強くしていったのでしょう。

 それでは、最後に、初女さんの信念のと感じる力強い言葉を記して、このコラムを終えます。

佐藤初女の言葉

 何をしようかとか、自分は何がしたいのかと考える前に、今このとき、自分の目の前にあることに忠実に心をこめて動くことで、答えは自ずと出てきます。ただ考えているだけで何も動こうとしなければ、何も見えてはきません。動くこと、行動に移すことが何より大切なのです。

『おむすびの祈り』(佐藤初女 集英社)

(文:松山淳)